主演映画第二作の撮影もこの頃にはじまった。 表紙に 『きみを抱きしめる腕八本』 と刷られた脚本がMはお気に召さぬご様子だった。 R発案による仮題から着想したと思しきカルト教団の設定がヒンドゥーの神々に失礼だというのだ。 あんた孫悟空なんだから神猿ハヌマーンの仲間には敬意を払わなきゃだめだ、 なんて意味不明な説教までされた (一九九四年だったか、 里帰り公演の打ち上げで明け方に流れ着いた店で、 踊り疲れた若者たちがぼんやり眺める吹き替え再放送を見て初めて、 あいつが僕をあのやんちゃな暴れん坊に重ねていたことを知った)。 ドキュメンタリー風だった前作とはうって変わり、 マルクス兄弟風〇〇七とでもいった風の、 海や雪山で遊びたいという僕らのわがままとバハマでの税金対策を兼ねた、 『西遊記』 も顔負けの荒唐無稽な筋立てだった。 ビリー・ワイルダーの無駄のない喜劇を好むMにしてみれば冗長すぎ、 おまけにあいつの大嫌いな軍服や戦車まで出てくる。 海が赤くなる場面はアニメーションを合成するんだろ、 まさか染料を垂れ流したりなんかしないよな、 日本じゃそういうのが社会問題になってるぞ……などと心配され、 山火事やら洪水やらの気候変動をいまだ知らず、 ジェット機で仲間と世界を飛びまわっていた僕は、 気の小さい奴だなぁと大笑いした。 七月末の蒸し暑い夜、 王族を招いた試写会でMは案の定、 Gのスタントには手に汗握ったし何よりRが最高だ、 きみが本を読む冒頭の場面も好きだよ、 でも……なんていいつつ渋い顔をし、 雪山の場面なんか 「イッてる」 が 「隠せない」 になっちゃってるけどいいのかいと苦言を呈した。 この撮影でPはスキーの腕前をみんなから褒められた。 あいつはなんでもそつなくこなす。 僕はその少し前にGMと、 互いの連れ合い同伴で練習したけれどさして上達せず、 GMに至ってはくじいた足をしばらく引きずるはめになった。
Gが撮影所で小道具のシタールを興味津々で手にしたのは二ヶ月後。 さらにその数日後には、 決まったばかりの題名を盛り込んだ主題曲を急遽でっち上げた。 その制作中ずっとMは何かいいたげで、 僕が歌唱を吹き込んだ九テイク目ではついに体を前後に揺らしはじめた。 僕はまた難癖をつけられるのかと身構えた。 ところが一二テイク目でGが下降するリフを重ねて 「お助け!」 が完成すると、 あいつは満面に笑みを湛え、 骨が折れそうなほどの勢いで僕の背中を叩いてきた。 よぉ作家、 ついにやったな! その喜びようにGとRは戸惑い、 キーウェストのモーテルでひと足先に僕の弱い内面を知ったPはニヤニヤした。 戦場では自分を勇敢だと思い込んでる奴から先に死んでった、 本当の勇敢さってのは弱みを認めることだ……とMが前にいったのを僕は思い出した。 その会話を交わしたときPは確かいなかったはずだけれど、 妙に察しのいいあいつはMのいわんとすることに内心で同意したのだ。 身内でもっとも辛口の批評家ふたりに肯定されると急に悪くない気がしてきた。 それどころか代表作とすら称すべき傑作に思えたから妙なものだ。
Pが広島、 長崎やビキニ環礁の話をMに聞かされて、 物理学者やら哲学者やらと議論するようになったのもその頃で、 あいつが核兵器反対の声明を発表した四月、 僕ら夫婦はGとお茶の間アイドルとともにベイズウォーターの売れっ子歯医者宅に夕食に招かれた。 いまじゃ考えられないことだけど、 僕らが子どもの頃の歯科医はいかなる薬も合法で手に入れられる立場にいて、 上流階級の気どった富豪どもは決まってそいつらの世話になっていた。 きっと戦争で余った薬が市場に出まわってたんだろう。 MやマルEの大好きな古い探偵小説にはその手の小悪党がよく出てくる。 美大の同級生やハンブルクの便所小屋の競演者からコカインを薦められても僕やPが感銘を受けなかったのは、 乳歯の治療で似たような薬を処方されていたからだ。 ところが芥子やコカや麻黄に由来する昔ながらの薬とちがって、 スイスの製薬会社で麦角菌アルカロイドからリゼルグ酸ジエチルアミドが合成されたのはポーランド侵攻の前年。 そのすばらしい薬効が発見されたのはこの夜からちょうど二十年前、 山本五十六が戦死したりワルシャワの人種隔離地域で武装蜂起があったりした頃で、 まだ歴史が浅く入手経路も限られていた。 シカゴで美容歯科を学んでハーリー通りで開業し、 人気芸能人や流行の芸術家に取り入って成功したこの巡査の息子は、 ロンドンの高級キャバクラ経営者からそのブツを手に入れたらしく、 噂じゃグレイトフル・デッド御用達の上物だったとか。 米国中央情報局が元ナチを集めてやらせた研究では、 ほのかな苦みのあるこの透明な結晶は妊婦を流産させ廃人を量産する一方、 その計画が目論んだような成果は得られなかった。 思考を乗っ取って大人たちに議会を襲撃させたり子どもたちに自殺させたりって意味じゃ、 我らがティモシー・リアリーが晩年に見た夢は正しかったわけだ。 あの大先生はそれを何かいいことだと思ってたみたいだけど。
風呂に入って洗濯した服を着るくらいに衛生観念は改善されていたとはいえ、 酒と薬と砂糖水で元気をつける暮らしが長すぎて、 僕らの歯はガタガタだった。 とりわけGの乱杭歯には大工事が必要だった (この話題になったときMは 「芸能人は歯が命!」 と叫んですぐさま、 いや忘れてくれ、 日本人でもこのことわざを知る世代は限られると弁解した)。 おかげでGは眉の手入れを憶えるのと同時期、 一九六三年後半から六四年にかけて頻繁に通院して、 その歯医者とは連れ立って夜のクラブを巡るほどの仲となった。 この頃Mが話して聞かせてくれた日本とギリシャの神話によれば、 ひとたび冥府で煮炊きされたものを口にした人間は現世へ帰れぬという。 その夜の僕とGがまさにそうだった。 Mやティモシー・リアリーのいいまわしを借りれば脳を再配線されたのだ。
歯医者の愛人は素人の女の子を騙して高級キャバクラで働かせる周旋屋で、 貧民一家がその上で暮らせそうな金のかかった胸しか僕の記憶には残っていない。 その女が自分でつくったか缶詰から出したかしたご馳走と、 成金の僕らには馴染みのない高い酒 (自宅の蔵にはBEの選んでくれた葡萄酒が山ほどあったのに僕ら夫婦には価値がわからなかった) で楽しく歓談し、 次の約束があるんでそろそろお暇しようかという頃合いで、 いい豆が手に入ったとかいう口実で食後のコーヒーを執拗に薦められた。 お茶ならまだしも苦くて味の濃いコーヒーに何か混ぜられても気づきようがない。 こりゃ何かあるぞとGと顔を見合わせ、 まぁそこまでいうならと浮かした尻を椅子に戻した。 角砂糖はいくつ入れるかと問われて僕だけは九つくれと要求した。 なんだって他人より多いほうがいいと思ったのだ (この話を翌日に僕から聞かされたMはふたつで充分ですよと笑った。 未来の映画からの引用だと知ったのは例によってあいつの死後数年経ってからだ)。 僕の強欲に歯医者は笑みを禁じ得ず、 勇敢だねと感想を述べた。 含みのあるその台詞と、 ご自慢のコーヒーに自分じゃ口をつけない様子から、 女たちも何か不穏な事態が進行しつつあると察したようだった。 とりわけお茶の間アイドルは前々からこの歯医者を疑っていた。 どんな治療をするにもジアゼパムを静脈注射するからだ。 Yが日本で富豪一族の両親によって精神病院にぶち込まれていたときに大量投与された鎮静剤である。 意識を喪った患者にあの歯医者は何でもできた。 目を醒ましたとき下腹部に違和感があったところでだれも疑わない。 成人してからほかの歯医者を知らぬ僕とGはそれが普通なのだと思っていた。 まだ女学生のように見えるお茶の間アイドルは眉根を寄せてGの腕をつつき、 急かすようなことを耳打ちした。 Cも疑るような眼で不安そうに僕を見つめた。 Gはなぁもう行こうぜ、 Kの出番を見逃しちまうといいつづけた。 僕はすっとぼけて何も気づかぬふりをした。
案の定コーヒーは妙な味がして現実が変容しはじめ、 重力が僕らを地上へ引き留める確証がなくなった。 巨乳の女衒はビスマルク号が沈没するとくり返し叫んだ。 僕は一服盛りやがったなと叫んで歯医者の胸ぐらを掴もうとした。 胸も手も虹色に輝いて互いにすり抜けた。 歯医者とその愛人は麦角菌から分離した結晶を媚薬か何かと心得ていたらしく、 有名人カップル二組とのあいだに化学反応を期待して、 チェシャ猫よろしく淫蕩な笑みを浮かべていた。 いかがわしく邪なことじゃ人後に落ちぬ僕が、 映画撮影で知り合ったお茶の間アイドルをそんな眼で見たことが一切ないとまではいわないけれど、 歯医者の愛人には他人の口腔衛生さながらに関心がなかったし、 何より十代の頃から我が性欲最大の対象だったCには、 指一本たりともほかの男に触れさせたくはなかった。 そんな可能性は考えただけで世間の嗤いものにされた気分になる。 僕とGは口々に言葉にならぬ罵声を発し、 送っていってやろうと親切ぶる歯医者を振り切り、 それぞれの連れ合いの手を引いて (なぜかこのときはしっかり掴めたつもりでいたけれど、 もしかしたら自分の手を握っていたのかもしれない)、 それぞれの脚をフライシャー兄弟の漫画映画よろしくもつれさせ、 這々の体で逃げ出した。 「きみに抱きしめられたくない八本の脚」 ってわけだ。
連載目次
- Born on a Different Cloud(1)
- Born on a Different Cloud(2)
- Born on a Different Cloud(3)
- Get Off Of My Cloud(1)
- Get Off Of My Cloud(2)
- Get Off Of My Cloud(3)
- Obscured By Clouds(1)
- Obscured By Clouds(2)
- Obscured By Clouds(3)
- Cloudburst(1)
- Cloudburst(2)
- Cloudburst(3)
- Over the Rainbow(1)
- Over the Rainbow(2)
- Over the Rainbow(3)
- Devil’s Haircut(1)
- Devil’s Haircut(2)
- Devil’s Haircut(3)
- Peppermint Twist(1)
- Peppermint Twist(2)
- Peppermint Twist(3)
- Peppermint Twist(4)
- Baby’s in Black(1)
- Baby’s in Black(2)
- Baby’s in Black(3)
- Baby’s in Black(4)
- Hello, Goodbye(1)
- Hello, Goodbye(2)
- Hello, Goodbye(3)
- Hello, Goodbye(4)
- Hellhound on My Trail(1)
- Hellhound on My Trail(2)
- Hellhound on My Trail(3)
- Hellhound on My Trail(4)
- Nobody Told Me(1)
- Nobody Told Me(2)
- Nobody Told Me(3)
- Nobody Told Me(4)
- Paperback Writer(1)
- Paperback Writer(2)
- Paperback Writer(3)
- Paperback Writer(4)
- Anywhere I Lay My Head(1)
- Anywhere I Lay My Head(2)
- Anywhere I Lay My Head(3)
- Anywhere I Lay My Head(4)
- Anywhere I Lay My Head(5)
- Crippled Inside(1)
- Crippled Inside(2)
- Crippled Inside(3)
- Crippled Inside(4)
- Crippled Inside(5)
- Mother’s Little Helper(1)
- Mother’s Little Helper(2)
- Mother’s Little Helper(3)
- Mother’s Little Helper(4)
- Mother’s Little Helper(5)
- Flying(1)
- Flying(2)
- Flying(3)
- Flying(4)
- Flying(5)
- Setting Sun(1)
- Setting Sun(2)
- Setting Sun(3)
- Setting Sun(4)
- Setting Sun(5)
- Isn’t It A Pity(1)
- Isn’t It A Pity(2)
- Isn’t It A Pity(3)
- Isn’t It A Pity(4)
- Isn’t It A Pity(5)

@ezdog Bの奴らの2作目の映画がなかなかイッちゃってそうで逆に観てみたくなった!そしてMが「Help!」でJが自分の弱さを歌詞に出せたことをほめてくれたというのがいいな。それを知って改めて歌詞を読むと、人気が出て激変して変わっていったであろうJの内面がよく出ていると分かる。
胡散臭い歯医者と愛人に一服盛られたJ達のこれからが気になる。歯医者が薬を手に入れられたという背景は今から考えるとちょっとびっくりだなぁ。そして「芸能人は……」のギャグは笑っちゃったし、この状況なら絶対言いたくなる!ぴったりすぎる。
映画の話と歯医者事件が最後うまく絡んでまとまって粋で鮮やか!