アメリカの作家デヴィッド・フォスター・ウォレスは、私がその名前を耳にしたとき既に死者だった……。大長編『インフィニット・ジェスト』(Infinite Jest, 1996)の翻訳を巡る思考の冒険。
獲得されたり喪失されたりする「モノ」ではない女性を、言葉で表現することはできるのだろうか。
自殺したDFWがこういう男性的な発想を克服できたのかどうか、よくわからない──と言ってしまえば、やっぱりごまかしになるだろう。
たとえば、阿部が芥川賞を受賞した『グランド・フィナーレ』を例にとろう。
アヴリル・インカンデザという女性は、自意識の化け物だ。
大手コンビニの「ずっと夢を見て、安心してた」というあの歌を誰もが知っている。
前回の翻訳日誌で紹介した男ドン・ゲイトリーは、現在、社会復帰施設エネットハウス(略称)で働いている。
今回は、有名な翻訳者の「誤訳」を例に、小説の翻訳がどういう風に難しいのかを具体的に説明しよう。
1996年の『インフィニット・ジェスト』によって作家デヴィッド・フォスター・ウォレスの名は一躍高まる。
今回の『インフィニット・ジェスト』翻訳日誌では、文学と宗教の話をしよう。
翻訳とは、絶対に答えてはくれない誰かに向けて呼びかけ続けるようなところがある。