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連載第20回: Peppermint Twist(2)

アバター画像杜 昌彦, 2025年2月12日
Fediverse Reactions

Sは頭痛と眩暈に苦しみながらも寸暇を惜しんで情熱的な色をひたすら画布に叩きつけナイフで切りつけ粘土をこねてキャメラをまわし僕に負けじと長文の手紙を書き送ったわずかなりとも治療費の足しにすべく楽器を借りて地元グループと舞台に立つことさえあった無理が祟ったか大学で受講中に卒倒し屋敷へ担ぎ込まれたAの母親が呼んだ訪問医も過労のせいと診断し栄養剤を処方して煙草をやめて食餌療法をするよう説教しただけで帰ったAの母親はそれから毎日脂肪を丹念に取り除いた滋養たっぷりの料理に心を砕いた僕も次男を育てていた一時期パン生地をこねたり魚を焼いたり味噌汁をつくったりしていたからわかるのだけれどこれは楽なことでないにもかかわらずSの病状は悪化する一方で発作のたびに婚約者とその母親に当たり散らすようになった母娘がかれを見放さずひたすら耐えて介護したのは賞賛すべきか憐れむべきかYに車椅子が必要になっただけで途方に暮れ手際よく世話をする次男や使用人に置いてきぼりを喰らったかに感じる僕には想像もつかない
 二月後半にSは数日間手術を終えたばかりの母親に会うために帰省した本来ならかれ自身が手術を受けてしかるべきだったのに僕らにとっての救いはこのときのSは病状が一時的に寛解していてともに和やかなときを過ごせたことだGの家では夕食の席に温かく迎え入れられた僕とはむかしのように長時間話し込んだ頭痛のあまり窓から飛び降りそうになったことを冗談めかして話されて僕は困惑した立場が逆ならSはきっと心を軽くするようなことをいってくれたにちがいないのに当時ボーリングが流行っていて朝四時まで酒が飲めたので僕らみたいな商売の人間はよくたむろしていたそこでの集まりに元マネージャも呼んだ揉めた時期もあったけれどこの頃ではわだかまりも薄らぎ何よりかれはSとAのことを気にかけていたそのかれがSを見るなり愕然としたなんてこったおまえまじで具合悪そうだぞそれまであえて触れずにいたみんなは黙った僕が何もいわなかったせいだ前にも書いたけれど僕はひどい近視でしかも男子たるもの弱みを見せてはならぬと信じ込んでいたから映画で評判を取るまで人前で眼鏡をかけなかった親友が死にかけているのに気づかなかったのはそのせいかもしれないし気づきたくなくて見ようとしなかったのかもしれないそういうことは自分ではわからぬものだ
 みんなはおずおずと僕をそれからSを盗み見た母や妹たちにも逢えたしとSは蒼い顔で笑ったハンブルクに戻ったらすぐに健康を取り戻しますよAが待ってますからね早く絵で喰えるようになって結婚してやらなきゃ……その夢が実現せぬことをSはどの程度わかっていたのだろうAは生涯で何度か結婚することになる惰性のようにKと婚姻した時期さえあったでも最期まで忘れられなかったのは夫にできなかった男ただひとりで深夜のボーリング場にいた仲間でMだけがそうなることを知っていた知っていて僕に黙っていたのだ未来の医療でもSは救えなかったのだろう生前最後に会ったときのかれの態度からもそれはわかるでもなんの気遣いのつもりか知らないけれど肝心なことをいつも話してくれなかったあの男を僕は許すつもりはないずっとあとになってPの弟に聞いたところによればSは婚約者を残してきたから早く帰りたいがハンブルクに戻ればよくないことが起きそうな気がするとかれに話したというピートBとの別れ際には逢うのはこれが最後になるとまでいったそうだ
 Sが画布にぶつける絵具は日増しに色を喪い血のように暗くなったつい数年前に僕が競売で手に入れた一枚には描いた若者を知る老人にとっては見るのが怖ろしくなるような禍々しい迫力がある毎年恒例の学園祭をAやKと楽しんでいたときSはまたひきつけを起こして卒倒した翌日にはそれまででもっとも烈しい頭痛に見舞われ目が見えないと騒いだそれきり大学は休学せざるを得なかったSは僕への手紙以外にも大量の文章を残していてAは亡くなる数年前にその一部を見せてくれた金属的な耳鳴りがして視界が歪み脳が潰されそうな痛みがつづくとかれは走り書きしていた後半が判読できなくなり蚯蚓みみずのようになって途切れるその言葉を読んだとき僕はヘロインの離脱症状を思いだした僕のは自業自得だがかれのは避けられぬ不運だったSはその苦痛を紛らすため獣のように吼えて頭を壁に打ちつけ筆やら絵具やら油瓶やら絵皿やらを手当たり次第に投げつけた病状を娘に告げぬようSに約束させられたAの母親は耳を塞ぎソファにうずくまって耐えるしかなかった娘のほうは婚約者が死にかけているのに忙しさのあまり気づかなかったJVがパリへ移住して写真館が人手不足だったからだ口止めされたのはKもおなじだった頻繁に見舞いに訪れていたかれはのたうちまわり部屋中に嘔吐する親友と懸命に介護するAの母親とを目撃しているやがてSは一日の大半を寝床で過ごすようになり大きな画板に紙を留めておいて痛みが薄らいだ隙にそこへ絵を描いたり長文の手紙を大量に書き散らしたりしたそのときの手紙を僕はまだ持っているAに聞いた話では僕を主人公にした小説まで書いていたそうだその物語にはMも登場するのだろうか
 Sは寝たきりになる直前まで按摩に通っていたそれで少しでも症状がやわらいだのならいいのだけれどある日その帰りに路地へさしかかったかつて黒い渦にMが消える幻覚を見て卒倒した場所だ不安と恐怖がよぎったが強迫観念を打ち消すためにあえて踏み入ったあの不吉な子ども版ザ・Bはいなかった代わりに別の禍々しいものを目撃した宙に浮遊する器械だ深海に棲む海蜘蛛を思わせる形状で複数の脚に低く唸る回転翼がついている行き交う通行人に奇妙な目で見られながら追いかけたそうだおれはとうとう本当に狂ったのだこんなものが見えるのだからとかれは思った葬儀屋の前で見失ったSは両膝に手をつき荒く息をしながら飾り窓へ顔を上げた骸骨のような蒼い顔が映るその向こうの白い棺桶をかれはじっと見つめた帰宅したSはあれがいいとAの母親に頼んだとても美しくて気に入ったよ普通のはつまらない芸術家らしく葬ってほしいんだばかなことをいわないでとAの母親は窘めたあなたはまだ若い旅立つのはわたしのほうがずっと先よ気休めの嘘であるのは双方がわかっていた母国へ遺体を運ぶ段取りとなったときAの母親は狂ったようにこの白い棺桶に固執することになる
 一方そんなことになっているとは知らぬ僕らは三月六日足すと九になるにバーケンヘッドの仕立屋へ出向き赤い格子柄のファスナーつきビニール鞄と引き換えにまたしても悪臭を後に残してウッキウキで店を出た背広はお気に召さないなんてだれがいった?)。 翌日にはマンチェスターのプレイハウス劇場でBBCラジオの初収録があった当時の国営放送には申込者に無料で出演審査を受けさせる義務があり無事に受かった僕らは収録に間に合うよう背広を仕立てたってわけだこのとき抽選で集められた観覧客が約一名を除いてグリスなんてつけず清潔に櫛を入れた髪の最先端モッズスーツとフラメンコ靴で決めた新しい僕らを初めて目撃することになったPの弟は僕らの晴れ舞台を観覧席から激写した僕らとしてはずいぶんとお上品に変身したつもりだったけれどそれでもお堅い国営放送では完全に場違いでプロデューサーや伴奏を務める一九人の楽団員は渋い顔をしていた司会者は僕の歌をリズム&ブルースと紹介したまだそんな言葉が英国では知られていなかった頃だそれどころかモータウンの曲が公共の電波に乗るのさえ本邦初だった六分間の放送を聴くためだけに僕らはピートBの家へ押しかけモナB所有の高性能ラジオの前に陣取ったVHFいまでいうFMの電波を高感度で受信するには普通のラジオじゃだめだったのだ僕らの演奏は今度こそ上々で居間のスピーカからはあの日あのときの歓声手拍子そして女の子たちの甲高い絶叫が流れた僕とPは顔を見合わせてニンマリした日頃は冷静沈着なピートBでさえ浮かれていた僕ら三人は互いに手を高く打ち合わせおれたちはラジオスターだ! と叫んで飛び跳ねたこの面子で意気投合したのはこのときが最後だったかもしれない
 地元ファンへのお披露目は四月五日これもだ)、 「洞窟のファン感謝祭でだった。 「お父つぁんが僕らのために考えてくれた演出はこうだまず第一部では黒革上下のなじみ深い格好で登場するいつもの曲で盛り上がったところで楽屋へ戻りお召し替えののち再登場して自作曲とともに新しい僕らを披露するという段取り。 「洞窟には五百人いや六五〇人はいるだろう若者が詰めかけてチケット両面に刷られた入会申込書の記入と引き換えにワラシーヴィレッジの禿げた婚礼写真屋に撮ってもらったブロマイドを受け取った数日後には全員に会員証と会報それに特典の案内が届くという寸法だ最前列では猫のように目を細めて間抜けに笑うM愛用の箱形写真機を手にしたPの弟僕とPそれぞれの婚約者ファンクラブ秘書のフリーダK及びボビーBと彼女の紹介で僕らと親しくなった逓信公社の電気技師僕らをエルヴィスの衣鉢を継ぐ英雄と仰ぐ心優しき眼鏡の大男マルE……といったいつもの面々が期待に顔を輝かせていたとりわけこの企画のために奔走してきたボビーBは新しい僕らが受け入れられるか否かを僕ら以上に気にしていた心配は杞憂だったものの彼女自身は思いがけない大失敗をすることになる
 半時間ほど前のちにBEの事務所に加わることになる前座グループが場を暖めるあいだ僕らはマルEとボビーBを楽屋へ招きこっそり持ち込んだウィスキーをまわし飲みした掃除用具入れほどの空間に付き人のNはもちろんMまでいたので身動きとれぬほどギュウ詰めだ僕の婚約者とPの恋人は締め出されていた——いつものことなので彼女らは諦めていた)。 Mはきっと僕らと被らないようにしてくれたのだろう着たきりでくたびれはじめていた例の背広ではなくどこぞの古着屋で仕入れたらしい大学生みたいな薄いセーターとジーンズ姿二七歳の巨漢の電気技師も似たような格好でこれまた学生そのものの格好をした一八歳のボビーBは不純異性交遊はおろか酒すら未経験大丈夫だっていいからこっち来て一杯やりなよと僕はしつこく誘いついに口数少ない生真面目な彼女を酔っ払わせるのに成功したMは明らかに悪乗りしておもしろがっていたやたら未来の倫理観を振りかざすくせに酒と薬にかんしては抑制の利かぬところがあいつにはあったPは口こそ出さなかったものの心配そうに僕とボビーBを見ていた


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。