アー写の撮影をはじめて経験したのはその数日後だったように思う。 Aが僕らを撮りたいとMを通じて申し入れてきたのだ。 ふうん、 まぁいいけど……とかなんとか、 すかした態度を装いながら僕らはまんざらでもなく、 着たきりだった衣裳を珍しく洗濯までしてカレンダーを気にした。 Aの関心は主にSに向いていてMに関わりはなかったけれど、 楽しいことはなんでも共有したかった僕らは、 通訳や機材運びや照明の手伝いを名目としてMも誘った。 Mは嬉しそうにきっと行くよと約束した。 見物を心から楽しみにしているように見えた。 ところが当日かれはハイリゲン広場の移動式遊園地に現れなかった。 きっと寝過ごしたんだろうと僕らは噂し、 深く考えずに、 ジェットコースターの赤錆びた鉄骨の前で担当楽器といっしょに並んだり、 無骨なトラックのボンネットに腰掛けたり、 ベースを肩に提げて振り向くSの前で写真機を見つめたりして、 芸術作品の被写体になるという新鮮な体験を楽しんだ。 悪ふざけばかりしていた僕らだけれど、 この日はAの真剣さが伝染し、 歴史に残る作品をともにつくっているのだという意識から、 けっして噴き出したりしなかった。 かつての敵国人でしかも、 当時のイングランド北西部出身の若い男の一般的な価値観として (と弁解させてほしい)、 対等とは見なしていなかった女性という存在から、 あっちを向けとか手脚をこうしろとか敗戦国の言葉で指図されても、 不平ひとついわなかったほどだ。 つきあいの悪いピートBだけは破れたドラムの皮を買いに行くとかいってさっさと帰ってしまったが、 残りの僕らは彼女の屋敷に呼ばれ (三世代が独立して暮らせる四階建ての屋敷なんて僕らは生まれてはじめて見た)、 異国の客人のために彼女の母親が用意してくれた心尽くしのご馳走を平らげたり (ドイツ人もハムサンドを喰うんだな! とGが笑顔で叫んだのを憶えている)、 独自の感性で誂えられた黒い部屋に驚嘆したりした。 黒い絨毯、 黒い寝台、 黒い壁にはアルミ箔、 鏡を覆う黒い布、 そして銀の燭台……。 写真家の助手になる前の彼女は服飾デザイナーか室内装飾家になりたかったのだとのちに聞いた。 本棚にサドの小説を発見した僕は、 Sといい仲になったこの女の趣味を認めざるを得なかった。 まぁお嬢様はしたない、 こんな不潔な本をお読みになるなんてと僕はいい、 Sの通訳を待つまでもなく彼女は声をあげて笑った。
寝坊助のMに自慢するのを僕らは楽しみにしていたのだけれど、 かれはその夜、 店に姿を見せなかった。 翌晩もその次の晩も。 それっきりMは一九六〇年のハンブルクから姿を消してしまった。 あたかもそんな人間などはじめから歴史上に存在しなかったかのように。 AとSの熱愛カップルはもちろん、 KとJVのふたりも何も事情を知らなかった。 ほかのジツゾン連中もロッカーズも強面の給仕たちも首を横に振った。 だれにも何も告げずに急にいなくなる薄情な男が僕はきらいだ (先日このことを長男の前でうっかり口にして恨み言をいわれた……あぁ、 おまえにもおまえの母さんにも悪かったと思っているよ、 歴史はくり返すとやらだ)。 だれかに伝言くらいしてくれたらいいのにと僕は吐き棄て、 挨拶もせずにいなくなるようなやつかなぁとSは首をひねった。 よもや事故や病気とか、 とPが不吉なことを口走り、 つきあいが悪いわりには情に厚いピートBが顔を曇らせ、 立ち寄りそうな場所を探してみようよ、 とGが提案したけれど、 そういわれてみると僕らはMのことを、 偽名かもしれない名前と日本人であること以外、 何ひとつ知らないのだった。 僕らとかれとは友人とはいえ、 突き詰めれば家族でもなんでもない。 地下牢みたいな店でたまたま知り合った演奏者と客でしかないのだ。 そこがいずれSと婚約するA、 その元彼K、 かれらの親友JVというジツゾン三人組と、 突然どこからともなく現れたMとの違いだった。 次にMと顔を合わせたのは、 僕らが興行主の奸計に嵌まってドイツを追い出され、 散り散りになって故郷で失意にくすぶる日々になってからだった。
当時の僕らには知りようもなかったけれど、 Mがひと言の挨拶もなしに僕らの前から消えたのは、 追っ手に見つかって元の世界へ連れ戻されたからだった。 戦場はもとよりどちらの世界の路地裏でも、 それどころか前世においてさえ恵まれなかった友人との出逢いを、 Mは何よりも大切に思いはじめていた。 今度こそ本物の人生を手に入れたかに感じ、 ザンクトパウリ地区はずれのフェルト通りに面した広場へ向かう足取りは軽かった。 ごみや合成洗剤のあぶくの浮いた運河の流れや、 往来の騒音さえも人生を祝福するかに思えた。 いまはまだ昼夜逆転の路上暮らしだけれども近いうちにまともな職を見つけて部屋を借りようと決めた。 もうだれにも運命を左右されない。 人生を愉しもう。 奪われたものを取り戻すんだ……。 ひとけのない路地を明るい表通りへ抜けようとした。 黒い渦が行く手を阻んでいた。 見まちがいでも、 豆ッコや黒い錠剤の後遺症が見せた幻覚でもなかった。 まわりの空間が渦を巻いて歪み、 闇よりも暗い虚無にじわじわと吸い込まれていた。 そらの孔だよ、 とはるか過去に何かで読んだ台詞がMの脳裏をよぎった。 忘れたい過去 (あるいは未来) からはどこまでも逃れられぬのだとかれは悟った。 死が連れ戻しに来たのだ。
つむじ風が起こり紙屑が舞った。 耳鳴りがして脳が押し潰されるかのように気分が悪くなり、 よろめいた。 強い力につかまれて体をさらわれるのと意識を喪うのはほぼ同時だった。 死に瀕した人間は走馬灯を見るとか、 否そんな現象は実在しないとかいった議論を、 科学雑誌やオカルト雑誌で僕はいくつも読んだ。 生きている人間はだれも死んだことがないのだから (蘇生した人間はほんとうに死んだとはいえないだろう?) 本当のところはどんな偉い学者にもわからない。 でもこのときのMは確かにそれを経験した。 未来の記憶が尾を咥えた蛇よろしく執拗にくり返された。
Mは虐殺と略奪に加わっていた。 ごく当たり前の生活が営まれていた民家へ、 Mの部隊は泥まみれの軍靴で踏み込んだ。 寄せ集めの兵士たちは怯える住民の目前で財産を強奪し、 少しでも抵抗されたら殺して家も焼いた。 母親を子どもたちの目の前で犯して殺し、 子どもたちを母親の目の前で殺して犯した。 子どもたちに鎌や犂で親兄弟や祖父母を殺させ、 それが済むと互いを殺し合わせて、 最後に残った勝者を褒美に殺した。 拉致されたり騙されて連れてこられたりしただれもが、 監視ドローンに脅されるまでもなく自ら進んでその狂気に感染していた。 人間とは男とはいかなるものかをMは学んだ。 そこに属さぬ事実を悟られまいとした。 監視ドローンに見せつけるように何人も殺した。 暴力に酔う男らにとってMは石ころ同然に不可視となり、 ドローンは関心を失って去った。
雨の塹壕でMは配給の薄い粥を啜っていた。 眼鏡をかけた醜い中年の小男に話しかけられた。 問われるままに名前を教えるとどこでその名をと尋ねられた。 そういわれると思いだせない。 筋の通らぬ強迫観念のようにただそう思い込んでいただけだ。 しいていえば棺の夢でそう呼ばれたような気もするが、 その記憶も硝煙の向こうにかすれていた。 いい淀むと中年男は一方的に話しはじめた。 おれは元の遺伝情報のまま復元された試作品だが、 あんたは欠陥を修復されたおれだ、 きっかけさえあれば思いだすはずだ、 AIが世界を変えちまう前の人生をな……。 小男はMとは似ても似つかぬ容姿で、 狂っているのは明らかだったが、 どういうわけか親戚がいたらこんな感じかとも思え、 無下に追い払えなかった。 そもそも爆弾や銃弾の降りそそぐ塹壕では煩わしくとも離れようがない。
いいか若いの、 はるか昔、 共感力を欠いた富豪と政治家が結託して、 利益をひたすら最大化する仕組みをつくった。 見せたいものだけを見せて大衆の行動を操り、 格差を拡大して諍いで儲ける。 おれらみたいに都合の悪い個体は排除された。 やがて淘汰は支配者層にまで至った、 所詮生身のやることは非効率だからな。 連中が死に絶えたあとは企業間の淘汰と寡占化が進み、 いまじゃ同一システムの異なる版同士で争っている。 それがこの戦争だ。 なのにいまさらこんな薄のろを手直ししてまで再生するのはなぜだと思う、 兵士がほしけりゃはじめから知能や身体能力に秀でたやつを選べばいいじゃないか。 Mが困惑していると近眼の醜い小男は得意げに理由を語りだした。 それはな——
断続的な電子音に眠りが破られた。 鈍い唸りとかすかな溜息めいた音がして棺の蓋がひらいた。 Mはあぶくを立てて排水口へ流れる赤い膠質液ともに強制排出された。 冷たい床に転がされて烈しく咳き込み、 ピンクの鼻水を流して喘いだ。 栄養失調による皮膚病や腐った足指は新たに翻刻されたかのように綺麗に治っていた。 戦場の記憶はそうはいかなかった。 一瞬前まで小男だった肉片が、 いいかけた話とともに四散したのをMはまざまざと思いだした。 監視ドローンも直後に爆破されたので自軍の制裁か敵の砲撃によるものかわからなかった。
目が眩むほど照明のきつい白い部屋だった。 壁や床自体が発光しているのか影がない。 棺は奪ったのか複製したのか、 自軍のものとよく似ていた。 黒い獣の四肢が視界に入った。 Mは横たわったまま虚ろな視線をあげた。 舌を垂らした黒い猟犬に見下ろされていた。 血走った目玉と黄色い牙のあいだから垂れる水晶のような涎が目についた。 荒い呼吸と体温、 強烈な獣臭が感じられた。 AIのアヴァターだとMは察した。 脳へじかに働きかけて幻覚を見せているのだ。 Mは塹壕で狂った兵士を何人も見た。 虫や獣にからだを喰われるとわめき叫んで全身を掻きむしりながらのたうちまわって死んでいった。 黒い錠剤のせいとばかり思っていたが監視ドローンが見せた幻覚だったのかもしれない。 これからこの実在しない犬に噛みつかれ、 狂死するまで引きずりまわされるのだとかれは悟った。 空爆と監視ドローンと餓えに怯える裏通り、 豪雨と爆弾の降りそそぐ逃げ場のない塹壕、 集落での略奪と虐殺を経て、 己の死を他人事のように捉える癖がついていた。
不適合を検知しました、 イメージを再構築しますと頭蓋のなかで朗らかな声が響いた。 黒犬が牙を剥いたかと思うと影のように素速く飛びかかってきた。 逃げる間も抗う間もなく、 鋭い爪の生えた前肢で床に押さえつけられ、 熱い涎を感じ真紅の口が覆い被さる。 Mは絶叫した。 鋭い牙が深々と突き刺さり、 食い破られた喉から血飛沫が高く飛んだ。 全身が切り裂かれ内臓が飛び出した。 黒犬はまだ生きて叫んでいるMから熱い肉とはらわたを喰いちぎりむさぼりつづけた。 Mはやがて目を剝いて痙攣するだけとなり、 その目も舌もたちまち奪われた。 動かなくなったMは長い時間をかけて骨から肉片や臓物を剥ぎ取られ、 一滴の血さえも残さず舐め取られた。
Mはその一部始終をどこか遠くから眺めるように観察していた。 そして喰い尽くされたはずの我が身がいつしか強い獣臭を放つ毛深い黒犬へと変じているのに気づいた。
連載目次
- Born on a Different Cloud(1)
- Born on a Different Cloud(2)
- Born on a Different Cloud(3)
- Get Off Of My Cloud(1)
- Get Off Of My Cloud(2)
- Get Off Of My Cloud(3)
- Obscured By Clouds(1)
- Obscured By Clouds(2)
- Obscured By Clouds(3)
- Cloudburst(1)
- Cloudburst(2)
- Cloudburst(3)
- Over the Rainbow(1)
- Over the Rainbow(2)
- Over the Rainbow(3)
- Devil’s Haircut(1)
- Devil’s Haircut(2)
- Devil’s Haircut(3)
- Peppermint Twist(1)
- Peppermint Twist(2)
- Peppermint Twist(3)
- Peppermint Twist(4)
- Baby’s in Black(1)
- Baby’s in Black(2)
- Baby’s in Black(3)
- Baby’s in Black(4)
- Hello, Goodbye(1)
- Hello, Goodbye(2)
- Hello, Goodbye(3)
- Hello, Goodbye(4)
- Hellhound on My Trail(1)
- Hellhound on My Trail(2)
- Hellhound on My Trail(3)
- Hellhound on My Trail(4)
- Nobody Told Me(1)
- Nobody Told Me(2)
- Nobody Told Me(3)
- Nobody Told Me(4)
- Paperback Writer(1)
- Paperback Writer(2)
- Paperback Writer(3)
- Paperback Writer(4)
- Anywhere I Lay My Head(1)
- Anywhere I Lay My Head(2)
- Anywhere I Lay My Head(3)
- Anywhere I Lay My Head(4)
- Anywhere I Lay My Head(5)
- Crippled Inside(1)
- Crippled Inside(2)
- Crippled Inside(3)
- Crippled Inside(4)
- Crippled Inside(5)
- Mother’s Little Helper(1)
- Mother’s Little Helper(2)
- Mother’s Little Helper(3)
- Mother’s Little Helper(4)
