CLOUD 9

連載第9回: Obscured By Clouds(3)

アバター画像杜 昌彦, 2024年10月25日
Fediverse Reactions

アー写の撮影をはじめて経験したのはその数日後だったように思うAが僕らを撮りたいとMを通じて申し入れてきたのだふうんまぁいいけど……とかなんとかすかした態度を装いながら僕らはまんざらでもなく着たきりだった衣裳を珍しく洗濯までしてカレンダーを気にしたAの関心は主にSに向いていてMに関わりはなかったけれど楽しいことはなんでも共有したかった僕らは通訳や機材運びや照明の手伝いを名目としてMも誘ったMは嬉しそうにきっと行くよと約束した見物を心から楽しみにしているように見えたところが当日かれはハイリゲン広場の移動式遊園地に現れなかったきっと寝過ごしたんだろうと僕らは噂し深く考えずにジェットコースターの赤錆びた鉄骨の前で担当楽器といっしょに並んだり無骨なトラックのボンネットに腰掛けたりベースを肩に提げて振り向くSの前で写真機を見つめたりして芸術作品の被写体になるという新鮮な体験を楽しんだ悪ふざけばかりしていた僕らだけれどこの日はAの真剣さが伝染し歴史に残る作品をともにつくっているのだという意識からけっして噴き出したりしなかったかつての敵国人でしかも当時のイングランド北西部出身の若い男の一般的な価値観としてと弁解させてほしい)、 対等とは見なしていなかった女性という存在からあっちを向けとか手脚をこうしろとか敗戦国の言葉で指図されても不平ひとついわなかったほどだつきあいの悪いピートBだけは破れたドラムの皮を買いに行くとかいってさっさと帰ってしまったが残りの僕らは彼女の屋敷に呼ばれ三世代が独立して暮らせる四階建ての屋敷なんて僕らは生まれてはじめて見た)、 異国の客人のために彼女の母親が用意してくれた心尽くしのご馳走を平らげたりドイツ人もハムサンドを喰うんだな! とGが笑顔で叫んだのを憶えている)、 独自の感性で誂えられた黒い部屋に驚嘆したりした黒い絨毯黒い寝台黒い壁にはアルミ箔鏡を覆う黒い布そして銀の燭台……写真家の助手になる前の彼女は服飾デザイナーか室内装飾家になりたかったのだとのちに聞いた本棚にサドの小説を発見した僕はSといい仲になったこの女の趣味を認めざるを得なかったまぁお嬢様はしたないこんな不潔な本をお読みになるなんてと僕はいいSの通訳を待つまでもなく彼女は声をあげて笑った
 寝坊助のMに自慢するのを僕らは楽しみにしていたのだけれどかれはその夜店に姿を見せなかった翌晩もその次の晩もそれっきりMは一九六〇年のハンブルクから姿を消してしまったあたかもそんな人間などはじめから歴史上に存在しなかったかのようにAとSの熱愛カップルはもちろんKとJVのふたりも何も事情を知らなかったほかのジツゾン連中もロッカーズも強面の給仕たちも首を横に振っただれにも何も告げずに急にいなくなる薄情な男が僕はきらいだ先日このことを長男の前でうっかり口にして恨み言をいわれた……あぁおまえにもおまえの母さんにも悪かったと思っているよ歴史はくり返すとやらだ)。 だれかに伝言くらいしてくれたらいいのにと僕は吐き棄て挨拶もせずにいなくなるようなやつかなぁとSは首をひねったよもや事故や病気とかとPが不吉なことを口走りつきあいが悪いわりには情に厚いピートBが顔を曇らせ立ち寄りそうな場所を探してみようよとGが提案したけれどそういわれてみると僕らはMのことを偽名かもしれない名前と日本人であること以外何ひとつ知らないのだった僕らとかれとは友人とはいえ突き詰めれば家族でもなんでもない地下牢みたいな店でたまたま知り合った演奏者と客でしかないのだそこがいずれSと婚約するAその元彼Kかれらの親友JVというジツゾン三人組と突然どこからともなく現れたMとの違いだった次にMと顔を合わせたのは僕らが興行主の奸計に嵌まってドイツを追い出され散り散りになって故郷で失意にくすぶる日々になってからだった
 当時の僕らには知りようもなかったけれどMがひと言の挨拶もなしに僕らの前から消えたのは追っ手に見つかって元の世界へ連れ戻されたからだった戦場はもとよりどちらの世界の路地裏でもそれどころか前世においてさえ恵まれなかった友人との出逢いをMは何よりも大切に思いはじめていた今度こそ本物の人生を手に入れたかに感じザンクトパウリ地区はずれのフェルト通りに面した広場へ向かう足取りは軽かったごみや合成洗剤のあぶくの浮いた運河の流れや往来の騒音さえも人生を祝福するかに思えたいまはまだ昼夜逆転の路上暮らしだけれども近いうちにまともな職を見つけて部屋を借りようと決めたもうだれにも運命を左右されない人生を愉しもう奪われたものを取り戻すんだ……ひとけのない路地を明るい表通りへ抜けようとした黒い渦が行く手を阻んでいた見まちがいでも豆ッコや黒い錠剤の後遺症が見せた幻覚でもなかったまわりの空間が渦を巻いて歪み闇よりも暗い虚無にじわじわと吸い込まれていたそらの孔だよとはるか過去に何かで読んだ台詞がMの脳裏をよぎった忘れたい過去あるいは未来からはどこまでも逃れられぬのだとかれは悟った死が連れ戻しに来たのだ
 つむじ風が起こり紙屑が舞った耳鳴りがして脳が押し潰されるかのように気分が悪くなりよろめいた強い力につかまれて体をさらわれるのと意識を喪うのはほぼ同時だった死に瀕した人間は走馬灯を見るとか否そんな現象は実在しないとかいった議論を科学雑誌やオカルト雑誌で僕はいくつも読んだ生きている人間はだれも死んだことがないのだから蘇生した人間はほんとうに死んだとはいえないだろう?本当のところはどんな偉い学者にもわからないでもこのときのMは確かにそれを経験した未来の記憶が尾を咥えた蛇よろしく執拗にくり返された
 Mは虐殺と略奪に加わっていたごく当たり前の生活が営まれていた民家へMの部隊は泥まみれの軍靴で踏み込んだ寄せ集めの兵士たちは怯える住民の目前で財産を強奪し少しでも抵抗されたら殺して家も焼いた母親を子どもたちの目の前で犯して殺し子どもたちを母親の目の前で殺して犯した子どもたちに鎌や犂で親兄弟や祖父母を殺させそれが済むと互いを殺し合わせて最後に残った勝者を褒美に殺した拉致されたり騙されて連れてこられたりしただれもが監視ドローンに脅されるまでもなく自ら進んでその狂気に感染していた人間とは男とはいかなるものかをMは学んだそこに属さぬ事実を悟られまいとした監視ドローンに見せつけるように何人も殺した暴力に酔う男らにとってMは石ころ同然に不可視となりドローンは関心を失って去った
 雨の塹壕でMは配給の薄い粥を啜っていた眼鏡をかけた醜い中年の小男に話しかけられた問われるままに名前を教えるとどこでその名をと尋ねられたそういわれると思いだせない筋の通らぬ強迫観念のようにただそう思い込んでいただけだしいていえば棺の夢でそう呼ばれたような気もするがその記憶も硝煙の向こうにかすれていたいい淀むと中年男は一方的に話しはじめたおれは元の遺伝情報のまま復元された試作品だがあんたは欠陥を修復されたおれだきっかけさえあれば思いだすはずだAIが世界を変えちまう前の人生をな……小男はMとは似ても似つかぬ容姿で狂っているのは明らかだったがどういうわけか親戚がいたらこんな感じかとも思え無下に追い払えなかったそもそも爆弾や銃弾の降りそそぐ塹壕では煩わしくとも離れようがない
 いいか若いのはるか昔共感力を欠いた富豪と政治家が結託して利益をひたすら最大化する仕組みをつくった見せたいものだけを見せて大衆の行動を操り格差を拡大して諍いで儲けるおれらみたいに都合の悪い個体は排除されたやがて淘汰は支配者層にまで至った所詮生身のやることは非効率だからな連中が死に絶えたあとは企業間の淘汰と寡占化が進みいまじゃ同一システムの異なる版同士で争っているそれがこの戦争だなのにいまさらこんな薄のろを手直ししてまで再生するのはなぜだと思う兵士がほしけりゃはじめから知能や身体能力に秀でたやつを選べばいいじゃないかMが困惑していると近眼の醜い小男は得意げに理由を語りだしたそれはな——
 断続的な電子音に眠りが破られた鈍い唸りとかすかな溜息めいた音がして棺の蓋がひらいたMはあぶくを立てて排水口へ流れる赤い膠質液ともに強制排出された冷たい床に転がされて烈しく咳き込みピンクの鼻水を流して喘いだ栄養失調による皮膚病や腐った足指は新たに翻刻されたかのように綺麗に治っていた戦場の記憶はそうはいかなかった一瞬前まで小男だった肉片がいいかけた話とともに四散したのをMはまざまざと思いだした監視ドローンも直後に爆破されたので自軍の制裁か敵の砲撃によるものかわからなかった
 目が眩むほど照明のきつい白い部屋だった壁や床自体が発光しているのか影がない棺は奪ったのか複製したのか自軍のものとよく似ていた黒い獣の四肢が視界に入ったMは横たわったまま虚ろな視線をあげた舌を垂らした黒い猟犬に見下ろされていた血走った目玉と黄色い牙のあいだから垂れる水晶のような涎が目についた荒い呼吸と体温強烈な獣臭が感じられたAIのアヴァターだとMは察した脳へじかに働きかけて幻覚を見せているのだMは塹壕で狂った兵士を何人も見た虫や獣にからだを喰われるとわめき叫んで全身を掻きむしりながらのたうちまわって死んでいった黒い錠剤のせいとばかり思っていたが監視ドローンが見せた幻覚だったのかもしれないこれからこの実在しない犬に噛みつかれ狂死するまで引きずりまわされるのだとかれは悟った空爆と監視ドローンと餓えに怯える裏通り豪雨と爆弾の降りそそぐ逃げ場のない塹壕集落での略奪と虐殺を経て己の死を他人事のように捉える癖がついていた
 不適合を検知しましたイメージを再構築しますと頭蓋のなかで朗らかな声が響いた黒犬が牙を剥いたかと思うと影のように素速く飛びかかってきた逃げる間も抗う間もなく鋭い爪の生えた前肢で床に押さえつけられ熱い涎を感じ真紅の口が覆い被さるMは絶叫した鋭い牙が深々と突き刺さり食い破られた喉から血飛沫が高く飛んだ全身が切り裂かれ内臓が飛び出した黒犬はまだ生きて叫んでいるMから熱い肉とはらわたを喰いちぎりむさぼりつづけたMはやがて目を剝いて痙攣するだけとなりその目も舌もたちまち奪われた動かなくなったMは長い時間をかけて骨から肉片や臓物を剥ぎ取られ一滴の血さえも残さず舐め取られた
 Mはその一部始終をどこか遠くから眺めるように観察していたそして喰い尽くされたはずの我が身がいつしか強い獣臭を放つ毛深い黒犬へと変じているのに気づいた


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。