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連載第40回: Paperback Writer(2)

アバター画像杜 昌彦, 2025年7月4日
Fediverse Reactions

翌日も暗いうちから列車で撮影した食堂車でAと昼食をとっていると年長の記者が近づいてきて僕の自宅で取材したいといった悪いけど家では仕事を忘れたいんだAだけ来てくれるかなCも喜ぶしMが晩飯をたかりに来ることになってるんだと僕は応えた四人での夕食は楽しかった女たちは学生みたいにはしゃいで語り合い男たちはなかば気圧されながらMが土産に持ってきた葡萄酒を静かに飲んだCとMが食器を洗って棚に片づけるあいだもの問いたげなAに僕は気づかぬふりをした上機嫌の赤ん坊を抱き上げてドイツ語で何やら囁きかけるAと嬉しそうなCを眺めながら黒縁眼鏡の僕はソファでギターの弦を張り替えつくりかけの曲を調弦がてらに爪弾いたMはインドの行者よろしく床に胡座をかき楽しげに眼を細めて僕の年代物ウィスキーを啜っていたずっとこんな時間がつづけばいいのにと僕は思った映画の主題歌に書いたことは決して嘘じゃない当時の僕にとって不貞を重ねるのは仕事の捌け口にすぎなかった本心では家庭の平穏を求めていた狂った世間を締め出して妻子や信頼できる友人といつまでも静かに過ごしたかった
 そろそろおいとまするよあすも撮影だろといってMが立ち上がり台所でグラスをゆすいで玄関へ向かったじゃあわたしもとAがつづいたMは酔いを醒ますかのように冷たい夜風を深呼吸し宿泊先まで送るよとAに告げたAは知り合った当初からMが苦手だった東洋人を見慣れないせいばかりではない何を考えているか得体が知れず間の抜けた笑顔が逆にどこか信用ならない感じがしたしその正体をSが突き止めようとしていたことも気になったMを追った先の路地で何を見たかSは決して話したがらなかったふたりは無言で歩いた沈黙に耐えかねたAはかれがどこに住んでいるか尋ねようとしたMはその気配を察して遮るかのように今夜はありがとうとだしぬけに礼を口にしたJの様子なんだかおかしかったろう? ほしかったものをすべて手に入れてみたら思ってたのと違ったんだSがいてくれたらきっと肚の内を夜通しさらけ出していたろうに僕じゃ代わりになれないんだ婚約者だったきみが来てくれてきっと嬉しかったにちがいないよ……
 その言葉の意味を考えながらフラットへ戻ったAをRと記者が出迎えたGは? と尋ねるとふたりはニヤニヤしたGはついに意中のアイドル女優を食事に誘うのに成功したのだやったじゃない! とAは歓声をあげRと手を打ち合わせた上機嫌のRは彼女をダンスに誘いでも苦手だから……と遠慮する彼女の手を取って踊りだしたクラブ通いで鍛えた最新ステップをRは披露した両手両脚を大きく動かし跳んだり跳ねたり床に手をついたりのけぞったり巧みなリードでAも大いに楽しんだ年長の記者は絶好の機会とばかりに大喜びでシャッターを切りつづけたMはどういうわけか写真というものに一家言あって僕もまた撮られる側からその説に賛同したものだけれどあいつがいうには写真とは思いのほか被写体との関係性やその場の空気が記録されるものでそれは撮影者が世界をどうているかを表現するものだからだというRと踊る写真は僕も見た少なくともこのときのかれは功利心や損得勘定からではなく被写体に夢中になっていたはずだ夢見心地のGが帰宅したのは深夜になってからだったかれはまだ起きて待っていたAとRに大いに冷やかされた
 高学歴の裕福な階級を読者とする誌は国際政治や世界経済と同格に僕らを分析しようとした——というか売らんかなの体裁をそのように気どったザ・Bとはいかなる現象か何が怪物を創り上げたのか? 高名な哲学者を父に持ちロバート・キャパとも親しい年長の記者はその企画意図を僕らの地元へ向かう列車内でAに説明したこの旅にはGも同行したがったが仕事とアイドル女優を優先して断念した数年ぶりのリヴァプールは一変していたもはや煤煙で煤けた爆撃跡に不良がたむろする寂れた港町ではなかった街じゅうに僕らの鬘やTシャツや靴下が売られていた懐かしい洞窟の前には昼興行のために長い行列ができていた二匹目の泥鰌を狙うグループが四〇〇は生まれ出演予定表にはAの知らぬ名前ばかり並んでいたグルーピーなるものが生まれつつあった時代で男の子たちは僕らを真似た髪型で革ジャンや襟の小さな背広爪先の尖った靴女の子たちは濃い化粧で髪を巻いていたそうした連中を記者は舞台や街の通りといった見栄えのする場所にひっぱり出してポーズを撮らせた伝説の一部であるAは地元では有名で彼女が頼むと若者たちは快く協力してくれた
 午後にふたりはRの実家へ向かったGから毎日のように思い出話を聞かされていたRは仲間に加わるまでの遅れを取り戻そうとAと仲よくなりたがっていた映画では主役級の扱いで多忙を極めていたにもかかわらずわずか二時間足らずのためにわざわざ帰郷してふたりを両親に引き合わせてくれたもっと広くて新しい家を見つけてあげるよとかれは幾度となく提案していたのだけれど両親には思い出深い家や昔なじみの隣人たちと離れるつもりは少しもなかった深い信頼と愛情でRと結ばれた男が実父ではないことを聞かされてAは感動したGの実家は息子の援助をありがたく受けてウールトンに移っていた両親とふたりの兄はAとの再会を喜んだ無名時代からザ・Bを応援しつづけていたGの母親はあたかも実の娘にするように身を寄せて隣に座りファンからの手紙や手作りの贈り物を大切そうに見せてくれた息子が家族全員にプレゼントしてくれたジャマイカ旅行に数日後に発つことを彼女は嬉しそうに教えてくれた三月のリヴァプールはまだ寒かったやもめ暮らしのPの父親はコーヒーを淹れてブラウンシュガーを足しブッシュミルズを注いで軽くかき混ぜ生クリームを浮かべて温かい飲み物をつくってくれたかれもまた誇らしげにファンから贈られたパイプや煙草手紙の数々を食卓に並べこの子たちはみんな息子の署名を期待しているんだよ……と照れ隠しのように笑ったPやJから聞いて想像していた通りの父親だとAは思ったかれにとっては男手ひとつでふたりの息子をどうにか育て上げたかと思ったらある日突然世界中に十代の娘ができたようなものなのだJの実家は気難しい伯母さんだと聞いていたので訪ねなかったほかの家族のように快く協力はしてくれまいし何よりJが厭がると思ったから正解だ
 取材最終日に年長の男性記者は地元紙に広告を出し楽器を手にした僕らの後追い連中三五〇名を聖ジョージ・ポール広場の階段へ集合させたひとり一ポンドの謝礼は必要経費として編集部に認められたそこにはRが抜けて人気の急落したグループの姿もあったそんな企画にですら世に認められる好機を期待するほどのあるいは一ポンドの稼ぎですら逃すまいとするほどの零落ぶりだった撮影のあいだ手持ち無沙汰だったAは子ども版のザ・Bを探し歩いたSが狂ったように問い詰めた煤まみれの子どもたちがあのときと同じように自転車のチューブで遊んでいるのを期待したのだ子どもの成長は早い数年も経っていればすれ違ってもわかるまい案の定見つからなかった
 取材を終えて帰国した数日後Aは編集部に呼び出された一万五千マルクを受け取るつもりで出向いた彼女は刷り上がった版下を見せられた大半はAの作品が採用されていて新たなキャリアの可能性に彼女は胸を躍らせたところが彼女の手になる巻頭の見開き写真の下には年長の男性記者の名のみが記されていた彼女の表情は頁を繰るごとに曇ったAの名前はどこにもなかった案内人としてさえもだ踊るRの相手を務めた名もない女としてのみ印刷されていた茫然と顔を上げたAに編集長はあんた素人の癖に出しゃばりすぎだザ・Bの私生活を記者にもっと撮らせるべきだったそのために雇われたんだからと横柄に応えたじゃあJが排便でもしている写真がよかったのと尋ねるとそうだよくわかってるじゃないかと編集長は肯きこれじゃ報酬は支払えないといいだしただって契約には……とAが反論するとかれは書類を広げ聞き分けのない子どもにいい含めるように規定の一文を苛立たしげに指先で叩いたそこには顕微鏡を要するような字でただし乙の仕事が甲の期待に満たぬ場合は甲は乙への支払いを免除されるものとすると記されていた
 Aは絶句して年長記者の顔を見た最初から騙すつもりだったの? 言葉にされぬその問いに記者は恥じるように視線を逸らした編集長はなんだまだいるのか話はもうとっくに終わったとでもいいたげな顔を向けてきたAはふたりの男を呆れ果てて見つめ碌に挨拶もせず憤然と席を立って足早に編集部を出た一秒たりともその部屋の空気を呼吸したくなかった一九六四年の若いドイツ女は所詮そのような扱いだった名高い男たちの髪を切ったとか写真を撮ったとか服を選んだとか踊りのパートナーを務めたとかいった逸話の添え物でしかなかった僕ら四人はてっきりAが報道写真家としての輝かしい道を歩みはじめたものと思い込んでいた夢を餌に釣られて大切な友情を見世物に差し出し大仕事をさせられた挙げ句に一銭たりとも報酬をもらえず現実を思い知らされて写真機を手にすることさえやめてしまったとは知らなかったそれどころか彼女の成功の手助けをできたことを誇りに思ってさえいた結局のところ僕らは戦勝国の成功した男性の側にいてAの境遇など微塵も想像できなかったのだ年長の男性写真家はその後大地メリアンといった雑誌で副編集長を務め晩年は世界中で作品の展覧会を行って大いに名を高めた


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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“Paperback Writer(2)” への1件のコメント

  1. ::: より:

    @ezdog Jの家での気心知れた仲間同士の晩餐、リヴァプールでのRやGやPの温かな家族達、取材旅行だったけれどAにはいい時間だっただろう。それなのに手柄を全部横取りされてしまったことが本当に悔しい。昔から狡い奴らほど得をしてのさばるものだよな……。

    Jの家からの帰路にAにかけられたMの言葉が優しい。歴史に干渉しすぎるわけにはいかないだろうから、あれがAにしてあげられる精一杯だったんだろう。

    Aのことは私まで悔しい気持ちになったのだけど、Rと楽しく踊るAの写真を撮ったときの記者はまだ本当に被写体に魅せられていたのだろうと思うと、少しだけ救われた気持ちになる。その場の楽しくキラキラした空気がしっかり記録されていたのだろうな。撮影者の視点からの心からの表現による写真だっだのだろう。Mの写真についての説、とてもそうだなと思う。