一九六二年の残りはひたすら公演と番組出演に明け暮れた。 僕らは背後を顧みなかった。 僕の移り気のせいではなく、 ただ振り返る余裕がなかったのだ。 最後のハンブルク巡業の別れ際で、 強面の用心棒HFは男泣きに泣いた。 僕らがもう下積みに耐える田舎小僧の集団ではなく、 世界的な有名人になりかけていて、 気軽には逢えなくなることを察したからだ。 僕らも大いに感傷的になって酒を酌み交わした。 あとは結婚の翌月にラッシュワース楽器店でGとお揃いのギブソンJ一六〇Eを買ったこと、 憧れのリトル・リチャードと地元とハンブルクで三度も共演したこと (二度もBEが地元に招いただけあって思っていたのとちょっと違う男で、 Rはやけに気に入られて可愛がられた)、 ハンブルクの英国船員協会でクリスマスに馬肉を喰わされたことしか憶えていない……いや、 もうひとつ重要なことがあった。 僕がロンドンにいるあいだにCが出血したのだ。 自身の存在を秘すことをBEに強要されて (あたかも持って生まれた苦しみと同等の立場を恋敵に味わわそうとしたかのように)、 赤子の誕生を楽しみに待つ喜びを奪われた心労がついに祟ったのだろう。 たまたま彼女の兄が様子を見に来て医者を呼んでくれたけれど、 その兄が仕事に戻ってからは、 Cはお腹の子どもを喪うのが怖くて便所へも行けなかった。 というのはBEのフラットはなぜか寝室だけ離れた場所にあり、 便所と行き来するには居住者全員が通る共同のロビーを横切らなければならなかったからだ。 そこで彼女は便器代わりのバケツとお茶を淹れるためのやかんを枕許に置き、 寝床に横になったきり三日間を耐えるしかなかった。 心配をかけたくないと僕には連絡をくれなかった。 当時の倫理観はそういうものだったのだ——妻は家を護り夫は外で働くもので、 互いに弱音を吐いてはならないと。 本心をさらけ出して話し合う対等な関係はまだ一般的ではなかった。 もし彼女がわがままで僕を振りまわすような女だったら、 むしろ僕らはまだ結婚をつづけていられたかもしれない。
当時の冬は気候変動なんてものとは無縁で僕らは風邪をひいてばかりいた。 新年早々に行われた五日間スコットランド公演は初日が猛吹雪で公演中止になった。 最初のアルバムを収録した二月一一日に僕は風邪をひき、 牛乳でうがいしてグラスを赤く染めたり 「痛み抑えてスッキリ爽やか!」 なる触れ込みの喉飴を舐めたりしてどうにか乗り切ったものの、 翌月にまた寝込んだときには残りの三人に公演を託さねばならなかった。 確か同じ年の秋にはPも流感にかかって腹を下し、 公演が延期や中止になったりしたように記憶している。 一月後半にはいくつもの収録を掛け持ちした翌日に、 強行軍で地元へ戻らねばならず、 発熱で寝込んだNの代わりにマルEが運転手を務めた。 前年の夏にBEが友人の自動車販売業者から買ったフォード製テムズ四〇〇Eエクスプレスは、 シリンダーのひとつに不具合がありブレーキパッドも摩耗していた。 僕らは寒い寒いと騒いで暖房を最強にしていた。 前面の窓にはもともと小さな疵でもあったのだろう。 冷えたグラスに湯を注ぐようなもので、 外気との差に耐えかねて、 突如として破裂し粉々に砕け散った。 マルEは咄嗟に帽子を裏返しにして拳に被せ、 窓枠に残った破片を叩き割って運転をつづけた。 おかげで僕らは鰯の油漬けよろしく、 うつ伏せに折り重なって寒さをしのぐ羽目になった。 上が凍死しかけて下が圧死しかけた頃合いで順番を代わるという按配。 どのくらいで着く? と僕らが尋ねるとマルEは、 あと二〇〇マイル! と叫んだ。 これは長らく僕らの冗談として定着した。 平たくのされて凍った僕らがようやく地元へ帰り着くと、 ロンドンで僕らを見送ったMが、 急行列車でも先回りは不可能だったはずなのに、 万事承知といった顔でニヤニヤしながら出迎えた。 これにはむかついた。
二枚目のシングルが銀盤賞に選ばれた三日後、 一九六三年四月八日にCはセフトン総合病院で長男を産んだ。 Cが収容された病室では半数の女が出産を終えていて、 傍らに寝かせた新生児を満足げに見つめる一方、 もう半数は悶絶しながら烈しい苦痛が一刻も早く終わることだけを祈っていた。 面会時間には幸福な夫や親族が花束や贈り物を手に現れて談笑する。 Cの隣ではヤリ棄てられた肥った十代の子が母親に会いたいと泣いてばかりいた。 もうたくさんといって冷や汗をかきながら起き上がり家へ帰ろうとするその子を、 Cは懸命に引き留めなければならなかった。 このふたりは倫理にもとる落ち度があると見なされて職員たちから冷ややかにあしらわれた。 分娩室でCはここで踏ん張らなければあんたも子どもも死ぬよ、 と黒人助産婦に脅されて覚悟を決めた。 わが子の誕生を僕はこの目で見ておきたかったけれど、 当時は立ち会いなんて概念はなかったし、 僕は英国南部へ公演旅行中だった。 お目通り叶ったのは三日後だ。 僕は文字通り駆けつけた。 疾風のごとく病室へ飛び込み、 寝台のCに接吻してその腕に抱かれた乳児を見た。 小さな手脚にちゃんと機能する指がついてミニチュアサイズの爪まで備わっているのに僕は驚嘆した。 Cが差し出すその子を腕に抱いてみると、 この世界に驚いているかのような目が僕を捉えておかしそうに笑うので僕まで嬉しくなった。 父ちゃんみたいに有名な小さなロッカーになるのはだれかな? と僕は話しかけた。 Cによればそのとき僕の目には涙が滲んでいたという。 子どもは母親に似て美しかった。 自分の血をひいた子が醜怪な障害を負って生まれてくるのを僕はずっと畏れていたのだ。 分娩されたときは頚に臍の緒が巻きつき黄疸を起こしていたと看護師に聞かされ、 救ってくれた医療スタッフ全員とついでに神にも感謝した。 女たちに求められるまま無数の署名に応じて僕が立ち去ったあと、 Cへの職員の扱いは激変したそうだ。
喜んではみたものの親というのがどうふるまうものか知らなかった。 自分が子どもの頃、 両親は好き勝手にふらついていて息子など顧みなかった。 伯母と伯父が金と手間暇かけて、 一丁前どころか大人より達者に喋れるまで養育したからこそ、 お袋はご機嫌で一緒に踊ったりバンジョーなんか教えたりしてくれたものの、 昼夜お構いなしに泣き叫んだり便所にも行かずに糞をしたり唐突にミルクを戻したりするだけの生き物など、 彼女には面倒を見るつもりも能力もなかった。 親父に至っては船で外国をほっつき歩くばかりで、 親としての責任なんて発想は毛筋一本ほどもなく、 それでいて息子の成功を聞きつけるや、 お袋が死んだときでさえ何の連絡もなかったのに、 Cが独りで守る家へ、 意気揚々とたかりに来たのだから呆れたものだ。 負け犬のまま年老いたバージョンの僕に居座られて、 Cは若い女ひとりでどんなに心細かったことか。 たまたま敗北を免れた若いほうもどっこいどっこいで、 大切な息子を落として壊してしまうのではと畏れて、 抱き上げるのさえおっかなびっくり、 不安が伝わるのか息子はギャン泣きするありさま。 なのに赤の他人であるはずのPは、 どこでそんな芸当を習得したやら、 途方に暮れる僕からさっと息子を取り上げて、 べろべろばぁなんていって目尻を下げ、 腕を籠のように揺らして、 たちまち笑い声を上げさせちまう。 これではどちらが実の親かわからない。
僕ら新婚夫婦はその頃、 BEのフラットを引き払ってメンディップスへ戻っていた。 伯母が僕を手許に留めたいばかりにCと赤子を気遣うかのような嘘をついたからだ。 若く愚かだった僕らは伯母の心変わりを信じて胸を打たれた。 Cは人がよすぎ、 僕は強い女のいいなりだった。 まだ妊娠中だったCはまんまと伯母の使用人に仕立てられ、 さながら灰被り姫のごとく這いつくばって便所掃除をさせられたり、 三匹の飼い猫のために魚屋から生臭いアラを毎日もらってきては、 つわりに耐えながら煮て骨を取り除いて餌をやらされたりした。 産後は家庭内の空気を察知して泣き叫ぶ息子の世話がそこに加わった。 しかも彼女はBEの思惑によって社会的に存在しないことにさせられていて、 赤子を乳母車に乗せて買い物に行くだけでさえも人目を気にせねばならなかった。 BEの指示もあながち悪意からとはいえず、 実際、 付き合いはじめたばかりだったRの最初の奥さんは、 会場の外に停めた車で公演が終わるのを待っていたら、 近寄ってきたファンがいきなり窓から腕を差し入れてきて、 顔をひっかかれたという。 長い爪を振りまわすその手をハンドバッグで叩いて必死に押し返し、 どうにか窓を締めたものの、 気の毒に彼女はRが戻るまで車内で耳を塞いでうずくまり、 怖ろしい時間に耐えねばならなかったそうだ。
伯母との不仲やファンの嫉妬は薄々察していたけれど、 Cは何もかも黙っていたので、 そんな思いをさせられているのに僕はさっぱり気づいていなかった。 そこへたいした用もないのに遊びに来たMは、 Cが抱いた赤子に対面するや、 怯えるかのようにさっと全身をこわばらせた。 ハンブルクの犯罪者たちの乱闘にも動じなかったあいつがだ。 抱いてみるようCに勧められても断固として拒否。 伯母もまた僕の見ていないところではCと長男に冷淡だったけれども、 それともまた様子が異なった。 あとでコークハイと豆ッコで酔わせて理由を訊いてみれば、 戦場で子どもほど不吉な存在はないという。 かれが兵士だったのはそのとき初めて知った。 かれの元いた世界で子どもとは、 大概こっぴどく暴行されたり、 切り刻まれたり撃たれたりしていて、 虫の息で転がるか膝を抱えてうずくまるかしている。 ちょっとでも人間の心を持ったやつが気の毒がって近づくとその子に撃たれるか刺される。 それが赤ん坊ならおくるみに隠された爆弾で吹き飛ばされるという。 どの戦争のことなのか、 ハンブルクの前にどこにいたのかそのときは頑なに口にしなかった。 話してもどうせ理解できまいといった態度だった。 育った家庭について人前で触れたがらない僕自身を鏡に映したかに思えてぞっとした。 数年後に息子のために巨大なパンダを買ってきたときも、 Mは爆弾や盗聴器が仕込まれてやしまいかと怯えて、 愛らしいぬいぐるみに近寄ろうともしなかった。
出産を終えたばかりの嫁を姑は顎でこき使い、 うるさいったらありゃしないだれに似たのかしらねと赤子の泣き声に難癖をつけるばかりで、 当初の約束のような助力は当然期待できないし、 夫にしても滅多に家に寄りつかず、 というか帰宅したところで疲れて不機嫌、 おむつ替えすらやらないばかりか日増しに人間らしくなる悪臭を罵倒する有様、 これまたいっさい何の役にも立たないので、 Cは育児の何もかもを独りでやらねばならなかった。 特に信仰心が篤いほうではなかったけれど、 生まれ育った地域では子どもが生まれたら当然そうするものと決まっていたので、 だれにも相談せずに洗礼式を自分で手配した。 これが僕にはおもしろくなかった。 そんな必要ない、 なぜひと言相談してくれなかったと大声で責めた。 だってあなたはいつも肝心なときに家にいてくれないじゃないとCは泣いた。 初の夫婦喧嘩——いやそうじゃない、 いま思いだしたがその前にもCが髪を切りすぎたのに腹を立てて泣かせたことがある。 僕はいつだって理不尽な癇癪を起こしてばかりいた。 学生時代にはよその男にいい顔をしたと被害妄想を募らせて、 Cの顔を殴ったことさえある。
……そう、 当時の倫理基準からいっても僕は悪い男だった。 でも彼女が僕を喪いたくなかったように、 僕だってせっかく手に入れた家庭を喪いたくなかったというのは嘘じゃない。 愛する妻と家にいて夕食後の団欒を楽しみ、 わが子の成長を目に焼きつけたかったし、 何より自分の子ども時代みたいな思いを息子にはさせたくなかった。 あのろくでなしの親父とおなじ過ちをくり返すつもりは、 本当はなかったのだ。 ザ・Bを取り巻く状況があまりに急激に烈しく変わりすぎていて、 僕は家庭には何ひとつ変わらないことを強迫的に求めた——Cの髪型さえもだ。 くたくたになって妻子の待つ家に帰り着き、 扉を締めれば、 支離滅裂な現実の狂騒とは隔てられ、 安全な居間で心穏やかに団欒を楽しめる、 そんな暮らしを切望していた。 Cは応えようと懸命に努めたがそもそもが無茶な要求だった。 子どもは成長につれて急激に烈しく変化するものだし、 子どもを中心とした家庭というのもまたそうだからだ。 甥に対して伯母がそうだったように僕にもそのことが理解できなかった。
連載目次
- Born on a Different Cloud(1)
- Born on a Different Cloud(2)
- Born on a Different Cloud(3)
- Get Off Of My Cloud(1)
- Get Off Of My Cloud(2)
- Get Off Of My Cloud(3)
- Obscured By Clouds(1)
- Obscured By Clouds(2)
- Obscured By Clouds(3)
- Cloudburst(1)
- Cloudburst(2)
- Cloudburst(3)
- Over the Rainbow(1)
- Over the Rainbow(2)
- Over the Rainbow(3)
- Devil’s Haircut(1)
- Devil’s Haircut(2)
- Devil’s Haircut(3)
- Peppermint Twist(1)
- Peppermint Twist(2)
- Peppermint Twist(3)
- Peppermint Twist(4)
- Baby’s in Black(1)
- Baby’s in Black(2)
- Baby’s in Black(3)
- Baby’s in Black(4)
- Hello, Goodbye(1)
- Hello, Goodbye(2)
- Hello, Goodbye(3)
- Hello, Goodbye(4)
- Hellhound on My Trail(1)
- Hellhound on My Trail(2)
- Hellhound on My Trail(3)
- Hellhound on My Trail(4)
- Nobody Told Me(1)
- Nobody Told Me(2)
- Nobody Told Me(3)
- Nobody Told Me(4)
- Paperback Writer(1)
- Paperback Writer(2)
- Paperback Writer(3)
- Paperback Writer(4)
- Anywhere I Lay My Head(1)
- Anywhere I Lay My Head(2)
- Anywhere I Lay My Head(3)
- Anywhere I Lay My Head(4)
- Anywhere I Lay My Head(5)
- Crippled Inside(1)
- Crippled Inside(2)
- Crippled Inside(3)
- Crippled Inside(4)
- Crippled Inside(5)
- Mother’s Little Helper(1)
- Mother’s Little Helper(2)
- Mother’s Little Helper(3)
- Mother’s Little Helper(4)
“Hellhound on My Trail(2)” への1件のコメント
Comments
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2025年5月9日
若き日のふたりがそれぞれに大変な目にあってすれ違っていく様子がせつない。こういうことは当時も今もきっとよくあることで、だから人生はままならないのだなぁ。 そしてMのトラウマが明かされるのがリアルだ。これまでこの時代ではのんきに笑っていたMもやはり過去を忘れられたわけではなかったのだ。しんみりした。

@ezdog 今回はしんみりした。そしてそこがまたいいのです。それにしても伯母ったらもう。