『カイディッシュ・ブッフ』 は一九五〇年代の米国、 ニューヨーク州を舞台にした短編群である。 ニューヨークにはホロコーストから逃れるためにイディッシュ語の話者が大勢、 移住した過去がある。
イディッシュ語はドイツ語とヘブライ語、 スラブ語などが混在している。 表記の上ではヘブライ文字を使用するが、 現代ではラテン文字を使用することもある。 この物語の登場人物たちは架空だが、 イディッシュ語新聞、 〈フォアヴェルツ紙〉 は実在する。 言葉、 人、 精神は流浪する。 突き詰めれば、 私たちに住処などというものはないのだろう。
タイトルの 『カイディッシュ・ブッフ』 は、 かばん語である。 イディッシュ語における 〈カディシュ〉 は 〈聖なる〉 という意味であり、 〈ブッフ〉 は 〈本〉 だ。 〈聖なる本〉 に 〈イディッシュ〉 を付け加えさせていただいた。 登場人物のうち、 数名は 『ペリフェラル・ボディーズ』 にも登場している。
『ペリフェラル・ボディーズ』 は二〇〇〇年代初頭の米国を舞台にした群像劇である。 この物語には全体を通した主人公は想定していない。 場所や時代も異なっている。 バーリング親子の受け継がれる心や、 ウルピオの後悔、 ラスターの前進しようとする勇気はそれぞれ独立しているが、 細い糸のようなもので繋がっている。 この物語を書くにあたっては音楽をヒントにしている。
タイトルの 『ペリフェラル・ボディーズ』 は、 直訳すれば 〈周縁の肉体たち〉 という意味である。 思うに、 心はあやふやで、 実態がないと言っていいだろう。 心は肉体に宿るのか、 それとも脳、 あるいは、 心臓に宿るのかは、 議論の余地があるだろうが、 私たちの最奥部にあるということは間違いなさそうだ。
現代では、 私たちの肉体は機械から多くの恩恵を受けている。 飛行機や自動車がなければ、 私たちは徒歩や、 馬に乗って移動しなければならない。 過去の人びとは、 現代の私たちよりも行動範囲が狭かっただろう。 私たちは気軽に電話やインターネットを通じて他者との交流をすることができるが、 今も昔と変わらず、 人が出会い、 知り合うことができる上限は存在している。 心も同じだ。
私たちの心も機械の恩恵を受けている。 心という機能は拡張されているかも知れない。 それでも、 私たちには肉体、 あるいは肉体性がある。 これらが消失する未来は、 もっと先のことだろう。 (私は、 そのような未来の到来を信じたくはないが) 人間の心、 最奥部はあやふやであるか、 空洞かも知れない。 もしかすると、 代替が可能なのかも知れない。 それでも、 空洞の周縁を彩る肉体が精一杯踊り、 輝きを放つ。 そうあって欲しいと思う。
『コロナの時代の愛』 のタイトルは、 ノーベル文学賞を受賞したガルシア・マルケスによる 『コレラの時代の愛』 を模したものになっている。 今現在、 私たちは渦の時代を生きている。 私たちは日々混乱しており、 疲れ切っている。 物語は短いものの、 様々な立場や年齢の人物を登場させるよう努めた。 もしかすると、 彼ら、 彼女らは支持できないような人物かも知れないし、 私や、 あなたの分身のような人物かも知れない。
本書を執筆するにあたり、 作家で編集者である杜昌彦氏から貴重な助言をいただいた。 氏の助言がなければ、 私はこれらの物語を書き上げることはできなかっただろう。 心よりお礼を申し上げる。
I・N