CLOUD 9

連載第3回: Born on a Different Cloud(3)

アバター画像杜 昌彦, 2024年9月6日
Fediverse Reactions

PとGがいうように不審者を実際に見たやつも実際に見たやつを実際に知っているやつもいなかった街はずれのあの建物には幽霊が出るらしいとかネス湖の怪物とかUFOといった類いのくだらない噂にすぎずだれひとり本気にはしていなかった例外はそのことが原因で不幸な出逢いをした若干二名だ一方はほかならぬ僕の母でもうひとりはラミリーズ通り四三番地に住む二四歳の市警巡査一二六C非番のかれはメンローヴ通り近辺に出没する不審者の噂を知っていた同僚や近隣住民から伝え聞く風体があまりにも奇抜だったしどこそこ通りのだれそれが見たらしいというので聴取に訪れるとその人物も噂で聞いただけだったりして目撃者すら見つからずその頃には署内のだれひとりまともには取り合わなくなっていたもし仮にその中年男が実在したとしても真夏に真冬の格好をしているだけでは罪に問えないしかし前照灯の先に襟にボアのついた革ジャンと黒のセーター黒のコーデュロイパンツにウェスタンブーツ夜なのにかけている黒眼鏡の縁は黄色といった風体の男が何もない空間から滲み出るように急に現れたとなっては話は別だ若い巡査はハンドルから片手を離して目をこすったいや見まちがえじゃない距離はあるが視力に自信はあるとかれは思ったその中年男は無帽で流行のロックンロールの不良よろしく後ろへ撫でつけた髪を夜風になびかせメンローヴ通りへ向かって歩いていたいかつい風体とは裏腹に不安げに落ち着きなく周囲を見まわしている不審といえばこれほど不審な男もない黒い服装は闇に溶け込んでたやすく見失いそうだ……
 巡査一二六Cは時速三〇マイルの制限速度は遵守していたものの添乗者の付き添いを義務付けられた見習い運転手でありながらその義務を怠っていた運転に不慣れな若い警官が追跡する革ジャン黒眼鏡の男を母もまたメンローヴ通りの向かい側に認めていたおかしな格好にもかかわらずというかむしろおかしな格好だったからこそ母の頭におかしな考えが浮かんだのかもしれない飲んだくれて悪ふざけをするしか能のないあのろくでなしは一四のときセフトン公園でナンパされた初対面からして珍妙な山高帽と似合わない背広でシガレットホルダーを見せびらかしていたそういうのが粋だと思い込んでいたのだ今度は強面の荒くれ者にでもなったつもりで妻を迎えに来たに違いない新しい家庭があるからあんたは用なしよもう寄りつかないでと釘を刺したのに僕に似て何事にも衝動的な母はおそらくそんなことを考えて走りだし男が振り向くとわれに返った背丈も違うし痩せていて縮れ毛の髪をテディボーイ風に後ろへ撫でつけている古代エジプトの壁画みたいな目は東洋人のように見えたなんで夫だなんて考えたのか……そこで急ブレーキと眩い光と衝撃に思考を断ち切られた
 母に背を向けて自宅へ歩き出したNWは急ブレーキの音を聞いたつづけて重い衝撃音振り向くと母のからだが宙を舞っていた百フィート先の地面に叩きつけられた母のもとへかれは慌てて駆け寄った血は見えず横たわる母はどこも傷を負っていないかに見えた赤みがかった髪が顔にかかり夜風に揺れていたNWはメンディップスへ走った伯母と下宿人は音を聞いてすでに外へ出ていた声も出ないNWの顔色を見てかれらは不安が的中したのを悟った伯母が駆け寄りひざまずくと母は安堵したかのように最後のひと呼吸をして死んだ野次馬が集まってきてだれかが救急車を呼びに行った伯母は室内履きのスリッパのまま半狂乱で泣き叫んだ彼女は担架に乗せられた母とともに救急車の後部へ乗り込みセフトン総合病院へ向かった下宿人は伯母の靴やハンドバッグを持ってあとを追った病院でだれの目にも明白な事実を告げられた伯母と下宿人を警察はブロムフィールドロードまで連れて行ったそのときのことを僕はよく憶えておらずそのせいでインタビュアーの前でまたしても話を盛ってしまった玄関に警官が現れ母の名を口にして息子かどうか確認を求めてきたのでそうだと応えてやると残念なお報せですがお母様は亡くなりましたと告げられたというのだ伯母がいうには彼女から聞いた僕は実際にはなんてこったなんてこったといいながらただその場にへなへなと崩れ落ちたそうだ
 伯母と下宿人は警察の車でメンディップスへ戻り僕と顔面神経麻痺は病院へ向かった車が使えないからタクシーを呼んだこれからだれが子どもたちの面倒を見るんだと母の愛人が呟くのを僕は聞いたもともといい印象はなかったけれどこれではっきりと嫌いになったお袋が殺されたというのにてめえのことばかり考えやがってと思った一九六四年にハリケーンのおかげでザ・Bのフロリダ公演が延期になりキーウェストの小さなモーテルに泊まったときその話をするとPは父親より稼ぎのよかった母親を亡くしたとき不安を紛らす冗談のつもりで父親と弟の前で似たようなことを口走りそのことをずっと恥じて悔やんだと打ち明けてくれた金や生活のことを考えるのが苦手な僕は包み隠さぬPに尊敬めいた気持すら抱いたけれどだからといってこのときの顔面神経麻痺を許す気持にはなれない車中で僕はずっと運転手を急かしながら悪態をついていたようやく母を取り戻せたのにこの数年間すごくうまくやっていた母とはこれからもっと楽しいことがたくさんあるはずだったんだ……病院に着くと顔面神経麻痺は母の死に顔を見に行きひどく取り乱して戻ってきたけれど僕は霊安室の前で立ちすくんだまま動けなかった美しく溌剌とした笑顔だけを思い描いていたかったそれが損なわれた現実を見たくなかった
 母自身を別にしてこの件でだれがいちばん人生を損なわれたかはわからないブロムフィールドロード一番地の市営住宅を長いあいだ借りていた一家は地元紙の報道がきっかけで本物の夫婦でないことがばれてしまった義妹たちは親戚に引き取られた顔面神経麻痺は飲酒運転のおかげで車と職と妻と子どもと家をつづけざまに失ったざまをみろと僕は思ったちなみに七年後の冬にこの義父が死んだのもまた交通事故のせいだった母の死後もしばらくはバイトを紹介してもらうなど多少の交流はあったけれどかれが死んだからといってなんの感慨もなかった妹たちを気の毒に思っただけだ母はアラートン共同墓地に埋葬された葬儀のあとアラートンロードの家に会葬者が集まっていたとき僕はずっといとこの膝に顔を埋めていた彼女も僕も何もいわなかった会葬者のだれもがただ茫然と打ちのめされていた母はみんなに愛されていた奇想天外なおふざけも底抜けの楽天主義も独創的なものの見方も母は僕を愛してくれていたと思うアマチュア時代のへたくそな演奏をわざわざ見に来てひとりだけずっと楽しげに踊ってくれたりしたからでもそれならなぜ……と思うこともおなじくらいあるそのことを話し合う前に母は逝ってしまったまだいつでもそんな機会はあると思っていたのだ
 ひと月後の死因審問で偶発事故による死との評決が下された母を殺した若い巡査は無罪となり短期間の職務停止を受けたに留まった裁判所でその判決を聞いた伯母は怒り狂いひと殺し! と巡査を罵ったそしてここでもまた話が盛られる——僕はつい最近までずっとこの非番の警官が飲酒運転をしていたと聞かされていたのだ何かを見て気をとられハンドル操作を誤ったなんて話と同様に裁判で酒のことは触れられなかったあるいは揉み消されたのかもしれないけれど現実というものの残酷な皮肉を思えば実際に一滴も飲んでいなかったのではないかといまは思う母はただ急に飛び出して轢かれたのだ納得いくような意味や理由はそこには何もなかった僕は荒れた母のことを打ち明けて同情を買おうとは思わなかっただれも本当のことは理解できまいだれも飲んだくれの父に棄てられたこともなければ目尻を下げて甘やかしてくれる伯父に死なれたこともエルヴィスにあわせて台所で踊る母を持ったこともないのだだれにも話さなかったので同級生に金をせびるときお袋さんに借りられないのかと訊かれたりもした死んだよと告げるとそいつはびっくりしていた水臭いななんで話してくれなかったんだと責められたなんていえばよかったんだよと僕はいいかえしたそういやおれの母親死んだんだけどとでも? 何度か寝ていた女友達にはお母さんが亡くなったからってあたしに当たることはないでしょうと詰られたりもした母と最後に会話を交わしたNWはずっと悩んでいたようだあと一分でも長く話していれば母は死なずに済んだのではないかと僕が恨んでいると勝手に思い込んでいたのだ僕はといえばずっと後になってそのことを知り母を看取ってくれたのがかれと伯母でよかったと思った
 母を殺した巡査からは僕ら遺族にひと言の挨拶もなかったこれもまたずっと後になって知ったのだけれど弔詞を送ることも考えたが事態を悪化させるだけだと思い留まったのだそうだあの夜に目にしたものはだれにも信じてもらえず裁判でも口をつぐしまいには自分でも信じなくなった六年後かれは警察を辞めて郵便配達夫になっていたほかのだれとも同じようにラジオでザ・Bの音楽を耳にし新聞でザ・Bのことを読むようになりJLの母親が亡くなっていること少年時代のJLがメンローヴ通りに住んでいたことを知ったそのふたつの事実をつなぎあわせて自分がだれを殺したのか悟ったあらゆる記憶が甦って吐きそうになった一九六四年のリヴァプールではいたるところがザ・Bだった毎日の放送開始から終了まで一瞬たりともザ・Bはテレビから消えない新聞をひらいてもザ・B配達ですれ違う街角の世間話もザ・B罪を忘れるほんのわずかな時間すらも与えられなかった巡回担当地区にはフォースリン通り二〇番地にあるPの実家も含まれていたおかげでザ・Bへの熱い思いが綴られた何百通もの葉書や封書をその家に配達するはめになったかれは毎日のように大きな荷を担いで坂道を必死に登ったその配達物は自分が殺した女とその息子をひたすら思い起こさせた


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。