結婚生活をはじめたばかりの若い僕らにこの些細な諍いはいささかショックで、 本心をぶつけ合うのを畏れるようになってしまった。 ギクシャクして気まずい空気が家庭に残った。 僕はBEとの一二日間のスペイン旅行を取りやめなかった。 赤子が生まれるのは宿や交通機関を予約する前からわかっていたはずだし、 実際に生まれたのだから取りやめればよかろうとPにもMにも忠告された。 いまなら僕もそう思う。 でも当時の僕は休みなんて滅多にとれない、 あとの三人だってカナリア諸島へ遊びに行くのだから僕にも権利はあるはずだ、 日程はいまさら変えられないと考えた。 Pは例によって嫉妬を剥き出し、 この旅をだれが親分かをわきまえさせる目的だったと辛辣に決めつけた。 まぁそれもあるけれど僕としては、 僕の暴走を制御し得るか否か、 突っ込みの力量を試すつもりだったのだ。 結論をいえば落第。 BEは頭は切れるし常識もわきまえているけれど、 Sと違って癇癪持ちのくせに僕に甘すぎる。 その点を合格したのは犬猿の仲のふたりだけ。 でもPはなんでも自分で決めたがり、 Sのように辛抱強く寄り添ってくれることはまずないし、 Mはといえば僕以上に狂っていた。
たまに帰宅すれば赤ん坊の泣き声に不機嫌になるばかりで、 育児を担うどころかおむつ替えひとつ手伝おうとしない僕を、 いまだほかの結婚を知らぬCは、 夫とはそのようなものと決め込んで、 慣れぬ育児で疲労困憊しながらも疑問を抱かなかった。 その僕がマネージャと泊まりがけで遊びに行くと聞いて、 さすがに内心では腹を立てたものの、 家にいられても邪魔なだけと判断し、 表面上は快く送り出してくれた。 BEがどんな反応を期待してMにこの旅を告げたかはわからない。 でもよりによってこの僕を選んだのはあてつけだったといまでは確信している。 BEは僕に闘牛を好きになってほしかったようだ。 残念ながら運動競技に興味のない僕は、 大きな獣をいたぶって殺す見世物のどこがおもしろいのかよくわからなかった。 旅行中BEは奇妙なほどMの話題を避けた。 何度も探りを入れてみたけれど、 かれは奥ゆかしく笑うばかりで何も答えなかった。 そこで別な角度から攻めてみようと、 トレモリーノスのカフェで道行く男の子を指さしては、 あいつはどうだいとか、 あれは好みかいと尋ねてみた。 東洋人やもじゃもじゃ頭に興味を示す傾向は、 特に窺えなかった。 単刀直入に、 おれの臭い尻に突っ込んでみたいかいとも尋ねてみた。 そうじゃない、 そういうことじゃないんだとかれは首を振った。 どういうことなのかは最後の夜にわかった。 罰してくれとかれに懇願されて僕は断った。 僕はいろんなやつを些細な理由でぶちのめしてきたけれど、 かれを殴ったことだけはない。 そんなことでかれを喜ばせるのはひどくまちがったことだという気がした。 それきりその夜のことは二度とふたりのあいだで口に出されなかった。
ところがBBCラジオで冠番組がはじまった翌月、 厚かましくも 「お父つぁん」 が口に出した。 よりによってPの誕生会の和やかな席でだ。 BBCの収録を終えて地元にとんぼ返りし、 ファンに知られた実家では落ち着いて祝えないというので、 ハイトンにある親戚の家の裏庭に大きなテントを張り、 そこで開催することになった。 前科のあるMは降参するように両方の掌を掲げてみせ、 わかってるさあんたの誕生会だ、 今年は隅っこで大人しく飲んでるよと請け合ったので、 Pは渋々かれも招いた。 おかげで僕の経歴とひとりの男の生命が救われたのだけれど、 見方を変えればむしろその事態を招いたといえなくもない。 いま思えば 「お父つぁん」 はただ僕らの旅行を蜜月と呼んだのみであって、 よくある比喩の類いにすぎず、 しいていえば勘ぐりからの当てこすりというよりは、 むしろ新妻を新婚旅行にすら連れて行かず、 赤子の世話に縛りつけてないがしろにしたことを、 遠まわしに批難しただけなのだ。 本気で腹を立てては逆にBEとの仲を認めたかのようになる。 それがわからぬくらい僕はその日、 疲れて機嫌が悪かった。
誕生会は当然ながらPの親戚ばかりで、 Pが交際をはじめたばかりのお嬢様女優もいた。 顔なじみのグループが無償で演奏してくれていてさえ居心地が悪かった。 僕はそのように大勢の血縁者から祝われたことがない。 どうしても結婚式の参加人数と較べてしまう。 女優にデレデレして猫なで声を出すPにもむかっ腹が立った。 苛々しながら陰鬱な気持で飲んでいるとMがあの間抜け面で、 楽しんでるかと訊いてきた。 カッとなって襟首を掴み、 あの薬をよこせと強要した。 薬ってなんのこと、 とあいつは動揺した顔ですっとぼけた。 黒い錠剤だよ、 持ってんだろと僕は執拗に絡んだ。 Mは溜息をつき、 パンツのポケットに手を突っ込んで、 つかみ出した錠剤を一粒、 ほら、 と突き放すようによこした。 これだけだよ、 やばいやつなんだからともいった。
そしてその後にあの惨劇が起きたわけだ。
自分がやっていることを僕は、 幕に投影された幻灯でも眺めるかのように感じていた。 拳は擦り剥けフラメンコ靴の爪先は血に染まった。 DJ兼司会者は頭を両手で庇って胎児のように背を丸め、 啜り泣いて許しを請うた。 肋骨があらかた折れると虫の息になった。 僕は最後までやらねば気が済まなかった。 園芸用の大きなシャベルを見つけてきて勢いをつけて高々と振りかざした。 原形を留めぬほど変形した顔めがけて振り下ろせば相手が死ぬのはわかっていた。 ひとは些細なきっかけで殺人を犯すものだなとぼんやり思ったのを憶えている。 次の瞬間には天地がぐるん、 とひっくり返って電源が落ちるかのように闇へ沈んだ。 気絶していたのは数秒だったらしい。 ざわめきが聞こえて意識を取り戻すと、 何人かが化け物でも見るかのようにおずおずと僕を覗き込んでいた。 そのなかには呆れ顔のMもいた。 Pは遠くで怯える女優を懸命に宥めていた。 なんらおめえと僕はMにいった。 おれに何をやっら? 足を払っただけだよとMは答えた。 飲みすぎだよJ、 頭を冷やすんだね。 そうMはいってシャベルを手にしたままどこかへ消えた。 怒っているかれを見たのはそれが初めてだった。
迎えに来たCは泣いていた。 彼女に強引にタクシーに押し込められ、 家へ連れ帰られてからも僕はしばらく、 あいつがおかま呼ばわりしやがった、 とかなんとか陰険な目つきで執拗に呟いていたそうだ。 「お父つぁん」 はBEのゾディアックで迅速に病院へ運ばれ、 一時は意識不明の重体となったものの、 どうにか事なきを得た。 数日後、 憑き物が落ちたように冷静になった僕は、 自分が何をしたか急に気づき、 蒼ざめてぶるぶる慄えだした。 あぁどうしよう、 おれはいったいどうなっちまったんだとCに泣きついた。 あのひとに謝りなさいとCは僕の頭を膝に抱いて静かにいった。 ひとはだれでも過ちを犯すけれど、 獣と違って悔いることができるわ……。 僕は濡れた犬のようにしゅんとなって詫びの電報を打った。 BEが支払った金のおかげで手打ちにはしてもらえたものの、 「洞窟」 時代にさんざん世話になった男との関係は元には戻らなかった。 数年前にウィル・スミスがクリス・ロックを殴打するのをテレビ中継で見たとき、 僕はすぐにかれに電話して、 あんたはまちがってるといってやった。 ひとは過ちを認めて謝ることができるとも説教した。 かれはとても混乱していて僕のいうことを理解できず、 まちがい電話だと思ったようだ。
僕は懲りたのだろうか? たぶん懲りなかったのだろう。 Pと仲違いしていた頃、 肩を持つつもりでPを批判して僕にぶん殴られたやつが何人かいる。 電報で禊ぎを済ました僕はそれきり入院中の被害者のことは忘れた。 それから数日はいつもとあべこべにMの尻を追っかけまわし、 あの技を教えてくれよと懇願した。 あの技って? とぼけんな、 おれをぶっ飛ばした技に決まってんだろ、 いったいどうやったんだよ。 あれは柔道だよ、 中国人がみんな功夫の達人なのとおなじ理屈さ、 日本人ならだれでもできるけどあんた白人だろう、 気の毒だけど諦めるんだね……云々。 煙に撒かれてふうんそんなもんかと納得させられたけれど、 当然そんなわけはない。 いま思えばあれは工作員としての訓練の賜物だったのだ。 「あの技」 を諦めた翌日、 僕はひとりでテレビに出演してエルヴィスの新譜をこきおろした。 四人で演奏したのとは裏番組だったのでファンはどちらを見るか悩んだようだ。 かわいい 「坊やたち」 ではなく僕単体を見た視聴者は、 きっと腹の皮がよじれながらも背筋は凍ったにちがいない。 発売を控えた新譜を試聴して売れるか否かを○×判定する他愛のない番組だったのだけれど、 あまりに僕がどの新譜も辛口の判定をするものだから、 ほかのゲストもつられて×を連発した。
Cの助言にいたく感謝した僕は九月に休暇をもらえたとき、 今度こそ水入らずの新婚旅行のつもりで、 彼女をパリへ連れて行った。 伯母が当てにならないので別の親戚に息子を預け、 準備万端整ったところで、 Cは緊張のあまり胃腸炎で倒れてしまった。 嘔吐が止まらない彼女に僕は旅をキャンセルしようかと提案した。 彼女はどうしても行くといい張って聞かなかった。 空港までのタクシーを数分おきに停車させなければならなかったほどなのに、 飛行機が僕らの現実から遠く離れて目的地へ着く頃には、 Cの症状は嘘のように治まっていた。 エッフェル塔にのぼり凱旋門を眺めモンマルトルを散策し、 お土産を山ほど買い込んで、 当時はまだ身分不相応に思えた宿のジョルジュサンクで、 交際をはじめたばかりの頃のように熱烈に愛し合い、 ようやく挽回できたかに思えたCとの仲は、 BEが合流したことで台なしになった。 はたしてBEは空気が読めなかったのか、 商材の価値を護るべく僕らの仲にわざと水を差したのか。 Mに袖にされていたらしいのは窺えたけれど、 われらがマネージャの情緒不安定はこの頃はまだ表面化していなかった。 PとRはギリシャ旅行、 Gは兄とともにイリノイ州ベントンにいる姉を訪ねて、 すっかりリフレッシュした様子で休暇から戻ったのに、 僕だけがCとの微妙な空気を引きずって不機嫌だった。 MとBEが事務所で烈しくいい争う場面を見たのはこの頃だったと思う。 僕が入っていくとかれらは何事もなかったかのように急に話題を変えた。
その頃から加速度的に忙しくなり、 前座のはずだった公演が主役にされることが重なり、 憧れのロイ・オービソンと共演する頃には、 観客動員数は雪だるま式に膨れ上がり、 全国誌でも取り上げられるようになった。 十代の群衆が目を吊り上げ髪を振り乱し、 悲鳴を上げて殺到しはじめた。 いわば地元の熱狂が全世界に感染拡大したわけだけれど、 「洞窟」 の客はみんな顔なじみで、 どの子がだれの贔屓客でどの曲がお気に入りか、 僕らはすっかり承知していた。 うっとり見つめる顔もおふざけに笑い転げる顔も、 強い近視の霞を通してすら感じ取れたし、 リクエストや電話番号の紙を差し出す細い指にこちらの指を絡めることもできた。 ところがいずれBマニアと呼ばれるようになる群衆ときたら、 向こうは僕ら四人をご存じだけれど、 こっちにはひとりひとりがどんな人間なのか知りようもない。 地下鉄のブレーキ音さながらの金切り声とともに殺到する顔のない化け物に、 僕らは少しずつ狂わされていった。 Pは躁状態になってベースが走り、 誤解されがちなRの目つきはますます哀しげになり、 だれよりも職業意識の高かったGなんか、 ろくに演奏を聴いてもらえぬ状況に嫌気がさして、 持ち前の皮肉に磨きがかかり、 瞑想の世界へ逃げ込むようになる。 僕は裸眼で何も見ずにやり過ごそうとしたけれど、 徐々に薬物なしにはいられなくなり、 地に足の着いた常識人のCとは会話が噛み合わなくなってゆく。 何しろ彼女は僕の収入がどんなに増えて豪華な家に住もうが、 乳母や家政婦を雇おうとはせず、 有名人の華やかなパーティに参加しながらも翌日の献立を考えるような女だった。 Yと出逢わなくとも遅かれ早かれ家庭は壊れていたろう。
連載目次
- Born on a Different Cloud(1)
- Born on a Different Cloud(2)
- Born on a Different Cloud(3)
- Get Off Of My Cloud(1)
- Get Off Of My Cloud(2)
- Get Off Of My Cloud(3)
- Obscured By Clouds(1)
- Obscured By Clouds(2)
- Obscured By Clouds(3)
- Cloudburst(1)
- Cloudburst(2)
- Cloudburst(3)
- Over the Rainbow(1)
- Over the Rainbow(2)
- Over the Rainbow(3)
- Devil’s Haircut(1)
- Devil’s Haircut(2)
- Devil’s Haircut(3)
- Peppermint Twist(1)
- Peppermint Twist(2)
- Peppermint Twist(3)
- Peppermint Twist(4)
- Baby’s in Black(1)
- Baby’s in Black(2)
- Baby’s in Black(3)
- Baby’s in Black(4)
- Hello, Goodbye(1)
- Hello, Goodbye(2)
- Hello, Goodbye(3)
- Hello, Goodbye(4)
- Hellhound on My Trail(1)
- Hellhound on My Trail(2)
- Hellhound on My Trail(3)
- Hellhound on My Trail(4)
- Nobody Told Me(1)
- Nobody Told Me(2)
- Nobody Told Me(3)
- Nobody Told Me(4)
- Paperback Writer(1)
- Paperback Writer(2)
- Paperback Writer(3)
- Paperback Writer(4)
- Anywhere I Lay My Head(1)
- Anywhere I Lay My Head(2)
- Anywhere I Lay My Head(3)
- Anywhere I Lay My Head(4)
- Anywhere I Lay My Head(5)
- Crippled Inside(1)
- Crippled Inside(2)
- Crippled Inside(3)
- Crippled Inside(4)
- Crippled Inside(5)
- Mother’s Little Helper(1)
- Mother’s Little Helper(2)
- Mother’s Little Helper(3)
- Mother’s Little Helper(4)

@ezdog Jがキレる場面にはヒヤヒヤしたけれど、Mの活躍と彼の怒りにしんみりした。暴力にさらされてきたMにしてみればJの幼稚な癇癪は許せなかっただろうな。
顔のない化け物のようなファン達はBの音楽など聞いちゃいないし本質を理解もしていない。そういう熱狂の渦に巻き込まれておかしくなっていくBのやつらが哀しい。