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連載第33回: Hellhound on My Trail(3)

アバター画像杜 昌彦, 2025年5月16日
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結婚生活をはじめたばかりの若い僕らにこの些細な諍いはいささかショックで本心をぶつけ合うのを畏れるようになってしまったギクシャクして気まずい空気が家庭に残った僕はBEとの一二日間のスペイン旅行を取りやめなかった赤子が生まれるのは宿や交通機関を予約する前からわかっていたはずだし実際に生まれたのだから取りやめればよかろうとPにもMにも忠告されたいまなら僕もそう思うでも当時の僕は休みなんて滅多にとれないあとの三人だってカナリア諸島へ遊びに行くのだから僕にも権利はあるはずだ日程はいまさら変えられないと考えたPは例によって嫉妬を剥き出しこの旅をだれが親分かをわきまえさせる目的だったと辛辣に決めつけたまぁそれもあるけれど僕としては僕の暴走を制御し得るか否か突っ込みの力量を試すつもりだったのだ結論をいえば落第BEは頭は切れるし常識もわきまえているけれどSと違って癇癪持ちのくせに僕に甘すぎるその点を合格パスしたのは犬猿の仲のふたりだけでもPはなんでも自分で決めたがりSのように辛抱強く寄り添ってくれることはまずないしMはといえば僕以上に狂っていた
 たまに帰宅すれば赤ん坊の泣き声に不機嫌になるばかりで育児を担うどころかおむつ替えひとつ手伝おうとしない僕をいまだほかの結婚を知らぬCは夫とはそのようなものと決め込んで慣れぬ育児で疲労困憊しながらも疑問を抱かなかったその僕がマネージャと泊まりがけで遊びに行くと聞いてさすがに内心では腹を立てたものの家にいられても邪魔なだけと判断し表面上は快く送り出してくれたBEがどんな反応を期待してMにこの旅を告げたかはわからないでもよりによってこの僕を選んだのはあてつけだったといまでは確信しているBEは僕に闘牛を好きになってほしかったようだ残念ながら運動競技に興味のない僕は大きな獣をいたぶって殺す見世物のどこがおもしろいのかよくわからなかった旅行中BEは奇妙なほどMの話題を避けた何度も探りを入れてみたけれどかれは奥ゆかしく笑うばかりで何も答えなかったそこで別な角度から攻めてみようとトレモリーノスのカフェで道行く男の子を指さしてはあいつはどうだいとかあれは好みかいと尋ねてみた東洋人やもじゃもじゃ頭に興味を示す傾向は特に窺えなかった単刀直入におれの臭い尻に突っ込んでみたいかいとも尋ねてみたそうじゃないそういうことじゃないんだとかれは首を振ったどういうことなのかは最後の夜にわかった罰してくれとかれに懇願されて僕は断った僕はいろんなやつを些細な理由でぶちのめしてきたけれどかれを殴ったことだけはないそんなことでかれを喜ばせるのはひどくまちがったことだという気がしたそれきりその夜のことは二度とふたりのあいだで口に出されなかった
 ところがBBCラジオで冠番組がはじまった翌月厚かましくもお父つぁんが口に出したよりによってPの誕生会の和やかな席でだBBCの収録を終えて地元にとんぼ返りしファンに知られた実家では落ち着いて祝えないというのでハイトンにある親戚の家の裏庭に大きなテントを張りそこで開催することになった前科のあるMは降参するように両方の掌を掲げてみせわかってるさあんたの誕生会だ今年は隅っこで大人しく飲んでるよと請け合ったのでPは渋々かれも招いたおかげで僕の経歴とひとりの男の生命が救われたのだけれど見方を変えればむしろその事態を招いたといえなくもないいま思えばお父つぁんはただ僕らの旅行を蜜月と呼んだのみであってよくある比喩の類いにすぎずしいていえば勘ぐりからの当てこすりというよりはむしろ新妻を新婚旅行にすら連れて行かず赤子の世話に縛りつけてないがしろにしたことを遠まわしに批難しただけなのだ本気で腹を立てては逆にBEとの仲を認めたかのようになるそれがわからぬくらい僕はその日疲れて機嫌が悪かった
 誕生会は当然ながらPの親戚ばかりでPが交際をはじめたばかりのお嬢様女優もいた顔なじみのグループが無償で演奏してくれていてさえ居心地が悪かった僕はそのように大勢の血縁者から祝われたことがないどうしても結婚式の参加人数と較べてしまう女優にデレデレして猫なで声を出すPにもむかっ腹が立った苛々しながら陰鬱な気持で飲んでいるとMがあの間抜け面で楽しんでるかと訊いてきたカッとなって襟首を掴みあの薬をよこせと強要した薬ってなんのこととあいつは動揺した顔ですっとぼけた黒い錠剤だよ持ってんだろと僕は執拗に絡んだMは溜息をつきパンツのポケットに手を突っ込んでつかみ出した錠剤を一粒ほらと突き放すようによこしたこれだけだよやばいやつなんだからともいった
 そしてその後にあの惨劇が起きたわけだ
 自分がやっていることを僕は幕に投影された幻灯でも眺めるかのように感じていた拳は擦り剥けフラメンコ靴の爪先は血に染まったDJ兼司会者は頭を両手で庇って胎児のように背を丸め啜り泣いて許しを請うた肋骨があらかた折れると虫の息になった僕は最後までやらねば気が済まなかった園芸用の大きなシャベルを見つけてきて勢いをつけて高々と振りかざした原形を留めぬほど変形した顔めがけて振り下ろせば相手が死ぬのはわかっていたひとは些細なきっかけで殺人を犯すものだなとぼんやり思ったのを憶えている次の瞬間には天地がぐるんとひっくり返って電源が落ちるかのように闇へ沈んだ気絶していたのは数秒だったらしいざわめきが聞こえて意識を取り戻すと何人かが化け物でも見るかのようにおずおずと僕を覗き込んでいたそのなかには呆れ顔のMもいたPは遠くで怯える女優を懸命に宥めていたなんらおめえと僕はMにいったおれに何をやっら? 足を払っただけだよとMは答えた飲みすぎだよJ頭を冷やすんだねそうMはいってシャベルを手にしたままどこかへ消えた怒っているかれを見たのはそれが初めてだった
 迎えに来たCは泣いていた彼女に強引にタクシーに押し込められ家へ連れ帰られてからも僕はしばらくあいつがおかま呼ばわりしやがったとかなんとか陰険な目つきで執拗に呟いていたそうだ。 「お父つぁんはBEのゾディアックで迅速に病院へ運ばれ一時は意識不明の重体となったもののどうにか事なきを得た数日後憑き物が落ちたように冷静になった僕は自分が何をしたか急に気づき蒼ざめてぶるぶる慄えだしたあぁどうしようおれはいったいどうなっちまったんだとCに泣きついたあのひとに謝りなさいとCは僕の頭を膝に抱いて静かにいったひとはだれでも過ちを犯すけれど獣と違って悔いることができるわ……僕は濡れた犬のようにしゅんとなって詫びの電報を打ったBEが支払った金のおかげで手打ちにはしてもらえたものの、 「洞窟時代にさんざん世話になった男との関係は元には戻らなかった数年前にウィル・スミスがクリス・ロックを殴打するのをテレビ中継で見たとき僕はすぐにかれに電話してあんたはまちがってるといってやったひとは過ちを認めて謝ることができるとも説教したかれはとても混乱していて僕のいうことを理解できずまちがい電話だと思ったようだ
 僕は懲りたのだろうか? たぶん懲りなかったのだろうPと仲違いしていた頃肩を持つつもりでPを批判して僕にぶん殴られたやつが何人かいる電報で禊ぎを済ました僕はそれきり入院中の被害者のことは忘れたそれから数日はいつもとあべこべにMの尻を追っかけまわしあの技を教えてくれよと懇願したあの技って? とぼけんなおれをぶっ飛ばした技に決まってんだろいったいどうやったんだよあれは柔道だよ中国人がみんな功夫カンフーの達人なのとおなじ理屈さ日本人ならだれでもできるけどあんた白人だろう気の毒だけど諦めるんだね……云々煙に撒かれてふうんそんなもんかと納得させられたけれど当然そんなわけはないいま思えばあれは工作員としての訓練の賜物だったのだ。 「あの技を諦めた翌日僕はひとりでテレビに出演してエルヴィスの新譜をこきおろした四人で演奏したのとは裏番組だったのでファンはどちらを見るか悩んだようだかわいい坊やたちボーイズではなく僕単体を見た視聴者はきっと腹の皮がよじれながらも背筋は凍ったにちがいない発売を控えた新譜を試聴して売れるか否かを○×判定する他愛のない番組だったのだけれどあまりに僕がどの新譜も辛口の判定をするものだからほかのゲストもつられて×を連発した
 Cの助言にいたく感謝した僕は九月に休暇をもらえたとき今度こそ水入らずの新婚旅行のつもりで彼女をパリへ連れて行った伯母が当てにならないので別の親戚に息子を預け準備万端整ったところでCは緊張のあまり胃腸炎で倒れてしまった嘔吐が止まらない彼女に僕は旅をキャンセルしようかと提案した彼女はどうしても行くといい張って聞かなかった空港までのタクシーを数分おきに停車させなければならなかったほどなのに飛行機が僕らの現実から遠く離れて目的地へ着く頃にはCの症状は嘘のように治まっていたエッフェル塔にのぼり凱旋門を眺めモンマルトルを散策しお土産を山ほど買い込んで当時はまだ身分不相応に思えた宿のジョルジュサンクで交際をはじめたばかりの頃のように熱烈に愛し合いようやく挽回できたかに思えたCとの仲はBEが合流したことで台なしになったはたしてBEは空気が読めなかったのか商材の価値を護るべく僕らの仲にわざと水を差したのかMに袖にされていたらしいのは窺えたけれどわれらがマネージャの情緒不安定はこの頃はまだ表面化していなかったPとRはギリシャ旅行Gは兄とともにイリノイ州ベントンにいる姉を訪ねてすっかりリフレッシュした様子で休暇から戻ったのに僕だけがCとの微妙な空気を引きずって不機嫌だったMとBEが事務所で烈しくいい争う場面を見たのはこの頃だったと思う僕が入っていくとかれらは何事もなかったかのように急に話題を変えた
 その頃から加速度的に忙しくなり前座のはずだった公演が主役にされることが重なり憧れのロイ・オービソンと共演する頃には観客動員数は雪だるま式に膨れ上がり全国誌でも取り上げられるようになった十代の群衆が目を吊り上げ髪を振り乱し悲鳴を上げて殺到しはじめたいわば地元の熱狂が全世界に感染拡大したわけだけれど、 「洞窟の客はみんな顔なじみでどの子がだれの贔屓客でどの曲がお気に入りか僕らはすっかり承知していたうっとり見つめる顔もおふざけに笑い転げる顔も強い近視の霞を通してすら感じ取れたしリクエストや電話番号の紙を差し出す細い指にこちらの指を絡めることもできたところがいずれBマニアと呼ばれるようになる群衆ときたら向こうは僕ら四人をご存じだけれどこっちにはひとりひとりがどんな人間なのか知りようもない地下鉄チューブのブレーキ音さながらの金切り声とともに殺到する顔のない化け物に僕らは少しずつ狂わされていったPは躁状態になってベースが走り誤解されがちなRの目つきはますます哀しげになりだれよりも職業意識の高かったGなんかろくに演奏を聴いてもらえぬ状況に嫌気がさして持ち前の皮肉に磨きがかかり瞑想の世界へ逃げ込むようになる僕は裸眼で何も見ずにやり過ごそうとしたけれど徐々に薬物なしにはいられなくなり地に足の着いた常識人のCとは会話が噛み合わなくなってゆく何しろ彼女は僕の収入がどんなに増えて豪華な家に住もうが乳母や家政婦を雇おうとはせず有名人の華やかなパーティに参加しながらも翌日の献立を考えるような女だったYと出逢わなくとも遅かれ早かれ家庭は壊れていたろう


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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“Hellhound on My Trail(3)” への1件のコメント

  1. ::: より:

    @ezdog Jがキレる場面にはヒヤヒヤしたけれど、Mの活躍と彼の怒りにしんみりした。暴力にさらされてきたMにしてみればJの幼稚な癇癪は許せなかっただろうな。

    顔のない化け物のようなファン達はBの音楽など聞いちゃいないし本質を理解もしていない。そういう熱狂の渦に巻き込まれておかしくなっていくBのやつらが哀しい。