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連載第28回: Hello, Goodbye(2)

アバター画像杜 昌彦, 2025年04月11日

世間ではキュートな愛され坊やとして通っていて、いまでこそよき家庭人であるPもまた、お嬢様女優との身分違いの恋に破れるまでの行状は、あまり褒められたものではなかった。女たちはある晩パジャマパーティをしていた。Pの婚約者は洗いたての髪をアップにして特大カーラーをつけ、ほつれて毛玉のついたセーターと母親のお古のでかい下着ニッカーズを穿いていた。Cも似たような格好で、互いの彼氏にこんな姿は見せられないねと笑い合ったまさにその最悪のタイミングで扉が叩かれた。Cが扉を開けるとPがしかつめらしい顔で立っていた。隣室の口論はCに内容までは聞こえなかった。はっきり聞こえたのは扉がばたんと開いて階段を駆け下りる足音、それに玄関の扉が叩きつけられるように締まる音だけ。Pの婚約者——この時点でになっていたわけだが——が啜り泣きながらCの部屋へ戻った。カーラーははずれて生乾きの髪が房になってぶら下がり、顔は涙と鼻水で汚れ、見るも無惨な有様だった。ザ・Bの歴史から退場することになるその女をCは慰めた。束の間の隣人は数日後、指輪を残して部屋を出て行った。この指輪をCは大切に預かっていて、数年後、海外で幸福な結婚をした持ち主に返してやったそうだ。
 そんな生真面目で優しい女から僕は美術教師になる夢を奪うことになる。ろくでなしのロッカーとの恋を優先しすぎたあまり、学期末試験で彼女は単位を落とした。優等生の彼女らしからぬ失態で、それだけでも頭を悩ます一大事だったはずなのに、そんな憂いなど些細な問題に思わせる災いがおなじ日に降りかかる。体の変調に気づいて、美術学校の同級生でもある親友に付き添ってもらい、地域診療所を訪れたCは、冷淡な女医から威圧的に説教されるはめになった。そんな目に遭わせた張本人が自分でいうのもなんだけれど、当時こういうことは女性の意思ではどうにもならなかったのに、誹られるのは決まって女性の側で、しかも同性は味方になってくれなかった。幼少時に受けた虐待についてMが、学校の先生や近所の大人に助けを求めると、なぜかあべこべに説教されるんだよと話していたけれど、人間にはどうもそういうところがあるらしい。親友と別れて孤独な部屋へ帰宅したCは、母親に打ち明けるばつの悪さを畏れた。やがては結婚し子をなすものと漠然と思い描いてはいたものの、それは教師となり夫が成功してからのはずだった。危険な手術を受ける金もないし、何より彼女は恋人の成功を願っていた。新マネージャからはことあるごとに口を酸っぱくして、ファンの前では交際を隠すよう命じられていた。全国デビューを控えたいまがザ・Bの正念場だった。このタイミングで妊娠発覚なんてことになれば、これまでの努力は水の泡だ。Cはひとりで思い悩んだ。吐き気で目覚めて涙に暮れる数日をすごした末に決意した。身を退こう。母の助けも借りられない。独りで産み育てるのだ。
 彼女の体調が悪そうなのは気づいていたけれど、愚かな僕はその理由に思いが至らなかった。いつものようなことをさせてもらえないのに少し腹を立てていたくらいだ。ようやく事実を告げられた僕の顔つきを目撃したのがCだけなのは残念だ。きっと猟銃を突きつけられでもしたかのように蒼ざめていたろう。理不尽な別離の言葉を彼女がじっと待つあいだ、僕が無言で考えていたのはこんなことだ。できちまったものはしょうがない。孕ませたのは自分だ。「いつか」も「いま」もおなじこと、このタイミングでこうなったのも何かの縁だろう……。録音にテレビ取材といった日程や、得られる収入を素速く胸算用し、次の瞬間には結婚を申し込んでいた。ほかの選択は発想になかった。当時の女性にしてみれば自殺にも等しい覚悟を固めていたCは、生涯をかけた夢を危険に晒すことに迷いがなかった僕に胸を打たれたらしい。まぁそういうことにしといてもいいんだが、実のところ買いかぶりすぎというものだ。先が見えずに迷走していた時期ならいざ知らず、その時点の僕には妻子を養っていける勝算があった。所帯を持つのだ、親に棄てられたこのおれがと思うとワクワクしさえした。少し前にPはハンブルクで十代のウェイトレスに妊娠の責任を追求され、知らぬ存ぜぬで通した末、BEの手を借りていささかの費用を用いて追い払っている。一九八〇年に検査をしてこの疑いは正式に晴れるのだけれど、正直あのやり方はどうかと思っていた。それにこの物語にはあまりにも死者が多すぎる。そろそろ赤ん坊が登場してもいい頃合いじゃないか。Sが去り長男  来きたるというわけだ。
 僕はこれまでとは異なる人間、すなわち夫であり父親である一人前の男になる事実を、意気揚々とBEに告げた。事務室でかれは見るからにショックを受けた。交渉ごとでは都会的な発音で王族のように堂々と話すかれが、内気な女学生のように顔を赤らめて動揺し、しどろもどろの小声になった。もっと慎重に考えるべきだと説教がましくいい、何も結婚までしなくても……と提案してきた。僕はゴミでも払い除けるかのような手つきで却下した。愛していて子どもまでできたのに結婚しないなんておかしいだろ。いかれたロックンローラーのこの僕が正論を吐くなんて自分でもびっくりだ。BEは肩を落として深い溜息をつき、わかった好きにしたまえといった。この男は結局、僕に甘いんだ。一度味方になることに決めたらかれの行動は早く、すぐさま結婚許可証をとって登記所を予約してくれた。彼女の腹がせり出て周囲から詮索される前にことを決めなければならない。式の日取りは花嫁の母親がカナダへ戻る翌日の八月二三日に決まった。初のテレビ収録の翌日でもある。
 結婚は易しかったけれどピートBについては答えが出なかった。悩むあいだにも毎日顔を合わさねばならなかった。挨拶や会話を交わしながらも肚の底を見透かされていまいかと畏れた。僕はこの頃よくMをつかまえて「葡萄亭」の奥部屋でサシ飲みしたものだ。あとの連中は僕の機嫌を察して、何かと口実をつけて要領よく逃げちまう。あの日本人が楽なのは酒と豆ッコさえ与えとけばこっちが不機嫌に黙っていてもほっといてくれるところだ。その夜も僕らは黙々と杯を空にした。すると突然なんの脈絡もなく、ピートBのことだろと図星を指された。あまりに急だったので聞き違えたのかと思った。音楽も冗談も波長が合わないから馘にしたいけど勇気がないんだろ、とMは今度は逃げ道を塞ぐようにはっきりといい、それからニタッとあの間抜けな笑みを見せた。僕は腹を立てたが後ろめたさのあまり殴る気にもなれず、おまえなぁ……と不明瞭に弱々しく呻いた。それからクドクドと弁解した。PもGもあいつには不満がある、おれだって思うところはある、でもここ数年をともに耐え抜いた仲間だし、あいつはあいつなりにいい奴で……。
 うんもちろんそりゃそうだよとMはあっさり肯定した。馘にするなんてあり得ないね。するとへそ曲がりな僕はつい反論したくなり、でもよぉ……と我らがドラマーの悪いところを列挙しはじめた。チューニングが甘くて音が軽く、どの曲も代わり映えのない単調なスネア連打、変化といえば速いか遅いかのみ、しかも走ったり遅れたりする、つきあいが悪すぎるし冗談も理解せず悪ふざけにも乗ってこない、音楽よりも金勘定や交渉ごとのほうが好きそうだ云々。きみのいいたいことはわかるけど、とMは前置きしつつ眉をひそめて、ロックンロールは技術じゃないってきみもいってたろう、原始的な叩き方だからこそ「洞窟」に合ってるんだよ、バンドには冷静な視点もひとりは必要さ、分別があって真面目な男だよね、マネージャ不在の時期にかれがいて助かったじゃないか……などと、僕の批判をひとつひとつ丁寧に受け止め、あまたの欠点をあたかも美点であるかのように肯定してみせた。そうされると僕はますますムキになり、異国での武者修業を一緒に乗り越えてきたかけがえのない同志を、躍起となって全力でこき下ろすのだった。僕が不平不満をあらかたぶちまけ、悪口が種切れになるのを見計らってMは呟いた——Rならそんなことはないのにね。あたかもそんなことに関心などないかのようにさらっといいやがった。
 どうも僕は疑り深いくせに騙されやすいところがあって、何年も前の会話を反芻してようやく相手の悪意に気づくことが多い。さながら一瞬の隙に悪霊が入り込むかのように心が決まった。いま振り返ればMの術中にまんまと嵌まったのだ。あいつの弁護はよく考えれば何ひとつ肯定していない。下手くそな原始人に洞窟はお似合いだとか、糞真面目でひとりだけ浮いているとか、BEが登場したいまとなっては用済みだとか、むしろ僕より残酷ないいぐさではないか。僕らとピートBの相性の悪さを印象づけて仲を裂こうとする意図しか感じられない。よく考えれば問題の核心たるモナBのことさえ悪くいっていた。情熱的な恋愛だよね、別居中とはいえ離婚も済んでいないのに、息子の親友の子を妊娠するなんてさ……とかれはいったのだ。憧れるようなその口ぶりに騙されて、幼稚な奴だなと呆れたものだけれど、要はあいつは、いい歳をした大人が未成年に手を出して息子の人生を破壊したことを、情け容赦なく批判していたのだ。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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“Hello, Goodbye(2)” への2件のフィードバック

  1. ::: より:

    @ezdog Cが指輪を預っていたエピソードいいなぁ。そしてCが女医に説教されたことの理不尽さをしっかり書いてくれたのがよかった。

    JとMが飲んでいるシーンすごくいい。Mの策士っぷりがなかなかだし、何よりこのふたりの友情が伝わってくる。悩ましい時間を黙って一緒にすごしてくれる友というのは、とても大事な存在だな。

    • ::: より:

      @ezdog Mは単に任務のためだけじゃなくて、本当にJのためを思って背中を押してくれたんじゃないかと思う。

Comments

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  1. 杜昌彦
    杜昌彦 @ezdog.press

    てすと

    2025年4月11日