親元から独立して家庭を築く試みが難航していたこの頃、 初の米国公演が決まった。 紛い物のロックンロールやソウル音楽を演奏してきた僕らが憧れの本場にいよいよ上陸ってわけだ。 張り切りもしたし重圧も感じた。 かの国ではEMIと提携しているキャピトルが一九六三年末、 英国での人気にようやく気づいて重い腰を上げたばかりだった。 蓋を開けてみれば 「抱きしめたい」 はわずか三日にして全米で二五万枚、 年が明けて十日後には百万枚、 さらに数日後にはニューヨークだけで一時間に一万枚の売れ行きで、 業界紙チャートで初登場四三位からいきなり首位に躍り出た。 報せを聞いた僕らは狂喜して朝の五時まで盛り上がった。 僕もGもRも文字通りそこら中を飛び跳ね、 PなんかマルEの背中に飛びついてお馬さんごっこをせがんだ。 とはいえBEが雇った広報担当者なら、 売り込みの手応えは掴んでいたのだろうけれど、 十代の少女向けアイドル雑誌 『一六』 での人気が一般誌にまで飛び火して、 『ライフ』 なんか六ページにわたって僕らの特集を組んだらしいのに、 僕らの認識ときたらどうやらけっこう売れてるらしいぞ、 くらいのものだった。 三ヶ月前に格安の報酬でむりやりねじ込んだ人気番組 『エド・サリヴァン劇場』 の仕事を間近に控え、 多少の野心はあったとはいえ、 英国人が米国に乗り込んで成功した例はいまだ存在せず、 クリフ・リチャードでさえ敢えなく撤退したと聞いていたし、 僕らにしても直前のパリ公演がさして盛り上がらなかった (あのヒッチハイクの旅と同様に女たちはしらっとしていて、 男たちの野太い声援が目立った) 上に、 米国初進出のアルバムはキャピトルに断られ、 夫婦が手作業でプレスして袋に詰めるような家族経営の小さなレーベルから細々と売り出されたものの、 ジャケ写は裏焼きで盤面は綴りを誤り、 歌い出しのカウントは三からはじまるようなお粗末な品質だったもんで、 過度の期待はせず、 今回はひとまず敵情偵察を兼ねたお試しのようなものと捉えていた。
その前にパリで退屈な仕事をこなさねばならなかった。 EMIの子会社オデオンに僕らのシングル二曲をドイツ語で吹き込まされたのだ。 そうしなければ自国で成功できないと連中は本気で信じていた。 オケは元音源の流用で、 直しが必要なのはリズムトラックくらい。 歌詞はドイツ人の歌手だか司会者だかがでっち上げたやつを押しつけられた。 シャイセとかピーデルなんて単語こそ見当たらないけれど、 何を歌わされるか知れたもんじゃない。 日頃は何かと説教がましいMでさえ、 こんなのちっとも創造的じゃないよ、 AIにでもやらせりゃいいじゃんと文句をいった (なんだって? とGが太い眉根を寄せ、 もっともらしく装うばかりで心がないやつを意味する日本語だよとMは応えた)。 聞き分けのないことをいうんじゃない、 と僕らを叱りつけるGMにしても本心ではやりたくなかったはずだ。 そこでお嬢様女優がPに逢いにきたのをこれ幸いと、 僕らは収録をばっくれた。 高名な精神科医と音楽家の娘で、 それまでちゃんと話す機会はなかったのだけれど、 この異国の地で挨拶してみれば、 なるほどあいつがぞっこん惚れ込むだけあって知的で高貴な感じがした。 実際この半年後くらいに公開されたヴィンセント・プライスの怪奇映画ではお姫様を演じている。 彼女の前に出ると僕らはみんな、 付き人ふたりやMも含めて、 毛並みの差を意識させられて緊張した。
パテマルコーニ録音所で小一時間、 待ちぼうけを喰らわされたGMはジョルジュサンクに電話した。 僕らが遅刻するたびに矢面に立たされるNが、 みんなまだ寝てますと応えた (そういえと僕に強要されたのだ)。 とっとと来いと連中に伝えろ、 いや私がそっちへ行くとGMは受話器を叩きつけて、 ドイツ人の歌手だか司会者だかと一緒にタクシーを飛ばした。 僕らがかれに反抗するのはそのときが初めてだった。 怒り狂ってスイートに踏み込んだGMは、 気違い帽子屋のお茶会さながらの光景を目にすることになった。 正面ではお嬢様女優が陶器のポットでお茶を注いでいて、 僕らは家来よろしくかしこまって長テーブルの左右を囲んでいる。 僕らは自習時間中の教室に校長が現れたみたいに四方八方へ弾け散り、 ソファに飛び込み座布団で頭を隠したり、 ピアノの陰やカーテンの裏に隠れたりした。 いったいなんのつもりだこの屑ども! とGMはかんかんになって怒鳴った。 僕らは渋々戻ってきてしどろもどろに謝り、 二日後にちゃちゃっと収録を済ませてついでに新曲も一曲録った。
大使館で旅券を取得してからいったん帰国し、 翌々日の二月七日にパンナム一〇一便ボーイング七〇七に搭乗した。 僕は隠す必要のなくなった妻を連れて行くと強硬にいいはってBEに認めさせた。 本当はそもそもの最初から、 Cにはどこへ行くにもついてきて舞台の袖から見守っていてほしかったのだ。 信じてもらえないかもしれないけれど、 その願望は彼女に家にいてもらってよその女とよろしくやりたいという欲求より強かった。 家庭に留まって支えてくれる伴侶を求める考えの古さでは、 Pも僕と大差なかったのに、 お嬢様女優は自立していて仕事で忙しかったし、 のちに最初の妻となるRの彼女は、 いまだ地元で美容師見習いをしていて、 Gがアイドル女優と運命の出逢いをするのはまだちょっと先。 その辺りの事情を巧みに隠していたBEはといえば、 付き人ふたりの分はもちろんMの飛行機代まで出してやったようだ。 神出鬼没のMのこと、 現地集合でいいよと断るかと思いきや素直についてきた。 息子は義母に託した。 困ったときに必ず力添えをしてくれる母親がいるCを、 またしても僕は羨んだ。
ヒースローには英国全土から見送りのファンが殺到し、 横断幕を掲げて泣き叫んでいて、 警官隊は互いの腕を鎖のように組んでそいつらを押しとどめており、 一般乗客が利用を諦めねばならぬほどだった。 機内は報道陣も大勢乗っていて、 シャンパンがふるまわれてちょっとしたお祭り騒ぎだった。 主役であるところの僕ら四人は期待と昂奮が高まるとともに、 緊張で胸が悪くもなってきた。 僕らを見守るかのようにひとりだけ離れて座るMは始終、 何かを警戒して険しい顔をしていた。 かれの大嫌いなプロデューサーが、 呼ばれもせぬのに強引に割り込んで同乗し、 上機嫌で僕らの酒を呑みまくり、 僕らに馴れ馴れしくふるまったせいかもしれない。 このときはまだPが米国進出への不安を打ち明けるほどの間柄だったけれど、 のちに僕を銃で脅しつけて (レナード・コーエンもやられたそうだ) マスターテープを持ち逃げしたり、 妻たちを暴行して最後には射殺したりしたことを思えば、 その人となりにMが不安を抱くのも無理はなかった。
出迎えもまた凄まじかった。 暗殺された大統領の名前に改名されたばかりの空港で、 車輪が地面を捉えて滑走しているときでさえ騒ぎは聞こえてきた。 悲劇で喪われた偶像の代わりを全米が求めていて、 たまたま絶妙の間合いで現れた英国の四人組が、 その位置に祭り上げられたばかりなのを僕らは知らなかった。 重い扉がひらくとファンの叫びが洪水のように機内へ押し寄せてきた。 大統領でも到着するのかなと呑気に構えていた僕はびっくり仰天、 おいあれ見ろよと叫んで指さした。 学校をサボって結集した三千人の少女たちが、 プラカードを掲げたり旗を振ったり、 僕らの曲を合唱したり髪を振り乱して絶叫したりしていた。 報道陣だってざっと二百人は詰めかけている。 昂奮する僕らと英国の報道陣を尻目に、 MとBEだけは冷静だった。 もじゃもじゃ頭の日本人は油断なくまわりに気を配り、 青年実業家は三ヶ月前から準備した段取りを滞らせまいと、 手際よく担当者に確認したり指示したりしていた。 このふたりだけはこうなることが肚の底でわかっていたのだ、 どこの音盤会社にも門前払いされていた頃から——いや遥かそれ以前、 何者でもない僕らが地下の牢獄や洞窟で汗みどろで叫んでいた頃から。 空港の建物で僕らは報道陣が待ち構えるラウンジへ追い立てられた。 生贄に供されるのにわずかのあいだとはいえCと引き離されたのに不安を憶えた。 こんな大規模な記者会見なんて生まれて初めてだし、 他人が受けてるのだって見たことない。 会見場があまりに騒がしいんで、 BEがパブで意気投合して雇った広報担当者は、 黙らっしゃい! と怒鳴った。 その尊大さに何様だこいつ……といった困惑のさざ波が広がった。
元海軍少佐なる経歴を鼻にかけて威張り散らすこの禿男に、 僕らはずっと辟易していた。 態度が大きい割に無能なのでなおさらだ。 一度などパリ公演で記者会見の段取りを忘れた挙げ句、 待たされて殺気立つ記者団に畏れをなし、 急遽応じるよう僕らに命令してきた。 パリ公演で疲れ果てたGが渋ったところ、 上官気どりの大声で叱責され、 ムカッ腹を立てたあいつはオレンジジュースで満たされた水差しを衝動的に投げつけて、 この生意気な青二才が、 と怒鳴られ鉄拳制裁を喰らった。 それを目撃したMは、 急にハンブルクのならず者もかくやという陰険な目つきになり、 オヤオヤ元少佐殿、 何かお立場を勘違いなさってるんじゃァございませんか、 その拳骨のお給金がどこから出てるとお思いで、 お国じゃあござんせんぞ……などと唇を歪めて挑発した。 僕らのあいだでもっとも訛りが強かったのはGだけれど、 そのGをしてあんなのはどんな年寄りの口からも聞いたことがない、 といわしめたほどのきついリヴァプール訛りだった。 元少佐は怒り心頭、 禿頭を真っ赤にして猛然とMに殴りかかった。 そして僕のときと同様に、 その勢いでもってあっさり投げ飛ばされ、 ジョージ五世ホテルの格式ある壁に叩きつけられて、 寄り目になってうーんとひと声唸り、 意識を喪った。 怯えて医者を呼ぼうとするBEをMは制止し、 ほっといてあげましょうや、 偉大なる英国海軍の少佐殿が、 たかが一兵卒に投げ飛ばされて伸びちまうなんて、 そんな不名誉なことあるはずないですからなァ……とニッタリ笑った。 禿の元少佐は半時間は意識を取り戻さず、 それ以降はMにどれだけ侮辱されても無視するようになって、 僕らとの力関係も変わり、 コソコソと逃げ隠れするようになった。 広報担当として使いものにならぬ上に、 米国の記者団に対する居丈高なふるまいはさすがに目に余ったらしく、 帰国後ほどなくこの禿はBEに馘にされた。
フラッシュが焚かれマイクとレンズの束が突きつけられた。 抱負は? 米国に来ること。 お土産にしたいものは? ロックフェラー・センター。 ベートーヴェンをどう思われますか? いいよね、 特に歌詞が……云々。 空港前には黒いキャデラックが並んでいて、 僕とCは二台目、 あとの三人とBEは先頭車両に乗る手筈だった。 ところが警官隊が押しとどめきれずに群衆があふれ出て、 お節介なだれかがリムジンの屋根を叩いて行け行け行け! とMの紛い物みたいに叫んだので、 僕につづいて乗り込もうとしていたCが僕の手から引き離されてしまった。 車内にいた僕も路上に取り残されたCも、 恐怖にとらわれて大声で叫んだ。 群衆に呑み込まれる寸前でCは、 どこからともなく魔法のように現れたMに引き上げられ、 僕らの車に押し込まれた。 Mは一緒に乗り込んで扉を締め、 車を出すよう運転手に指示した。 苛々して思いやりを示す余裕すらなかった僕は、 モタモタすんなよ愚図、 殺されてたかも知れないんだぞと冷酷にいい放った。 伯母の許で育った僕はそのような言葉がひとをどれだけ傷つけるか考えもしなかった。 船みたいに広い豪華なキャデラックの後部席で、 僕は彼女の手を握りしめて身を抱き寄せ、 流れる摩天楼の街並みを感極まって眺めた。 車のラジオからは僕らの訪米を告げる速報がひっきりなしに流れた。 こちらは一〇一〇WINS公式B放送局です……ちゅいーんざざざ……こちらはWMCA局、 現在B時三〇分、 マンハッタン・ダウンタウンの気温は三四B度、 それでは聴いてくださいザ・Bのスマッシュヒット 「抱きしめたい」 ! 伯母の世話や育児を押しつけ、 当時は役得と考えられていた裏切りを無数に重ねておきながら、 それでも僕はCに愛を求めた。 僕を棄ててあっさり死んだ母や、 底なし沼のような伯母に奪われたものを埋め合わせてほしかった。 夢破れて異国の便所裏から強制送還された惨めな自分ではなく、 成功して熱狂的に大歓迎される僕を見てほしかった。 その虫のいい願望がこの米国の地でついに叶ったのだ。 幸福な僕の傍にいられてCも幸せそうに見えた。 なりたかった夫婦になれたと感じた。 Cが何になりたかったかなんて考えもしなかった。 ちなみにBEはこのとき先頭車両に乗り損ね、 イエローキャブで僕らを追うはめになった。 おかげで部下のひとりは米国滞在中、 ずっと理不尽に当たり散らされたそうだ。 僕がBEを辛辣に虐め、 BEが部下にパワハラする暴力の連鎖が、 この頃にはすっかり完成していた。 Mによれば暴力はウィルスのように増殖し拡散するという。 BEの部下たちが鬱憤を妻子で晴らしていなかったのならいいのだけれど。
水色のフォードに高速道路で追い越された。 五人の若者のうちひとりが後部席から身を乗り出して僕らに赤い毛布を振った。 元は白だったろうと思われる薄汚いコンヴァティブルを運転する少女と後部席の少年たちも僕らに手を振った。 車体の埃には指で僕らのグループ名が書かれていたが綴りがまちがっていた。 この車はパトカーから脇に寄せるよう指示され渋々、 高速を降りた。 ずっと尾けてきたイエローキャブは交差点で前のリムジンに並んだ。 窓越しにGに話しかけたブルネット女は、 何かおもしろいことをいわれたらしく笑っていた。 僕とCはその様子を指さして笑い合った。 Mだけがどうも万事お気に召さぬご様子だった。 僕は水を差された気分になり、 何か気に喰わねぇことでもあるのかよとムッとして尋ねた。 きみらはいいんだ、 平和をもたらす音楽だからねとMは応じた。 でもこれだけ大きな国のこの熱狂が、 邪悪なものへ吸い寄せられたらどうなると思う、 『一九八四年』 や 『華氏四五一度』 みたいなさ……あの空港とおなじ名前の劇場で何が演じられるべきか、 権力者が決めるような世界になったら? 見るもの聞くものすべてに大昂奮していた僕は聞き流し、 そんな舞台施設がまだ存在しないことにも気づかなかった。 まして僕らの音盤が近々この国で焼かれることになるなんて夢にも思わなかった。
連載目次
- Born on a Different Cloud(1)
- Born on a Different Cloud(2)
- Born on a Different Cloud(3)
- Get Off Of My Cloud(1)
- Get Off Of My Cloud(2)
- Get Off Of My Cloud(3)
- Obscured By Clouds(1)
- Obscured By Clouds(2)
- Obscured By Clouds(3)
- Cloudburst(1)
- Cloudburst(2)
- Cloudburst(3)
- Over the Rainbow(1)
- Over the Rainbow(2)
- Over the Rainbow(3)
- Devil’s Haircut(1)
- Devil’s Haircut(2)
- Devil’s Haircut(3)
- Peppermint Twist(1)
- Peppermint Twist(2)
- Peppermint Twist(3)
- Peppermint Twist(4)
- Baby’s in Black(1)
- Baby’s in Black(2)
- Baby’s in Black(3)
- Baby’s in Black(4)
- Hello, Goodbye(1)
- Hello, Goodbye(2)
- Hello, Goodbye(3)
- Hello, Goodbye(4)
- Hellhound on My Trail(1)
- Hellhound on My Trail(2)
- Hellhound on My Trail(3)
- Hellhound on My Trail(4)
- Nobody Told Me(1)
- Nobody Told Me(2)
- Nobody Told Me(3)
- Nobody Told Me(4)
- Paperback Writer(1)
- Paperback Writer(2)
- Paperback Writer(3)
- Paperback Writer(4)
- Anywhere I Lay My Head(1)
- Anywhere I Lay My Head(2)
- Anywhere I Lay My Head(3)
- Anywhere I Lay My Head(4)
- Anywhere I Lay My Head(5)
- Crippled Inside(1)
- Crippled Inside(2)
- Crippled Inside(3)
- Crippled Inside(4)
- Crippled Inside(5)
- Mother’s Little Helper(1)
- Mother’s Little Helper(2)
- Mother’s Little Helper(3)
- Mother’s Little Helper(4)

@ezdog 無意味な録音をバックレようとするBの奴らが高校生かよ!って感じでほほえましいのだけれど、そんな彼らが熱狂に巻き込まれていく様子は晴れがましくも恐ろしい。
埃に指でBと書いた車のファン達はひとりひとりはいいやつそうだ。しかしその熱気が集団となり、よからぬ方向に向かっていくことの怖さ。今を生きる読者へのMからの真摯な警告がずっしり胸に響いた。
Jの弱さがえがかれているのもいい。MがCを助けてくれるのも。
きっとCのために幸せな思い出を作ってあげたかったんだな。
@ezdog 禿の元少佐がやっつけられるシーン、スカッとした!こんなスッキリやっつけてくれたらそりゃGもMを信頼するようになるよなぁ。