嵐は過ぎ去ったから安心しろと聞かされていたのにイメソン空港に到着した時点では雲が重く垂れ込めて夜のように暗く、 地獄のような強風が吹き荒れていて、 椰子の木が倒れて葉が散乱していた。 四ドルから五ドルを支払った三万人のうち会場を訪れる余裕があったのは二万三千人だけだった。 残りの七千人はきっとMの故郷で起きたような災いじゃなく、 黄色い煉瓦道の先で愉快な仲間たちとの冒険を経験していたと信じたい。 その頃にはさすがに結婚や恋愛 (僕はCと長男、 Pはお嬢様女優、 GはポテチCMのアイドル、 Rは地元ファン) を隠さなくなっていたものの、 政治と宗教については公の場で話すなといまだBEに厳命されていて、 僕としてもそれで構わなかった。 一九六四年の時点ではどちらにも関心はなく、 表明するほどの意見は持ち合わせなかったからだ。 Pなんかは学者一家に育ったお嬢様女優と釣り合う男になりたくて、 身分や学歴の高い連中と交流して積極的に学びつつある様子だったけれど、 田舎の港町から出てきた不良にすぎない僕にしてみれば、 ふんぞり返った政治家やじっと静かにしてなきゃいけない礼拝が苦手ってこと以外、 難しいことは何もわからず、 客の前で好きなように演奏させてもらえれば文句はなかった。 ただ単にその演奏を特定のだれかではなくみんなに聴いてほしかったし、 でき得るならば、 大きな借りのあるひとたちに感謝と敬意を示してさらには認めてもらいたかっただけだ。 思い出してほしい、 僕は障害者やBEのような少数者を差別して楽しむような人間だったのだ。 アイルランドの血が半分流れていなければ、 ハンブルクを経験せずYやMとも知り合っていなければ、 やがて監視や裁判を耐え抜いてまで移民するような人間でなければ、 僕だってボブ・マーリーの曲で大金を稼いでBBキングと共演までしておきながら、 いけしゃあしゃあと移民を侮辱して公演会場から追い払うような、 高級車の蒐集と勲章がご自慢の鼻持ちならぬ老人になって、 いま頃はヴァン・モリソンと結託して反ワクチンの陰謀論を唱えていたかもしれない (デヴィッド・ボウイは数年で改心して猛省したってのに……なんだって僕はあんな奴とまだ友だち付き合いをつづけてるんだろう)。 客席を隔てるなと契約書に明記させたのは決して高邁な倫理観からじゃない。 音楽に人生を救われた人間の素朴な欲求にすぎなかった。 僕は確かに嘘つきだけれど、 そういうところで世の中を騙して自分を立派に見せかけるつもりはない。
興行主は同意しても会場の権利者 (多くは自治体) や設備となるとまた話が別だった。 公民権の制定はたった二ヶ月前で、 現地じゃ男女の便所が分けられるのとおなじ意識だった。 僕は報道陣に思うところを素直に述べた。 関東大震災の話をMから聞かされたばかりだったのも少しは影響したかもしれない。 普段は如才ないPもこのときばかりは同調し、 例のチャーミングな笑顔をかなぐり棄てて、 おなじ人間なのに席が分けられるなんておかしいと真剣に主張した。 どの地元紙も余所者が知った風に嘴を突っ込むなと批判がましく書き立てた (Mがおもしろがって買い集めて僕らに読み聞かせてくれた)。 全米芸術家組合は千八百ドルのみかじめ料、 もとい組合費をよこさないかぎりピケを張ると脅迫してきた。 規定上ギターを弾くのは構わないが歌うのはまかりならぬというのだ。 BEは大人しく全額を支払い、 会場は渋々とはいえ新たな法律に従って設備を改めた。 すると今度は無断撮影のフィルムを売りさばいて暴利を得んとする連中が公演を妨げたんで、 広報担当デレクTが一世一代の大演説をぶつことになった。 いわく、 みんなに聴いてもらうために何千マイルも旅をしてきたザ・Bはいま百フィート先で待機している、 出番を妨げているのは海賊盤の業者だ……。 それを聴いた群衆は怒り狂って全力で叫んだ。 撮影機器を担いだ八名の業者は殺害される寸前で警察によってこれ見よがしに取り押さえられ、 会場外へ連行された。 僕らは高さ六フィートの金網と客席まで四五フィートの距離、 それに仁王立ちする四〇名の警官に護られて演奏した。 Rのラディックは舞台に釘づけされ、 PとGは僕ほどじゃないにせよ大股に大地を踏みしめた。 障壁と風のおかげでジェリベイビーズは届かなかったけれど木枝だの葉っぱだの紙切れだのが何度も飛んできた。 マルEは僕らが虹の彼方へ飛んでっちまうんじゃないかと気が気じゃなかったようで、 大丈夫だよJは猫派だとMにわけのわからぬ気休めを囁かれたそうだ。 吹きすさぶ強風のおかげで僕ら四人ははからずも鬘疑惑を払拭した。
当時の僕らがわかってなかったのは、 大衆なるものは僕自身がそうであるように難しいことは何もわからないってことだ。 それまでの常識や習慣が法律で否定されました、 よそからやってきた音楽に子どもたちが熱狂しています、 さあ変化に従いましょう……なんていわれて渋々受け入れてみせても心の奥底じゃ何ひとつ納得しちゃいない。 いい暮らしをする高学歴連中から、 教養のなさにつけ込まれて押しつけられたと感じる。 鬱屈した不満はいつか噴きだし、 疫病のごとく蔓延して社会を原始時代へ揺り戻す。 ここ米国の田舎町で意見を通した事実に僕はやがて復讐されることになる。 かといって一九六四年九月一一日でも二年後の舌禍でも、 自分を偽るなんて考えもよらないことではあったのだけれど。 ザ・Bを神格化したがる連中は、 このときの僕らのふるまいが、 やがて全米の興行会場で差別が撤廃されるきっかけになったと主張する。 白人も黒人も分け隔てなく僕らに熱狂した、 国境のない理想が実現したのだと……。 何かのパーティで顔を合わせたウーピー・ゴールドバーグから、 黒人の少女たちに勇気を与えてくれたなんて改まって礼をいわれたことさえある。 彼女の大ファンなんでそう思ってもらえるのは嬉しい、 でも残念ながらみんな嘘っぱちだ。 あの頃はきわめて過密な日程で地球上のあらゆる場所を次々に移動したんで、 どの国のどの会場だったか曖昧で当てにはならないけれど、 嵐の会場で黒人を見かけた記憶はない。 飛ばされまいと必死で客の顔なんか気にしちゃいられなかったせいかもしれない。 半世紀前の何月何日に喰った昼飯までご存知のファンのほうがそういうのは詳しいだろう。 僕ときたらもう十五年も前から、 前日の晩飯さえ思いだせない始末だ。
商売上手なYの宣伝のおかげでいまじゃ平和の使者みたいに過大評価されているし、 Mなんか未来でAIに何を吹き込まれたのか、 本気でそう信じていた節さえあったけれど、 実際にはあの頃のザ・Bは思い上がった糞野郎だった。 それも地上最大の……そう、 とりわけ僕がだ。 やるかたない憤懣をM本人へぶつけられぬ分、 付き人たちと広報担当それにBEがその割を喰った。 報じられる僕らは子どもたちに明朗健全な愛を売る、 何の憂いもない愉快な若い四人組。 しかしてその実体は、 酒をもって池と為し肉を縣けて林と為し、 男女をして倮らならしめ、 あいその間に逐わしめ長夜の飲をなす暴君そのものだった。 戯れに何かに触れるだけで百万ポンドもの大金をたちまち生み出し、 ばら撒きや賄賂が横行し警察までをも巻き込み、 荒唐無稽な誇大広告にまみれた僕らを、 だれが引きずり下ろせるというのだろう。 それをやれる唯一の男は些細なことで口うるさく小言をいう一方で、 現代なら大炎上ものの狼藉にはいつだって見て見ぬふり。 あいつ自身がだれよりも法や倫理に無頓着で、 ファシストのごとく他人に顎で指図して平然としていたからだ。 公務員をしながら 「洞窟」 の用心棒をしていたマルEは、 ただ感動して僕らをうっとり仰ぎ見るばかりだったけれど、 この頃にはザ・Bがプラチナ製の神からほど遠いことを、 徐々に身に染みて理解するようになっていた。 妻子を抱えた身でありながら華やかな世界に眼が眩み、 安定した職を擲ったかれは、 今さら郵便局に戻れるわけもなく、 どれだけ理不尽な扱いを受けても耐えるしかなかった。
女を巡る共犯関係のおかげで絆は強まりつつあったものの、 献身的に尽くしてくれる付き人を僕が頭ごなしに人格否定するのは、 この頃もまだ日常茶飯事だった。 ジャンボと呼んで愛用したGとお揃いのギブソンJ一六〇Eを一九六三年の暮れに紛失されてからは、 たかが五〇ペニーのことでSを執拗にからかったP以上にネチネチと、 僕はマルEに辛辣な厭味をいいつづけた。 いかに寛大な心優しい人間にも限界はあるもので、 いつ何時どんな要求をされても応じられるよう、 煙草や大麻やピックを詰め込んだ通称 「お医者さん鞄」 を抱えたあの大男は、 ボストンガーデン公演のためにマサチューセッツ州へ向かう機内で、 どっかへ失せろと僕に理由もなく怒鳴られたあと、 安い後部席でしくしくと声もなく泣きだした。 たちまち曇る黒縁の眼鏡をはずして俯き、 怪力で知られる巨大な拳で、 溢れる涙をごしごし擦った。 隣に座るMが顔を寄せて何やら話しかけた。 あとであの日本人に聞かされたところによればマルEはこう語ったそうだ——Jはわたしのことがきらいなんだ、 それでもあの男が大好きさ、 強い魅力の持ち主だよ、 手荒いときもあるけどね、 わかるだろ、 知るかぎりあんな偉大な男はいないよ……と。 いかに大きな体から発せられる言葉だろうと、 すべて聞こえたわけじゃない。 でもその異変に機内で気づかぬ者はなかったし、 まして身に憶えのある僕が無視してはいられなかった。 Rの困惑やGの視線を感じた。 隣のPが前方を見つめたまま独り言みたいにボソッと呟いた。 ……おい、 謝ったほうがいいんじゃないか。 あいつがその台詞をいい終える前に僕は何かに撃たれでもしたかのように立ち上がった。 そして不機嫌な顔で大股に、 のしのしと後部席へ歩いて行った。 機内の視線を集めるのを意識した。 マルEを宥めようとしていたMが振り向いた。 泣き濡れた顔を上げたマルEを、 僕は無言でしっかり抱きしめた。 その肩は思った以上に大きくて僕の両腕には余った。 付き人の模範として世界中の同業者から尊敬を集めることになる男は、 大切な仲間にさえ辛辣に接することしかできない僕をひしと抱き返し、 獣のような声で啜り泣いた。
なあ、 とMは横目でジトッと僕を見ていった。 もうちょっと給料を上げてやれよ、 せめておれとおなじくらいにはさ……。 Mが用心棒として正式に雇われていると知ったのはこのときだ。 あいつがどうして僕らと同行しているのかなぜかそのときまで一瞬たりとも考えなかった。 趣味でついてきているくらいに思っていたのだ。 あれコイツこんな顔だっけと唐突に思った。 初対面ではもっと頼りない無表情な男だったような気がした。 BEにいってくれと僕は背骨をへし折られかけ呼吸困難になりかけながら呻いた。 元役者志望の青年実業家は前方の座席でこの出来事に気づかぬふりをしていた。 なんならかれだって悔恨の熱い涙を流してマルEを抱きしめてやるべきだったのに。 僕らはチームで、 戦場さながらの過酷な全米公演を生き延びるために全員が全員を必要としていた。 でもきっとBEには 「坊やたち」 しか見えていなかったのだろう——それとかれの押し隠された心を翻弄する日本人しか。
連載目次
- Born on a Different Cloud(1)
- Born on a Different Cloud(2)
- Born on a Different Cloud(3)
- Get Off Of My Cloud(1)
- Get Off Of My Cloud(2)
- Get Off Of My Cloud(3)
- Obscured By Clouds(1)
- Obscured By Clouds(2)
- Obscured By Clouds(3)
- Cloudburst(1)
- Cloudburst(2)
- Cloudburst(3)
- Over the Rainbow(1)
- Over the Rainbow(2)
- Over the Rainbow(3)
- Devil’s Haircut(1)
- Devil’s Haircut(2)
- Devil’s Haircut(3)
- Peppermint Twist(1)
- Peppermint Twist(2)
- Peppermint Twist(3)
- Peppermint Twist(4)
- Baby’s in Black(1)
- Baby’s in Black(2)
- Baby’s in Black(3)
- Baby’s in Black(4)
- Hello, Goodbye(1)
- Hello, Goodbye(2)
- Hello, Goodbye(3)
- Hello, Goodbye(4)
- Hellhound on My Trail(1)
- Hellhound on My Trail(2)
- Hellhound on My Trail(3)
- Hellhound on My Trail(4)
- Nobody Told Me(1)
- Nobody Told Me(2)
- Nobody Told Me(3)
- Nobody Told Me(4)
- Paperback Writer(1)
- Paperback Writer(2)
- Paperback Writer(3)
- Paperback Writer(4)
- Anywhere I Lay My Head(1)
- Anywhere I Lay My Head(2)
- Anywhere I Lay My Head(3)
- Anywhere I Lay My Head(4)
- Anywhere I Lay My Head(5)
- Crippled Inside(1)
- Crippled Inside(2)
- Crippled Inside(3)
- Crippled Inside(4)
- Crippled Inside(5)
- Mother’s Little Helper(1)
- Mother’s Little Helper(2)
- Mother’s Little Helper(3)
- Mother’s Little Helper(4)
- Mother’s Little Helper(5)
- Flying(1)
- Flying(2)
- Flying(3)
- Flying(4)

@ezdog 知らなかった……Jがコンサートの座席の人種差別をなくしただなんて。全く彼らしい。深い政治的意図なんかなしに、自然にそれをおかしいと思っておかしいと言えるひとなんだよな。
辛そうなマルEが少しでも報われてよかった。心の余裕がなかっただろうJの気持ちも分かる。そしてMはマルEのためによくぞ言ってくれたなぁ。
Jはきっと本当に生きていたら、若い日の暴君のような自分をこんなふうに思い返して恥じたことだろう。そしてBEとMの関係の行方も気になるところ。
細かいところなのだけと、暴風雨のおかげで鬘疑惑が払拭されたというところも面白かった。あとJがクラプトンとまだ友人なのもよかった。