五日後、 一時的に改名していたがのちにザ・フーと名前を戻して楽器に虐待を加えるようになるグループと、 ブラックプールのオペラ劇場で共演した翌日に、 付き人マルEと広報担当デレクTはひと足先に米国へ発った。 空港からカウパレスまでの警備について、 サンマテオ郡保安官事務所やサンフランシスコ郡警察と打ち合わせするためだ。 米国の興行主たちは安全確保の重要性を理解せず、 BEやデレクTがどれだけ説明しても耳を貸さなかった。 宣伝のために話を盛っていると思われたのだ。 多くの会場では警察も自分らのほうが経験豊富で状況を把握していると思い込み、 痛い目に遭ってはじめて僕らの訴えを笑い飛ばしたのを悔やんだ。 現地の代理店は半年前からノルマンディ上陸さながらの綿密な作戦を準備していて、 その情報は当然、 警察にも共有されているはずだった。 なのに連中は真夏の駐機場にふたりを立たせ、 安全規則について高飛車に説教するばかりだった。 策らしい策がないと知って仰天したデレクTは、 感情を抑えて冷静かつ紳士的に強調した。 大観衆がザ・Bを待ち受けるんですよ、 綿密な備えがなければ必ず厄介なことになります……と。 すると副保安官は沽券を脅かされたかに感じたらしく、 おれの仕事に口を出すな、 さもなくばそっちが必ず厄介なことになるぞ! と声を荒げて脅迫した。 気の利いた台詞のつもりなんだろうけれど、 自分より大柄なマルEを威圧できると考えたのなら笑える話だ。 本物の社会病質であることが露呈しつつあった日本人を見慣れていたふたりは、 あいにく感銘を受けずに顔を見合わせた。 音楽好きが高じて記者になり僕らに気に入られて抜擢された広報担当は、 ただ困惑するばかりだったけれど、 Mの影響でチャンドラーやスピレインを濫読していた付き人は、 米国の警官って本当にこうなんだ……と内心おもしろがった。 そして当時の僕らがこんなときいつもそうだったように、 Mにこの土産話をしてやろうと心に決めた。
案の定サンフランシスコ国際空港には九千人以上が殺到した。 ヒルトンホテルへ向かう前に挨拶する場所がほしいというBEの要求に対し、 サンマテオ当局は空港の主棟から北西一マイル先の高台に、 暴風柵で囲った七メートル六〇センチ四方の緩衝地帯を設け、 一八〇名の警官を配備した。 僕らのチーム——すなわちザ・Bとマネージャ、 付き人たちと広報担当とMは、 莫迦みたいに長いリムジンの車内で頭を突き合わせて議論した。 顔を見せて手でも振ってやらなければ人死にが出る、 危険でもやるべきだとの結論になった。 最後まで反対していたMに僕らは、 いざとなったら頼むぜと無責任にいい放って肩や背中ををどやしつけてやった。 先頭のRを認めるなり群衆は高圧電流に打たれた猿の群のようになった。 人体の津波が絶叫して押し寄せ、 柵を砲撃のように烈しく揺すぶった。 現代の倫理観に照らして当時の僕らを誹るひとたちに、 狂った何千もの若い雌がたった四本の陰茎と八つの睾丸を求めて群がるこの光景を、 是非とも見ていただきたかった。 焼け跡が残る港町で鳴らした不良の僕らは、 客と捕食対象をそれなりに区別していたし、 喰い散らかした相手はファンよりもむしろその母親ばかりだった (娘の通行証を得るためだけに自ら売り込んできたのだ——据え膳を美味しくいただいた僕らはそのお子さん方をソーダ水でもてなしお土産を持たせてにこやかに追い払った)。 もとより僕ら世代の男は異性というものを、 妻や娘や妹や母親のような庇護すべき弱者と、 どれだけ汚く扱っても許される阿婆擦れとに二分して捉える傾向があった。 僕はCに後者を期待しつつも前者と心得ていて、 だから有象無象の後者と裏切りを重ねてなんら気が咎めなかった。 ところが一九六四年の少女たちにはその程度の分別さえなかった。 連中は警察に追われた売人よろしく続々と柵をよじ登りはじめた。 頑丈な金属柵はひしゃげて押し倒され、 一瞬先に乗り越えていた連中を下敷きにした。 悲鳴は絶叫に掻き消された。 踏み越えた群衆が僕らに到達する寸前で、 警官隊が僕らをリムジンへと押し戻した。 僕らが転がり込むや運転手はアクセルを踏み込んだ。 気密性の高い車内でさえも少女たちの絶叫で鼓膜が破れそうだった。 引き剥がされるまで群衆は車体を掌で叩いたり頬を押しつけたりしていた。 これが戦場でなくてなんなんだとMが洩らすのが聞こえた。
その夜はリトル・リチャードのオルガン奏者ビリーPと再会し、 旧交を温める余裕があった。 翌日の公演はそうもいかなかった。 ジェリビーンズの集中砲火に二度も中断させられながらも演目を淡々とこなし (賽銭を投げつけられる仏像のようだとMは感想を述べた)、 わずか二九分後に 「ツイスト&シャウト」 を終えるや楽器を舞台に放置して、 終演を観客に気づかれる前に袖へ疾走した。 リムジンは群衆の荒波に揉まれて転覆される寸前だった。 あのなかにはまだNがいるのだ。 半世紀後、 かつてMが故郷と呼んだ土地が地震と津波で壊滅したとき、 Yとふたりで狂ったように無数の動画を見つづけて、 急にあの日のことを思い出し、 どうやってあの車から生還したのか電話で訊こうとして、 Nがもうこの世にいないのを思い出したものだ。 プランBだとMが叫び、 負傷者に備えて会場に横付けしてあった救急車に僕らは飛び乗った。 マルEは殺気立った群衆に何をされるかわからぬ状況で、 機材を回収すべく果敢に舞台を奔走した。 この日の反省から僕らは記者団を詰め込んだリムジンを目立つ場所に停めて囮に使うことにした (さして効果はなかった)。 一万七千人を相手にしたここでの稼ぎは九一六七〇ドル、 経費を差し引いた取り分は四九八〇〇ドル。 五〇名が負傷し、 ほぼ同数が警官によって舞台から引きずり下ろされ、 二名が逮捕された。 記録された負傷者は肩を脱臼した一名、 過呼吸や失神で応急処置を受けた一九名、 軽傷五〇名。 治療を拒否して僕らを追った者もいたというから実際はもっと多いはずだ。 地獄のような公演のこれはまさに序の口だった。 宿では三五名が給仕に扮して一五階への侵入に成功したものの、 その時点で僕らはチャーター便に搭乗していて部屋はもぬけの殻だった。
午前一時に到着したラスヴェガスでは夜間外出禁止令が出されていた。 にもかかわらず宿の前で僕らを待ち構えていた二千人は警察犬に追い散らされた。 いつかテレビで見た抗議の若者たちが受けた扱いを連想して僕らはぞっとした。 一八階のペントハウスには監禁される僕らに配慮してスロット機が二台設置されていた。 脱走で悪名高い僕らにカジノへ繰り出されたら、 未成年が殺到して収拾がつかなくなるからだ。 Mが顔をしかめて場末のラブホみたいだな、 いやこっちが原型かと感想を述べた。 なんだって? とGが聞きかえしたのをあいつは聞こえないふりをした。 なんとなく意味を察した僕は意外な側面をかいま見たように思い、 そういう場所にはどっちの性別の相手と行くんだろうかと邪推した。 Pがちょっと試して報道写真に収まっただけで僕らはその銀色の小箱にすぐ飽きた。 ああいうのは貧乏人を騙すためにあるのだ。 そんなものに儚い夢を見ずとも金は溢れ出ていた。 壁やダストシュートをよじ登り運搬用昇降機に隠れた侵入者たちとは、 幸い鉢合わせることなく朝食を平らげ、 午後には八千人収容の国際展示場へ僕らは向かった。 音響確認と予行演習の合間に若い記者の取材を受けた。 かつて隣国から強制連行されてきた労働者を日本人がどう扱ったかをMに聞かされたばかりだったPは、 人種差別について思うところを自由に述べた。 かの反屑協会の類似団体がここ米国にもあったようで、 昼公演はつつがなく終わったが午後の部は爆破予告により遅延せざるを得なかった (小一時間ほどどこかへ消えたMは満面の笑みで戻ってきて、 あの予告ならもう心配要らないよと宣言した。 何がどう大丈夫なのか僕らには訊く勇気がなかった)。 警官たちは舞台前に整列し、 それこそ命がけで観客から僕らを護ってくれた。 ブリンクス金融警備会社の防弾装甲車に乗せられて僕らが退散したあと、 警察はいささか荒々しい手段で群衆を楽屋から追い払った。 ある女性記者など白バイに足を轢かれ、 別の女は警棒で滅多打ちにされて肋を折った。 ニュース映像からの連想もあながち的はずれではなかったわけだ。 ここでの稼ぎは三万ドル。 触れたものを黄金に変える神のごとく扱われることに、 僕らは徐々に慣れていった。 そしてそれとともに僕はケンウッドで使用人に囲まれて長男と暮らすCを思い出さなくなった。 自分の妻子でありながらそちらのほうがむしろ別世界であるかのようだった。
連載目次
- Born on a Different Cloud(1)
- Born on a Different Cloud(2)
- Born on a Different Cloud(3)
- Get Off Of My Cloud(1)
- Get Off Of My Cloud(2)
- Get Off Of My Cloud(3)
- Obscured By Clouds(1)
- Obscured By Clouds(2)
- Obscured By Clouds(3)
- Cloudburst(1)
- Cloudburst(2)
- Cloudburst(3)
- Over the Rainbow(1)
- Over the Rainbow(2)
- Over the Rainbow(3)
- Devil’s Haircut(1)
- Devil’s Haircut(2)
- Devil’s Haircut(3)
- Peppermint Twist(1)
- Peppermint Twist(2)
- Peppermint Twist(3)
- Peppermint Twist(4)
- Baby’s in Black(1)
- Baby’s in Black(2)
- Baby’s in Black(3)
- Baby’s in Black(4)
- Hello, Goodbye(1)
- Hello, Goodbye(2)
- Hello, Goodbye(3)
- Hello, Goodbye(4)
- Hellhound on My Trail(1)
- Hellhound on My Trail(2)
- Hellhound on My Trail(3)
- Hellhound on My Trail(4)
- Nobody Told Me(1)
- Nobody Told Me(2)
- Nobody Told Me(3)
- Nobody Told Me(4)
- Paperback Writer(1)
- Paperback Writer(2)
- Paperback Writer(3)
- Paperback Writer(4)
- Anywhere I Lay My Head(1)
- Anywhere I Lay My Head(2)
- Anywhere I Lay My Head(3)
- Anywhere I Lay My Head(4)
- Anywhere I Lay My Head(5)
- Crippled Inside(1)
- Crippled Inside(2)
- Crippled Inside(3)
- Crippled Inside(4)
- Crippled Inside(5)
- Mother’s Little Helper(1)
- Mother’s Little Helper(2)
- Mother’s Little Helper(3)
- Mother’s Little Helper(4)

@ezdog ザ・フーのところで思わずぷっと吹き出して笑っちゃって、その後もちょいちょい皮肉の効いたところにクスクス笑いっぱなし。しかし読むほうは気楽だけれど実際こんな目にあったら、そりゃあ最終的にスタジオに籠って録音にふけるようにもなるだろうな……。
こんなおかしい毎日を過ごしていたら、遠くで留守番している家族を思いやるどころじゃなくなってしまうのは当たり前だろう。そのことをしみじみ実感させてくれる。Jの気持ちを考えるとせつない。
Mが要所要所でしっかりBを守って任務を果たしているのもいいなぁ。