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連載第23回: Baby’s in Black(1)

アバター画像杜 昌彦, 2025年3月7日
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伯父の膝で新聞を読み聞かせられて育った僕は他人の不幸話を読むのが好きだった犯罪や事故で大切なひとを亡くした人間は翌朝どうやっていつもの職場に出勤するんだろうとよく空想したものだ自分がその立場になってみると無知がいかに残酷な暴力であるかを実感するどうやって乗り越えたかって? そんなことできるものか縫い合わせた疵をかさぶたが覆い醜く盛り上がった痕になってでも奪われた臓器はらわたは二度と戻りはしないそれでもひとたび幕の上がった舞台は最後まで演じなければ三度目のハンブルク公演初日は一三日の金曜日だったドイツ人のユーモア感覚はどうも理解しがたいスター倶楽部を経営する風俗王は僕らの音楽を愛していて自分みたいにだれもが僕らを好きになると信じていたから記念すべき開店日をどうしてもザ・Bの演奏で飾りたかった僕らとしても金をもらうからには仕事はきちんとやり遂げるつもりだった泣きはらした目で狂ったように練習に打ち込むGを見たら僕もPもピートBも今夜くらいは……なんて糞みたいな弱音は吐けなかった自分の死を口実にサボるなんてことは何よりSが許さなかったろうだから濃紺の背広に丸襟シャツ細い黒ネクタイ細いパンツにフラメンコ練習靴で決めた僕らはひとの心がないとそしられようがなんだろうが水着女とフィルムをあしらった官能映画館なるネオン脇に店名と星印それにロックの祝賀行進一九六二なる看板を掲げたその店で安っぽいビニールの黄色い幕がひらくなりいつものように足を踏み鳴らして四つ数え痛烈なロックンロールをおっぱじめたのだ——それぞれの負い目に取り憑いた亡霊を追い払うために
 その数分前いやここは九分前ということにしておこうか)、 僕は楽屋で出番を待ちながらこいつは仕事だ仕事なんだと自分にいい聞かせていた。 「もっともポップなトップのてっぺんを見せてやると約束し便所裏の掃除用具入れやら犯罪者が跋扈する地下牢やらを経ていまだ全国音盤デビューの夢こそ叶わぬまでも絶叫を浴びつつ集客の目玉を務めるまでにのし上がり三度目の正直でここまで連れてきた仲間たちの前でデッカのときみたいな弱気な顔は見せられなかったまさしく通夜そのものといった空気に耐えられなくなりちょいと失敬と断って互いに視線すら交わさず俯いたり壁の一点を見つめたりしている三人から離れた全身黒のMが便所の前で腕組みし壁にもたれて立っていた春だというのに襟にボアのついた革ジャンとセーターコーデュロイの細いパンツにウェスタンブーツ縮れ毛の頭は後ろへ撫でつけた髪型に戻っている生きたSに二度と会えないなんて僕らが思いもしなかった五日前海を隔てて五三五マイルも離れたモナBの店でGの病欠を心配したりPの熱演に歓声をあげたり僕の冗談に腹を抱えたりしていたあいつが当然のような顔でそこにいることにいまさら驚かなかった切迫していた僕は横目で一瞥すらせずによおと声をかけただけで通りすぎようとしたMは疲れたようにニヤッと笑うと意外な力で僕の肩を掴んであの間抜け面を近づけてきた近ぇよといつもなら殴ってやるところだけれど見つめ返すことしかできなかった僕の近眼にはあいつがなんだか二〇歳は老けて見えたMはあいつらしくないしわがれた声でこいつで元気をつけろよと耳元に囁き僕の手に何かの粒を握らせてきたなんだ気色悪いなと僕はあいつに眉をひそめながら身を引き剥がし便所へ入った別の手で逸物を引っ張り出しながら掌をひらいてみると黒い錠剤だった大量のビールによる内圧を解放しながらそいつを口へひょいと放り込んだ消し炭みたいな味がした濡れた手をパンツにこすりつけながら便所を出るとYに叱られるまで僕は小用で手を洗ったことがなかったあいつは姿を消していた
 そのあとに起きたことは誇張抜きでまるで憶えていないKは最前列でSのいない広すぎる舞台を挑むように睨みいまのこの状況でおれとあんたら自身を楽しませてくれるのかさあ見せてもらおうかと待ち構えていた最新モッズスーツで登場した四人はかれの絶望を軽々と裏切ったかれがいうには僕は陽気な獣のようにロックしロックしロックして哀しみに呑まれまいと懸命に演奏していた仲間を雪だるま式に増大する心意気に感染させ煽り立ててドイツ人が初めて出逢う音の塊で聴衆を圧倒したというNEMSの餌箱で新たに仕入れた豊富なネタ元豊かな旋律を奏でるPのベース……これまでの渡独とは較べ物にならぬほど技術は向上しかつてKを夢中にさせた荒削りな感覚刃物のように暗くヒリつく破壊衝動は温かく包容する強い光に取って代わられていた満員の観客は地獄の底が沸き返るかのように熱狂した後戻りのきかぬ変化に気づいたのはKただひとりだったかれは動揺した帰国中あいつらに何があった何がザ・Bをこんな風にしちまったんだ?
 テッズもモッズもご存じない商業デザイナーのKは意匠としての黒革上下に退廃的な異国情緒を見ていたかれにしてみれば背広や丸襟や細いネクタイなんてのは歳のいったお母様方にきゃーカワユイと頭ナデナデされようとする軟弱な媚でしかなかった僕はかれの前では金のために魂を売ったかのような強面な態度を装わねばならなかったしかし違うんだKよ英国じゃあれはあれで正統な不良の制服なんだ襟んとこに別珍の喪章が縫いつけてあるだろあれは反抗心の象徴でさ……空港で逢った品のいい背広の男をKは思いだした握手のときJが手紙で暴露した指向を裏づけるかのように顔を赤らめたあいつが? それともSの死か……黒い錠剤のことをかれは知らなかった知っていたら上辺の装いには騙されなかったろう一九七〇年に終わりを迎えるまでそしてそのあとも僕らは愛と平和を歌いつづけその音楽が世界へ広まるほどにまるで裏腹な暴力が僕らを蝕むことになる脅迫され音盤は焼かれ飛行機は撃墜されかけ暴徒は押し寄せ諜報機関に盗聴され尾行され……そして最後にはMがああなったそのすべてのはじまりがSであり黒い錠剤だったといまならわかる
 三度目のハンブルクで酒と薬が僕の正気を保たせたのはその夜に限ったことではないけれどGにいわせればその夜もそのあとも僕はさっぱり正気なんかではなかったそうだある夜など終演後にくたくたに疲れたみんなが寝床につくなり目を剝き泡を吹いた僕が奇声をあげて乱入してきてPと寝ていた女の子の服を鋏で細切れにしたあげく恐怖に慄くその子の鼻先で枕へ力任せに突き刺したという別の夜には疲れたBEが数杯で潰れて居眠りをはじめたところその襟首に僕がいきなりビールをどぼどぼと注いで飛び起きて激怒したあいつを凄まじい勢いで罵倒したとか何とか……これはHFの証言だザ・Bが退場して次のグループの出番になるや僕は頼まれもせぬのに掃除婦の扮装でバケツとモップを手に再登場したたぶん気の毒な中年女を死ぬほど怖がらせて強奪したのだろう)。 僕は例によって身障者の物真似をしながら畏れ慄く地元グループや困惑する観客をものともせず舞台をうろついて床や機材を磨きはじめあまつさえ歌手を磨きベーシストの靴を磨き叩かれそうになるのを左右へひょいひょいとかわしながらドラムを磨いた改築したばかりで資材置き場のようになった舞台裏へようやく引っ込んだかと思えば安堵の間もなく再登場今度は工事現場みたいな作業着姿でばかみたいに長い板を担いでいるあたかも自分が邪魔になっているのに気づかぬ風を装いがに股でひょこひょこ舞台を横断し歌手に咎められて振り向くや板の両端でマイクをなぎ倒しベーシストをのけぞらせその結果にわざとらしく驚いてみせてまたもや板ごと振り向く演者は楽器や機材を護ろうとして打ち倒されたり舞台上を右へ左へ逃げ惑って配線に足を絡めて転んだりと大騒ぎ元ベーシストの死どころかそんな人間がいたことすら知らない観客は大爆笑だった
 Kによればかの有名な便座事件もこのときだという便器から剥ぎ取ったU字型のそいつをハワイの観光客用の花輪みたいに頚にかけ下着一丁で何喰わぬ顔で演奏したらしいHFにいわせればこれは別の夜で開演時刻になっても現れない僕を宿泊所へ迎えに来たら女とくんずほぐれつの真っ最中ひっぱがそうとしても互いにしがみつきどうにもならずバケツで水をぶっかけたところ逸物をひっぱり出して小便を……とあいつは吹聴しピーデルに尿とかこれ見よがしの便座とかがおもしろいんで信じたやつも多いけれどいくらなんでも話を盛りすぎだ)、 ずぶ濡れで舞台へ上がった僕がその格好だったという……いやそれともあいつがいってたのは別の夜のことかな便座を頚にかけるなんて毎日やってた気もするいずれにせよこの頃の僕が狂っていたのはまちがいないとどまるところを知らぬ奇行の数々は幸福や笑顔なんてものが地上から消失したかに感じていたKの腹をよじらせ思ってもみなかった別の涙を流させると同時にその背筋をどこまでも暗く凍らせた黒革時代の僕らは強面を装いながらも陽気だったそれがどこか裏返ってしまったのだハラハラしながら二階席から見守っていた風俗王は舞台が収拾のつかぬ大混乱に陥るのを見てとって幕を引かせた観客の視線から隔てられても僕はまだ騒ぎまくっていたあれぞ舞台芸人のさがだよな……とKはのちに僕に語ったその闇の深さに自分がザ・Bに加われなかった理由を悟ったとまでいわれおいおい大げさだよと怖くなっていい返したけれどそこまでいわれると当時の自分がどれほど危うい瀬戸際にいたか思わずにいられない
 とはいえKの記憶も混乱していて鵜呑みにはできないドタバタ喜劇さながらの寸劇は捏造とはいわぬまでも誇張がすぎる二千人を収容できる元映画館はその夜上々の客入りだったはずなのにその逸話を語るのはいまだKただひとりだからだあいつの隣でいつものように腹を抱えて朗らかに大笑いするMを僕は舞台から確かに見たなぜかわざわざいつもの背広に着替えもじゃもじゃの髪を再び下ろしていたのを鮮明に憶えている何もかも忘れようとするかのように顔を歪めて笑うKとは対照的であれはまちがいなく新規開店の夜だったなのにKはあの夜Mがハンブルクにいた事実などなかったといい張るのだそればかりかPやGまでもが一九六二年春の滞在中あのおかしな日本人は一度も姿を現さなかったと口を揃える大昔のことだからね別の夜と混同してもおかしくないよとKに慰められて僕は大いに不満だったあいつのほうが歳上なのに惚け老人扱いされちゃたまらないこの頃のMの逸話はだれに聞いても違っていて経験を共有するはずのひとびとからまるで異なる歴史が語られだれもが別の平行宇宙を生きたかに思わされるそして奇妙なことに僕自身あの便所前での邂逅を別にすればあの春のハンブルクでMを再び目撃した記憶はないのだたった一錠飲んだきりの効き目は強烈でしばらくそのことしか考えられなくなったのだから夢や幻なんかであろうはずはないのに


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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“Baby’s in Black(1)” への1件のコメント

  1. ::: より:

    親友の死の悲しみになんとかのまれまいとするJやBの面々の気持ちが痛いほど分かる。出番の前の重い空気が伝わってくる。……というところで久々のMの登場!あの杜作品の数々で騒ぎを巻き起こしてきた「黒い錠剤」も登場!Jの奇行には呆れてしまうけれど、あの黒い錠剤のせいなら致し方ないかと思えてしまう。物語にいよいよ未来からの策略が絡んでくる予感!この後半の流れがとてもいい。杜作品のこういう余韻とか空気の作り方が好きなんだよなぁ。