その数週間前といってもいいし百年後といってもいいのだけれど、 その東洋人は気づくと地獄にいた。 それまで赤い膠質液に浸かって積層形成されながら前世の夢を見ていた。 その夢もまたろくな世界ではなかった。 夢が破られたのは有機印刷機の棺が破壊され、 流れ出る膠質液とともに燃える外界へ押し出されたからだ。 かれは咳き込んで液を吐き出し、 ピンクの鼻水を垂らして自分の呻きを聞いた。 重力に逆らって体を起こす。 四方八方に迫る炎、 焦げる人体やプラスティックの臭い、 ドローンの群が飛びまわるローター音、 爆弾が投下される風切り音、 建物や装置が破壊される雷鳴のような音。 大量の瓦礫とともに棺の破片やばらばらに損壊された裸の人体が散らばっていた。 人間の形を成さぬうちに外気に触れ、 濁った泡となって崩れた肉塊もあった。 そのすべてが自分とおなじ遺伝子から再現された複製であることにかれは気づかなかった。 施錠された頑丈な扉や自動運搬車の類いはいずれも破壊されていた。 自分がだれでなぜそこにいるのかわからなかった。 わかるのは逃げねば死ぬということだけだ。 よろよろと立ち上がり、 崩れた壁や燃えていない箇所を求めてやみくもに走った。 膚や素足の裏に火ぶくれができ血が滲んだ。 熱や煙にさらされる膚や粘膜を無防備に、 股間で揺れる器官を煩わしく感じた。 誰にも愛されなかった夢の残滓が逃げてどうなると思わせた。 かといって引き裂かれて焼かれる苦痛はご免だった。
炎と煙、 衝撃や落下する瓦礫に追われた。 銃を構えた兵士が折り重なって倒れていた。 多くは全身が孔だらけで引き裂かれたり焼かれたりしていた。 比較的損傷の少ない遺体から服と靴を剥ぎ取って身につけた。 煙で視界のきかない迷宮に、 燃えていない空気が流れ込んでくるのを感じ、 その風を頼りに外の世界へまろび出た。 監獄のような高い壁に谷間のように崩れ落ちた箇所があった。 犬のように舌を出して荒く呼吸しながら這い出た。 星のない夜空にはドローンが雲霞のごとく群がり、 炎に照らされながら、 虫が卵を産むようにぽろぽろと爆弾を落としつづけていた。 駆け抜けた直後に背後が吹き飛び、 土砂や細かい瓦礫が降りそそいだ。 家を焼かれたひとびとが着の身着のまま逃げ惑っていた。 血まみれの者や毛布にくるんだ子どもの遺体を抱えた者もいた。 傷ついた群衆とともに右往左往し、 どぶの悪臭が立ち籠める貧民街へいつしか紛れ込んだ。 裏通りでうずくまり耳を塞ぎ目を固くつむった。 そうしてみたところで産み落とされたばかりの翻刻人間には逃げ込むべき過去もなく、 あるのは前世の悪夢だけだった。 落雷のような地響きは小一時間つづいた。 やんだところで苦痛の叫びや嘆きの声はやまなかった。 そしてほかのどの爆撃とも同様に、 別の場所が空爆されたり地上部隊に襲撃されたりするまでの小休止にすぎなかった。
かれは裏通りの暮らしに適応した。 昼は闇市の雑踏で大人たちから盗み、 夜は高架下やトンネルや焼け跡の廃墟で段ボールにくるまって、 靴や尊厳を奪われぬよう浅く眠った。 大勢の世帯が暮らす集合住宅はなんの前ぶれもなくミサイルで爆撃された。 病院や学校、 とりわけ小児病院や保育園が狙われた。 双方の取り決めで定められた避難場所も標的にされやすかった。 支援物資のコンテナがどこからともなく射出され、 空爆同然に建物を破壊し大勢を下敷きにするたびに、 血と粉塵にまみれた食料を先を争って奪い合った。 殺到するひとびとは毒ガスを浴び機銃掃射された。 空爆や配給の直後には血の滲む袋を抱きかかえて茫然と歩く若い親をよく見かけた。 体臭と屍臭の漂う闇市は警察装甲車の無限軌道で蹂躙され、 逃げ惑う群衆は銃弾でなぎ払われた。 逃げ遅れて脚の長い深海生物のようなボットに群がられた女と、 その腕に抱かれた乳児は、 小突きまわすのに飽きたボットが四方へ散ると、 地面の黒い染みだけになっていた。 敵軍や政府のドローンが捕捉する標的もまた子どもやその母親ばかりだった。 幼い浮浪児が爆殺されるのをかれは幾度となく目にした。 頭上に忍び寄るかすかな羽音に気づいたときにはもう血飛沫とともに四散している。 路地裏に小さな手脚が転がっていても、 野犬がそれを咥えて走りすぎても何も感じなくなった。 一度など明らかにそれとしか思えぬものを金盥で煮る男を目撃した。 垢まみれの男たちが臭いにつられて群がっていた。
生き長らえる意味も感じないがほかにどうすることもできない。 獣のような日々を惰性で過ごすうち 「鼠狩り」 に遭った。 いつ自分の番が来るかと怯えていたのでかえって安堵したくらいだ。 高架下で空腹をこらえてうずくまっていると警告の叫びを聞き、 囚人護送車の前照灯を見た。 急ブレーキとともに装甲扉が開き、 警察ボットがまさしく蜘蛛の子を散らすようにガシャガシャと飛び出した。 探照灯がせわしなく闇を裂き網膜を灼く。 浮浪児らは狂ったように逃げ惑う。 金属製の脚が次々に顔馴染みを突き倒し、 電撃を加えて捕らえた。 加減を誤って串刺しにした浮浪児を高く掲げ、 失望したかのように投げ棄てるボットもあった。 かれは全力で走ったが空腹で力が入らない。 足がもつれたところを背後から殴られて転ばされ、 地面に押さえつけられた。 油とプラスティックの臭う重い金属にのしかかられ、 胃液を吐いて気を失った。
気がつくと後ろ手に縛られて床に転がされ、 おなじ目に遭った連中とともに揺られていた。 酸っぱい吐瀉物と体臭と便臭と血の臭いが車内に堆積していた。 有刺鉄線で囲まれた運動場へ連行され、 だれからもなんの説明もなく夜明けまで放置された。 烈しい雨が降ってやんだ。 陽が高く昇るとようやく縄を解かれ、 サイズの合わない服と靴、 百年前の錆びついた銃を与えられて泥のなかを匍匐前進させられた。 拒んだ者はボットにあっさり射殺された。 仲間の血や脳漿を浴びて風呂に入るどころか着替えもさせられぬまま、 翌日には弾薬も食料もろくに与えられず、 代わりに入り組んだ組織図の最下級の徽章だけを与えられて、 恩赦を期待した囚人や騙されて連れてこられた出稼ぎ外国人もろとも、 前線の塹壕へ放り出されていた。 灰色の空、 どす黒い血と肉、 暗い茶色の泥と糞だけの世界だった。 烈しい雨に打たれ、 泥に膝まで浸かりながら、 かれはやみくもに銃を撃ったり身を伏せたりし、 そのたびに血や臓物の混じる土砂を被った。 一瞬前まで隣で錆びた銃を撃ちつづけていた仲間の、 頭を吹き飛ばされたりバラバラに裂けたり内臓や目玉が飛び出たりした遺体を、 泥から掘り返し、 担いであるいは引きずって運んだ。 急に軽くなって振り向けば握った両脚の先が雲散霧消していたりもした。 排便中に殺害されるのを畏れて垂れ流す者も多かった。 そうなった人間の多くはほどなく死んだ。 爪先が窮屈で幅が広すぎる軍靴は泥水でがぼがぼ音を立て、 ふやけた足指が感覚をなくして腐りはじめた。 蚊や蠅にも悩まされた。
食料も弾薬も足りないのに兵士と黒い錠剤だけは絶え間なく供給された。 人命は銃弾ひとつよりも安価な消耗品だとかれは学んだ。 出稼ぎ外国人は異国の言葉で家族の名を呼びながら死んでいった。 犯罪者もまた次々にやってきては消えた。 一緒に拉致された顔馴染みから自分たちは 「挽肉の壁」 にされたのだと聞かされた。 独裁国家の侵略から自由な国を護るためだと。 自由? 独裁? おれらはどっちなんだと問うと知るかよと肩をすくめられた。 その浮浪児とも再び会話を交わす機会はなかった。 対岸の敵やこちらの兵士が四肢や頭を吹き飛ばされるたびに、 どちらもただ殺し殺されるためだけの人生だったかに思えた。 それぞれの政府に見張られてさえいなければとかれは夢想した。 おい、 ばかばかしいからやめようぜと歩み寄れるのに……。 気がつけばかれは最古参になっていた。 足指の感染症や全身のすり傷、 打ち身の類いを別にすれば無傷でいられたのは偶然でしかない。 そこに奇跡めいた意味などなかった。 残酷な見世物でたまたま舞台に残った端役でしかなかった。 兵士は次々と補充され、 塹壕に放り込まれる端から殺された。 配給の黒い錠剤は恐怖を麻痺させ怒りを増幅するはずだった。 かれにはただ嘔吐させられ、 思考に霞がかかったようにぼんやりさせられるだけだった。 幻覚も現実も塹壕の泥も降りつづける空も、 自分のからだも引き裂かれた他人の遺体も、 何もかも区別がつかなくなった。 ただその瞬間の心許ない生にひたすらしがみつくしかなかった。
黒い錠剤のおかげで夢も現実も境がなかった。 周囲から沸き起こった雄叫びにわれに返ると戦況は一変していた。 ドローンの号令でだれもかれもが塹壕を飛び出し、 錆びた銃を乱射しながら敵陣へなだれ込んでいた。 慌ててかれも加わった。 ドローンに制裁されたくなかった。 隣で叫んでいた男が吹き飛び土砂と血と臓物が降りそそいだ。 斜め後ろにいた男が撃ち倒されるのが聞こえた。 敵陣へ到達する頃には敵兵は多くがすでに殺害されていた。 たちまち制圧し装備や食料を奪い、 子どもと女と老人と傷病者だけの集落へ侵攻した。 ひとびとがただ生活していただけの住宅街を血と燃えさしだけにしたかれの部隊は、 ほどなく発電所らしき施設へ行き着いた。 ドローンの指示で四、 五名ずつに分けられて施設を包囲し、 集落で殺さずにおいた人質を盾にして、 合図とともに突入した。 アルゴリズムが生成する建築物はどれも似通っているのか、 判で押したような迷宮めいたつくりにかれは既視感をおぼえた。 途中で別れた班の人質が爆殺されるのが見え、 発作的に隊列を飛び出した兵士が蜂の巣にされた。 烈しい交戦になった。 隣にいた男が頭を下顎だけ残して吹き飛ばされた。 手榴弾が投擲され数名が吹き飛ばされた。 血と硝煙とプラスティックの焦げる臭いが立ち籠めた。 どうせ殺されるなら死に場所くらい自分で決めたい。 視界が晴れる前にかれは班から離れた。 生まれた施設の記憶にもとづく勘を頼りに走った。 銃声や爆発音が遠ざかる。 逃げおおせたと思った途端に別班の生き残りに出くわした。 元囚人が廊下の角から首を突き出して飛び出す隙を窺っていた。 袖や襟首から覗く刺青に見憶えがあった。 そいつが幼い子どもとその母親に何をしたかを知っていた。 すぐそばに首から下を挽肉とぼろ雑巾のようにされた男がそれでもまだ死ねずに転がっていた。 死をただ待つだけの虚ろな視線がかれと合うなり恐怖の色を帯びた。 声をあげられる前にかれは背後から元囚人を、 それから屍体も同然の男を射殺した。 監視ドローンに気づかれた。 幸いそのドローンはだれかを制裁したばかりらしく爆弾を抱いていなかった。 撃ち落とされる前にそいつは仲間の群を呼び寄せた。
前方の扉が解錠され開け放たれていた。 かれは天井の高い洞窟のような場所へ逃げ込んだ。 なんの考えもなく追い詰められて選んだその行動が、 かれと僕ら、 ふたつの世界をつなぐことになる。
闇のなかで無数の小さな光が明滅し、 はらわたが慄えるような低い唸りが響く。 目が慣れると血管めいたケーブルの網をまとう巨大な装置が見えた。 広大なフロアをさながら城砦のように占拠している。 重要な設備に思えたが警備する人間もそれを監視するドローンもいなかった。 銃撃や爆発音、 ローター音や足音が近づいた。 敵か味方かわからないが殺されることに違いはない。 隠れる場所を探した。 神社の祠のような箇所があった。 扉の上に掲げられた札は 「大群九號機」 と読めた。 Gがのちに自作曲の題名にするあの言葉である。 重い扉を開けるとちょうど人間がひとり入れる空間があった。 内側から締めた。 逃げ場を失った空気が鼓膜を鈍く打った。 かれは闇のなかで身をすくめて呼吸を殺した。 装置の熱に全身を覆われ息が詰まった。 フロア中へ散開したローター音や足音のいくつかが間近を過ぎる。 高まる動悸で気取られそうだ。 その音は装置の脈打つ唸りだとやがて気づいた。 金属的な甲高い音は耳鳴りか高周波音かわからなかった。 脳が潰れるほど鼓膜が圧迫され気が遠くなった。 網膜の奥から光が爆発して世界を埋め尽くした。 脳と全身が歪んで引きちぎられるかに感じた。 ついに順番がまわってきたのだと思った。
脈動のような唸りは唐突に消えた。 光だけが残った。
恐る恐る目をあけた。 煉瓦の建物と建物のあいだにかれは佇んでいた。 往来が目の前にひらけていた。 棺のような装置も施設も兵士もドローンも消失していた。 老若男女や車が広い通りを行き来していた。 ひとの衣服も車も赤や水色や緑や茶色や黄色などさまざまな色で、 バスやトラックや自家用車はどれも煤けたガスを排出しており内燃機関で走っているように見えた。 大気は濃く、 血や泥とは異なるにおいに満ちていた。 煙草や食べもの、 整髪料や白粉、 それにガソリン。 糞のにおいはしたがそれは犬の糞で、 腐敗臭は屍体ではなく背後の生ゴミや、 市場の果物から漂う甘い香りだった。 曇天で湿度は高かったものの、 建物や路面を覆う埃は気候変動の土砂降りを知らぬかに見えた。 だれもが帽子を被っており男の多くは背広姿だった。 かれはブリキ製ゴミバケツの陰に銃を隠して夢遊病者のように歩み出た。 ゴム底が普及していないのかひとびとの靴音は機銃を思わせるほど高かった。 すれちがいざまに肩がぶつかり舌打ちした男は喫煙していた。 棺を流れ出てから煙草なんてものを現実に見たのは初めてだった。
かれは熱に浮かされたように茫然と人混みを歩いた。 貧民街では臭いや音が許されず、 だれもが監視ドローンに怯えて息を潜めて暮らしていたし、 戦場では鼻を刺す悪臭と鼓膜を破る爆音しかなかった。 この街はそのどちらとも違った。 ドローンも敵機も装甲車も見当たらない。 路地裏で子どもたちが笑い声をあげて遊んでいた。 殺したり奪ったり犯したりする男たちの残忍な笑みしか知らなかったかれは衝撃を受けた。 ひとびとの未来である子どもは、 元いた世界では絶望で支配するための道具でしかなかった。 それがここでは生きて自分たちの好きなように動き、 ドローンや爆撃や社会病質者に脅かされることもなく、 煤まみれの笑顔で自転車のチューブか何かを転がして追いかけっこをしている。 装置に閉じ込められ気を失ったまま長い歳月が過ぎ、 世界が反転したのか。 それともあの戦争が夢でこちらが現実なのか。 思えば棺から出る前も別の悪夢にいた。 今度もまた人生をやりなおすのか。 バス停のベンチにはパイプをくゆらしながら新聞を読んでいる初老の男がいた。 かれには知りようもなかったけれど、 青少年犯罪が激増していたかれの母国では、 このおなじ日に社会党の政治家が一七歳の右翼に刺殺されている。 事件の余波で子どもたちから刃物が取り上げられ鉛筆削り器が普及し、 社会党が野党第一党となって軍拡が長らく阻止されることになる。 新聞はドイツ語で書かれており、 日付は一九六〇年一〇月一二日水曜日。 僕らが出逢うちょうど九日前——そう、 またしてもこの数字だ。
連載目次
- Born on a Different Cloud(1)
- Born on a Different Cloud(2)
- Born on a Different Cloud(3)
- Get Off Of My Cloud(1)
- Get Off Of My Cloud(2)
- Get Off Of My Cloud(3)
- Obscured By Clouds(1)
- Obscured By Clouds(2)
- Obscured By Clouds(3)
- Cloudburst(1)
- Cloudburst(2)
- Cloudburst(3)
- Over the Rainbow(1)
- Over the Rainbow(2)
- Over the Rainbow(3)
- Devil’s Haircut(1)
- Devil’s Haircut(2)
- Devil’s Haircut(3)
- Peppermint Twist(1)
- Peppermint Twist(2)
- Peppermint Twist(3)
- Peppermint Twist(4)
- Baby’s in Black(1)
- Baby’s in Black(2)
- Baby’s in Black(3)
- Baby’s in Black(4)
- Hello, Goodbye(1)
- Hello, Goodbye(2)
- Hello, Goodbye(3)
- Hello, Goodbye(4)
- Hellhound on My Trail(1)
- Hellhound on My Trail(2)
- Hellhound on My Trail(3)
- Hellhound on My Trail(4)
- Nobody Told Me(1)
- Nobody Told Me(2)
- Nobody Told Me(3)
- Nobody Told Me(4)
- Paperback Writer(1)
- Paperback Writer(2)
- Paperback Writer(3)
- Paperback Writer(4)
- Anywhere I Lay My Head(1)
- Anywhere I Lay My Head(2)
- Anywhere I Lay My Head(3)
- Anywhere I Lay My Head(4)
- Anywhere I Lay My Head(5)
- Crippled Inside(1)
- Crippled Inside(2)
- Crippled Inside(3)
- Crippled Inside(4)
- Crippled Inside(5)
- Mother’s Little Helper(1)
- Mother’s Little Helper(2)
- Mother’s Little Helper(3)
- Mother’s Little Helper(4)
