CLOUD 9

連載第6回: Get Off Of My Cloud(3)

アバター画像杜 昌彦, 2024年10月4日
Fediverse Reactions

その数週間前といってもいいし百年後といってもいいのだけれどその東洋人は気づくと地獄にいたそれまで赤い膠質液に浸かって積層形成されながら前世の夢を見ていたその夢もまたろくな世界ではなかった夢が破られたのは有機印刷機の棺が破壊され流れ出る膠質液とともに燃える外界へ押し出されたからだかれは咳き込んで液を吐き出しピンクの鼻水を垂らして自分の呻きを聞いた重力に逆らって体を起こす四方八方に迫る炎焦げる人体やプラスティックの臭いドローンの群が飛びまわるローター音爆弾が投下される風切り音建物や装置が破壊される雷鳴のような音大量の瓦礫とともに棺の破片やばらばらに損壊された裸の人体が散らばっていた人間の形を成さぬうちに外気に触れ濁った泡となって崩れた肉塊もあったそのすべてが自分とおなじ遺伝子から再現された複製であることにかれは気づかなかった施錠された頑丈な扉や自動運搬車の類いはいずれも破壊されていた自分がだれでなぜそこにいるのかわからなかったわかるのは逃げねば死ぬということだけだよろよろと立ち上がり崩れた壁や燃えていない箇所を求めてやみくもに走った膚や素足の裏に火ぶくれができ血が滲んだ熱や煙にさらされる膚や粘膜を無防備に股間で揺れる器官を煩わしく感じた誰にも愛されなかった夢の残滓が逃げてどうなると思わせたかといって引き裂かれて焼かれる苦痛はご免だった
 炎と煙衝撃や落下する瓦礫に追われた銃を構えた兵士が折り重なって倒れていた多くは全身が孔だらけで引き裂かれたり焼かれたりしていた比較的損傷の少ない遺体から服と靴を剥ぎ取って身につけた煙で視界のきかない迷宮に燃えていない空気が流れ込んでくるのを感じその風を頼りに外の世界へまろび出た監獄のような高い壁に谷間のように崩れ落ちた箇所があった犬のように舌を出して荒く呼吸しながら這い出た星のない夜空にはドローンが雲霞のごとく群がり炎に照らされながら虫が卵を産むようにぽろぽろと爆弾を落としつづけていた駆け抜けた直後に背後が吹き飛び土砂や細かい瓦礫が降りそそいだ家を焼かれたひとびとが着の身着のまま逃げ惑っていた血まみれの者や毛布にくるんだ子どもの遺体を抱えた者もいた傷ついた群衆とともに右往左往しどぶの悪臭が立ち籠める貧民街へいつしか紛れ込んだ裏通りでうずくまり耳を塞ぎ目を固くつむったそうしてみたところで産み落とされたばかりの翻刻リプリント人間には逃げ込むべき過去もなくあるのは前世の悪夢だけだった落雷のような地響きは小一時間つづいたやんだところで苦痛の叫びや嘆きの声はやまなかったそしてほかのどの爆撃とも同様に別の場所が空爆されたり地上部隊に襲撃されたりするまでの小休止にすぎなかった
 かれは裏通りの暮らしに適応した昼は闇市の雑踏で大人たちから盗み夜は高架下やトンネルや焼け跡の廃墟で段ボールにくるまって靴や尊厳を奪われぬよう浅く眠った大勢の世帯が暮らす集合住宅はなんの前ぶれもなくミサイルで爆撃された病院や学校とりわけ小児病院や保育園が狙われた双方の取り決めで定められた避難場所も標的にされやすかった支援物資のコンテナがどこからともなく射出され空爆同然に建物を破壊し大勢を下敷きにするたびに血と粉塵にまみれた食料を先を争って奪い合った殺到するひとびとは毒ガスを浴び機銃掃射された空爆や配給の直後には血の滲む袋を抱きかかえて茫然と歩く若い親をよく見かけた体臭と屍臭の漂う闇市は警察装甲車の無限軌道で蹂躙され逃げ惑う群衆は銃弾でなぎ払われた逃げ遅れて脚の長い深海生物のようなボットに群がられた女とその腕に抱かれた乳児は小突きまわすのに飽きたボットが四方へ散ると地面の黒い染みだけになっていた敵軍や政府のドローンが捕捉する標的もまた子どもやその母親ばかりだった幼い浮浪児が爆殺されるのをかれは幾度となく目にした頭上に忍び寄るかすかな羽音に気づいたときにはもう血飛沫とともに四散している路地裏に小さな手脚が転がっていても野犬がそれを咥えて走りすぎても何も感じなくなった一度など明らかにそれとしか思えぬものを金盥で煮る男を目撃した垢まみれの男たちが臭いにつられて群がっていた
 生き長らえる意味も感じないがほかにどうすることもできない獣のような日々を惰性で過ごすうち鼠狩りに遭ったいつ自分の番が来るかと怯えていたのでかえって安堵したくらいだ高架下で空腹をこらえてうずくまっていると警告の叫びを聞き囚人護送車の前照灯を見た急ブレーキとともに装甲扉が開き警察ボットがまさしく蜘蛛の子を散らすようにガシャガシャと飛び出した探照灯がせわしなく闇を裂き網膜を灼く浮浪児らは狂ったように逃げ惑う金属製の脚が次々に顔馴染みを突き倒し電撃を加えて捕らえた加減を誤って串刺しにした浮浪児を高く掲げ失望したかのように投げ棄てるボットもあったかれは全力で走ったが空腹で力が入らない足がもつれたところを背後から殴られて転ばされ地面に押さえつけられた油とプラスティックの臭う重い金属にのしかかられ胃液を吐いて気を失った
 気がつくと後ろ手に縛られて床に転がされおなじ目に遭った連中とともに揺られていた酸っぱい吐瀉物と体臭と便臭と血の臭いが車内に堆積していた有刺鉄線で囲まれた運動場へ連行されだれからもなんの説明もなく夜明けまで放置された烈しい雨が降ってやんだ陽が高く昇るとようやく縄を解かれサイズの合わない服と靴百年前の錆びついた銃を与えられて泥のなかを匍匐前進させられた拒んだ者はボットにあっさり射殺された仲間の血や脳漿を浴びて風呂に入るどころか着替えもさせられぬまま翌日には弾薬も食料もろくに与えられず代わりに入り組んだ組織図の最下級の徽章だけを与えられて恩赦を期待した囚人や騙されて連れてこられた出稼ぎ外国人もろとも前線の塹壕へ放り出されていた灰色の空どす黒い血と肉暗い茶色の泥と糞だけの世界だった烈しい雨に打たれ泥に膝まで浸かりながらかれはやみくもに銃を撃ったり身を伏せたりしそのたびに血や臓物の混じる土砂を被った一瞬前まで隣で錆びた銃を撃ちつづけていた仲間の頭を吹き飛ばされたりバラバラに裂けたり内臓や目玉が飛び出たりした遺体を泥から掘り返し担いであるいは引きずって運んだ急に軽くなって振り向けば握った両脚の先が雲散霧消していたりもした排便中に殺害されるのを畏れて垂れ流す者も多かったそうなった人間の多くはほどなく死んだ爪先が窮屈で幅が広すぎる軍靴は泥水でがぼがぼ音を立てふやけた足指が感覚をなくして腐りはじめた蚊や蠅にも悩まされた
 食料も弾薬も足りないのに兵士と黒い錠剤だけは絶え間なく供給された人命は銃弾ひとつよりも安価な消耗品だとかれは学んだ出稼ぎ外国人は異国の言葉で家族の名を呼びながら死んでいった犯罪者もまた次々にやってきては消えた一緒に拉致された顔馴染みから自分たちは挽肉の壁にされたのだと聞かされた独裁国家の侵略から自由な国を護るためだと自由? 独裁? おれらはどっちなんだと問うと知るかよと肩をすくめられたその浮浪児とも再び会話を交わす機会はなかった対岸の敵やこちらの兵士が四肢や頭を吹き飛ばされるたびにどちらもただ殺し殺されるためだけの人生だったかに思えたそれぞれの政府に見張られてさえいなければとかれは夢想したおいばかばかしいからやめようぜと歩み寄れるのに……気がつけばかれは最古参になっていた足指の感染症や全身のすり傷打ち身の類いを別にすれば無傷でいられたのは偶然でしかないそこに奇跡めいた意味などなかった残酷な見世物でたまたま舞台に残った端役でしかなかった兵士は次々と補充され塹壕に放り込まれる端から殺された配給の黒い錠剤は恐怖を麻痺させ怒りを増幅するはずだったかれにはただ嘔吐させられ思考に霞がかかったようにぼんやりさせられるだけだった幻覚も現実も塹壕の泥も降りつづける空も自分のからだも引き裂かれた他人の遺体も何もかも区別がつかなくなったただその瞬間の心許ない生にひたすらしがみつくしかなかった
 黒い錠剤のおかげで夢も現実も境がなかった周囲から沸き起こった雄叫びにわれに返ると戦況は一変していたドローンの号令でだれもかれもが塹壕を飛び出し錆びた銃を乱射しながら敵陣へなだれ込んでいた慌ててかれも加わったドローンに制裁されたくなかった隣で叫んでいた男が吹き飛び土砂と血と臓物が降りそそいだ斜め後ろにいた男が撃ち倒されるのが聞こえた敵陣へ到達する頃には敵兵は多くがすでに殺害されていたたちまち制圧し装備や食料を奪い子どもと女と老人と傷病者だけの集落へ侵攻したひとびとがただ生活していただけの住宅街を血と燃えさしだけにしたかれの部隊はほどなく発電所らしき施設へ行き着いたドローンの指示で四五名ずつに分けられて施設を包囲し集落で殺さずにおいた人質を盾にして合図とともに突入したアルゴリズムが生成する建築物はどれも似通っているのか判で押したような迷宮めいたつくりにかれは既視感をおぼえた途中で別れた班の人質が爆殺されるのが見え発作的に隊列を飛び出した兵士が蜂の巣にされた烈しい交戦になった隣にいた男が頭を下顎だけ残して吹き飛ばされた手榴弾が投擲され数名が吹き飛ばされた血と硝煙とプラスティックの焦げる臭いが立ち籠めたどうせ殺されるなら死に場所くらい自分で決めたい視界が晴れる前にかれは班から離れた生まれた施設の記憶にもとづく勘を頼りに走った銃声や爆発音が遠ざかる逃げおおせたと思った途端に別班の生き残りに出くわした元囚人が廊下の角から首を突き出して飛び出す隙を窺っていた袖や襟首から覗く刺青に見憶えがあったそいつが幼い子どもとその母親に何をしたかを知っていたすぐそばに首から下を挽肉とぼろ雑巾のようにされた男がそれでもまだ死ねずに転がっていた死をただ待つだけの虚ろな視線がかれと合うなり恐怖の色を帯びた声をあげられる前にかれは背後から元囚人をそれから屍体も同然の男を射殺した監視ドローンに気づかれた幸いそのドローンはだれかを制裁したばかりらしく爆弾を抱いていなかった撃ち落とされる前にそいつは仲間の群を呼び寄せた
 前方の扉が解錠され開け放たれていたかれは天井の高い洞窟のような場所へ逃げ込んだなんの考えもなく追い詰められて選んだその行動がかれと僕らふたつの世界をつなぐことになる
 闇のなかで無数の小さな光が明滅しはらわたが慄えるような低い唸りが響く目が慣れると血管めいたケーブルの網をまとう巨大な装置が見えた広大なフロアをさながら城砦のように占拠している重要な設備に思えたが警備する人間もそれを監視するドローンもいなかった銃撃や爆発音ローター音や足音が近づいた敵か味方かわからないが殺されることに違いはない隠れる場所を探した神社の祠のような箇所があった扉の上に掲げられた札は大群九號機クラウド・ナインと読めたGがのちに自作曲の題名にするあの言葉である重い扉を開けるとちょうど人間がひとり入れる空間があった内側から締めた逃げ場を失った空気が鼓膜を鈍く打ったかれは闇のなかで身をすくめて呼吸を殺した装置の熱に全身を覆われ息が詰まったフロア中へ散開したローター音や足音のいくつかが間近を過ぎる高まる動悸で気取られそうだその音は装置の脈打つ唸りだとやがて気づいた金属的な甲高い音は耳鳴りか高周波音かわからなかった脳が潰れるほど鼓膜が圧迫され気が遠くなった網膜の奥から光が爆発して世界を埋め尽くした脳と全身が歪んで引きちぎられるかに感じたついに順番がまわってきたのだと思った
 脈動のような唸りは唐突に消えた光だけが残った
 恐る恐る目をあけた煉瓦の建物と建物のあいだにかれは佇んでいた往来が目の前にひらけていた棺のような装置も施設も兵士もドローンも消失していた老若男女や車が広い通りを行き来していたひとの衣服も車も赤や水色や緑や茶色や黄色などさまざまな色でバスやトラックや自家用車はどれも煤けたガスを排出しており内燃機関で走っているように見えた大気は濃く血や泥とは異なるにおいに満ちていた煙草や食べもの整髪料や白粉それにガソリン糞のにおいはしたがそれは犬の糞で腐敗臭は屍体ではなく背後の生ゴミや市場の果物から漂う甘い香りだった曇天で湿度は高かったものの建物や路面を覆う埃は気候変動の土砂降りを知らぬかに見えただれもが帽子を被っており男の多くは背広姿だったかれはブリキ製ゴミバケツの陰に銃を隠して夢遊病者のように歩み出たゴム底が普及していないのかひとびとの靴音は機銃を思わせるほど高かったすれちがいざまに肩がぶつかり舌打ちした男は喫煙していた棺を流れ出てから煙草なんてものを現実に見たのは初めてだった
 かれは熱に浮かされたように茫然と人混みを歩いた貧民街では臭いや音が許されずだれもが監視ドローンに怯えて息を潜めて暮らしていたし戦場では鼻を刺す悪臭と鼓膜を破る爆音しかなかったこの街はそのどちらとも違ったドローンも敵機も装甲車も見当たらない路地裏で子どもたちが笑い声をあげて遊んでいた殺したり奪ったり犯したりする男たちの残忍な笑みしか知らなかったかれは衝撃を受けたひとびとの未来である子どもは元いた世界では絶望で支配するための道具でしかなかったそれがここでは生きて自分たちの好きなように動きドローンや爆撃や社会病質者に脅かされることもなく煤まみれの笑顔で自転車のチューブか何かを転がして追いかけっこをしている装置に閉じ込められ気を失ったまま長い歳月が過ぎ世界が反転したのかそれともあの戦争が夢でこちらが現実なのか思えば棺から出る前も別の悪夢にいた今度もまた人生をやりなおすのかバス停のベンチにはパイプをくゆらしながら新聞を読んでいる初老の男がいたかれには知りようもなかったけれど青少年犯罪が激増していたかれの母国ではこのおなじ日に社会党の政治家が一七歳の右翼に刺殺されている事件の余波で子どもたちから刃物が取り上げられ鉛筆削り器が普及し社会党が野党第一党となって軍拡が長らく阻止されることになる新聞はドイツ語で書かれており日付は一九六〇年一〇月一二日水曜日僕らが出逢うちょうど九日前——そうまたしてもこの数字だ


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。