帰国の翌日、 一五キロ北への遠征のために、 モナBが六五ポンドの割賦で買ったカマー製ヴァンで迎えに来たNは (未成年のかれは車庫の契約を結べなかった)、 まずメンディップスで僕の髪型に眉をひそめた。 ついでフォースリン通り二〇番地の市営住宅で、 スキップしながら髪を指さして出てきたPに度肝を抜かれた。 僕は後部席で今後のことを考えていて気づかなかった。 のちにこの話を聞いたときは担がれていると思い、 膝をばしばし叩いて笑った。 Nは真顔でまじだってと請け合った。 P本人に確かめたことはない。 長い移動中、 僕とPはパンタロンやださい音楽の土産話をした。 大受けするどころかGはずっとむすっとしていて、 かれの機嫌と信頼を取り戻すのはひと苦労だった。 無口なピートBはいつも通り何もいわなかった。 マネージャ気どりで 「息子のグループ」 を方々へ熱心に売り込んでいて、 自分自身も興行主であるその母親には、 あとでしっかり厭味をいわれた。 BEの登場と息子の退場でやがて彼女は過去の人物となる。 さんざんしゃぶりつくして利用価値がなくなれば棄てる、 とのちにMに批判される僕だけれど、 人付き合いの面でも飽きっぽいのは確かに否めない。 しかし逆算すれば彼女は、 僕らの不在中にNとの子を身ごもったわけで、 この件に関してはどっちもどっちではなかろうか。 別れ際にGが僕らふたりの頭をじっと見たのが気になった。 次に顔を合わせたときにその理由がわかった。 かれもおなじ髪型になっていたのだ。 やがてNも後につづいた。 ピートBだけはグリスで固めた髪を崩さなかった。 僕らは何ひとつ要求しなかった。 ふん、 それならいいさと思っただけだ。
Gが髪型を変えた十日ほどのちの金曜、 この小さな内輪の流行にさっそく感染した未来の工作員が、 NEMSのホワイトチャペル店を訪問する。 といってもかれの場合、 毛質のせいで僕らとおなじには決してなり得なかったのだけれど (ボブ・ディランとは髪型の悩みで随分と意気投合していたようだ)。 ヒットチャート売場で落胆したように首を振り、 シングル盤売場の 「B」 項に眉根を寄せるもじゃもじゃ頭の東洋人を、 整った髪といかにも上品で高価そうな背広の青年実業家BEは、 疑いの目で見つめた。 かれはスペインでの長い休暇から戻ったばかりだった。 闘牛やかの地の男たちの情熱に比して、 家業はいかにも無味乾燥で退屈に思えた。 その手応えのない日常を護るのが、 両親や世間に期待されたかれの役割だった。 黒革上下に先の尖ったブーツ、 センターロールリーゼントの小汚い常連客が、 狭い試聴ブースに騒々しく詰めかける際も、 かれは店員の女の子にちょっかいを出されるのや万引きを畏れて、 いつも店の反対側から遠巻きに監視していた。 ましてあんなおかしな髪型をしたかつての敵国人が何をやらかすか知れたものではない。 そう決めつけたのは、 ザ・Bが観光の目玉になる前の地元で日本人などまず見かけず、 東洋人といえば中華街の移民くらいで、 しかもその連中は戦前まで、 洗濯屋が襲撃されたり墓が荒らされたりすることがあったほど差別されており、 かたやBEはユダヤ系とはいえ裕福な白人に属していたからだけれど、 ことかれの人生についてのみいうならば、 このときの不安はやがて的中することになる。
日本人に話しかけられた店員は首を横に振り、 店主へ助けを求めた。 そしてMはついに青年実業家の前に歩み寄り、 アヌビスのような目で相手を見つめ、 のんびりした低音でこう尋ねた。 ザ・Bの 「マイボニー」 はありますか……と。 いかに話を盛りたがる僕といえど、 そのときBEの脳内で天上の音楽が鳴り響いたとまではいわない。 僕がYと出逢ったときでさえ重大さに気づいたのはずっとあとだ。 むしろこのときBEが抱いた感情は、 あたかも侮辱されたかのような怒りだった。 こんな洗濯屋でさえ欲しがるものを、 商品知識に精通したこの自分が知らないなんて! 偏見ゆえの決めつけは皮肉にも惜しいところをかすめていた。 この東洋人の職業は洗濯ではなく洗脳と掃除だったのである。 BEの店はどんな稀少盤でも揃っているのが自慢だった。 短気で尊大なかれは悔しさを押し殺し、 ちょうど品切なんです、 近日中に入荷しますと笑顔で嘘をついた。 些細なことで癇癪を起こし、 周囲に暴言を吐いて当たり散らすのが日常でありながら、 人前では穏やかな物腰を演ずるのは役者志望だったかれの十八番で、 冷酷残虐な兵士の側面を隠していたMとは、 そんな意味で確かに相通ずるものがあったのかもしれない。 また来ますといい残しておかしな日本人は去った。
何を考えてMがこんな悪戯を仕掛けたのか僕には見当もつかない。 偶然か必然かまさにその翌日、 古い革ジャンを着た二〇歳の印刷工がおなじ商品を注文する。 やがて僕らの会社のいわば何でも屋になり、 新しい財務管理者に馘首されるまで僕やPの無理難題を叶えつづけてくれたBEの秘書は、 この客は実在せず発注のための創作だったと主張した。 僕はBBCのラジオ番組企画でスペイン在住の本人と実際に会って話したので、 その数年後に亡くなった元秘書の記憶は誤りだと断言できる。 この伝説にはさまざまなヴァージョンがあるけれど、 癇癪持ちの上司に逆らわずに機会損失を防ぐには、 架空であれ何であれ、 だれかしら注文主の名を記入せねばならなかったという部分は事実だと思う。 その印刷工は前から 「洞窟」 に出入りしていて 「お父つぁん」 のために入場券を刷ってやったこともあったらしい。 そいつにドイツで出版された音源の存在を教えたのは、 今風にいえばバンドマンの義兄で、 正反対の世界に生きるユダヤ系青年実業家にそんな情報源はなかった。 目上にでさえ頭を下げるのが苦手なBEは、 流行っているのかと部下に尋ねるのすら癪で、 言葉を少し変え、 ほかにザ・Bの注文はあるかと秘書に尋ねた。 二件の問合せがあったと秘書は答えた。 いずれも十代の女性だという。 そこでBEはその二名を接客した店員に尋ねた。 店員は顔を輝かせてグループを絶賛し、 自分はPのファンだ、 笑顔がとっても可愛いんですと尋ねもしないのに教えてくれ、 音盤の実在を知って喜び、 その在庫が店にないことや、 昼公演のために店を抜けられないのを残念がるという失態まで犯した。 情報の対価として雇用者は聞かぬふりをしてやった。 珍しく寛大な措置だ。 かれは週明けにカタログを調べて発注しようと決めた。
地元の人気グループの名はそれまでにも見かけていた。 街中に宣伝ビラが貼られていたし、 かれらを特集した地元音楽誌を店で扱ってもいて、 なんならそこに評論を書いたことさえあった。 いったいどんな連中だ? 店に厄介を持ち込まぬよう目を光らせていた不良少年どものこととはつゆ知らず、 BEは興味と野心をかき立てられ、 これはもしやちょっとした商機ではと気づいた。 あの縮れ毛の東洋人のことが血の染みのようにじわじわと意識にのぼってきた。 アルカイック・スマイルというのか、 謎めいた——というより実のところ間の抜けた笑みに、 何か嘘くさいものをBEは本能的に感じた。 これはぜひ実際に赴いてこの目で確かめてみねばなるまい。 背筋がぞくぞくした。 ……そう、 それまでにも幾度となく危険な裏通りへ赴いては、 たちの悪い男娼に騙され、 打ち据えられたりナイフで脅されたりして身ぐるみ剥がれる経験をしていたかれは、 自覚なきままに公私混同し、 またしても悪癖にとらわれていたのだ。
そして運命の一一月九日。 Aの国で壁が崩れるちょうど二八年前、 Pがパリで僕にハンバーガーを奢ってくれたまさにひと月後。 日中だというのに車が前照灯をつけて走るほど、 煤煙で空が覆われた寒く湿った日だった。 再来店して入荷予定を確かめた日本人のあとを、 青年実業家はかれ自身の心には市場調査を、 部下らには昼食を口実として店を出て、 兎を追うアリスのごとく尾行した。 遠く霧笛が聞こえた。 日本人が向かったのは果物取引所の裏、 わずか百歩の近所だった。 そいつは順番待ちの列へ加わることなく、 用心棒に挨拶して暗い入口へ消えた。 その店にBEはジャズクラブだった頃に訪れたことがあった。 ともに礼拝堂へ通った幼馴染みが当時は経営していたからだ。 うちの店員が話していたのはこれかとBEは合点した。 店に戻り、 訝しげな秘書の視線を無視して地元音楽誌の編集者に電話した。 建物に近づくと代替わりした経営者が出てきて用心棒に耳打ちし、 ふたりは肯いて通してくれた。 青年実業家は暗くてじめじめした階段を降り、 悪臭と騒音に満ちた地下の国へ飛び込んだ。 濡れた煉瓦壁と低い天井に囲まれて、 カードの女王や軍隊の代わりに十代の会社員や学生がひしめいていた。 パウル・クレー風の模様が壁に描かれた低いアーチの舞台で、 黒革上下のむさ苦しい四人組が、 帽子屋さながらに狂ったことをやっていた。
僕らは大きな音を出すために二台の 「棺桶」 を背後の壁へ向けていた。 約四〇センチのスピーカとセルマー・トゥルーヴォイスのアンプを、 一・五メートルの黒塗り木製キャビネットに納めた、 当時の僕らとしては化物級の機材で、 五〇ギニーの完済に翌年の夏までかかったのを憶えている。 狭く滑りやすい階段からこの重量物を搬入するのに、 NとピートBはよく拳を擦り剥いて悪態をついたものだ (力仕事はかれらに押しつけていた)。 轟く低音のおかげで青年実業家はすぐには気づかなかった。 演奏されているのは紛れもなく、 かれが発注して店に並べた音楽だったのだ。 煙草をふかしチーズロールを頬張りスープを啜る若者たちは、 僕らの舞台を楽しみながらも場違いな闖入者をチラチラと気にした。 整った髪と仕立てのよい背広、 洒落たネクタイ、 輝くタイピンやカフリンクス、 暗くて見えないが同様に高級にちがいない靴。 自分らの上司より裕福そうなこの人物は何者か。 地下室中の好奇のまなざしもBEにはまるで気にならなかった。 大音響の源である獣じみた四人のうち、 足を踏みしめて五本の弦でリズムを刻み、 ガムを噛みながら歌う若者にとりわけ圧倒されていた。 かの東洋人の不穏な気配とは正反対に、 この僕はあからさまな陽性の暴力でかれを捉えた。 そしてこのときは確かに音楽が鳴り響いていた——地下の騒音だ。
連載目次
- Born on a Different Cloud(1)
- Born on a Different Cloud(2)
- Born on a Different Cloud(3)
- Get Off Of My Cloud(1)
- Get Off Of My Cloud(2)
- Get Off Of My Cloud(3)
- Obscured By Clouds(1)
- Obscured By Clouds(2)
- Obscured By Clouds(3)
- Cloudburst(1)
- Cloudburst(2)
- Cloudburst(3)
- Over the Rainbow(1)
- Over the Rainbow(2)
- Over the Rainbow(3)
- Devil’s Haircut(1)
- Devil’s Haircut(2)
- Devil’s Haircut(3)
- Peppermint Twist(1)
- Peppermint Twist(2)
- Peppermint Twist(3)
- Peppermint Twist(4)
- Baby’s in Black(1)
- Baby’s in Black(2)
- Baby’s in Black(3)
- Baby’s in Black(4)
- Hello, Goodbye(1)
- Hello, Goodbye(2)
- Hello, Goodbye(3)
- Hello, Goodbye(4)
- Hellhound on My Trail(1)
- Hellhound on My Trail(2)
- Hellhound on My Trail(3)
- Hellhound on My Trail(4)
- Nobody Told Me(1)
- Nobody Told Me(2)
- Nobody Told Me(3)
- Nobody Told Me(4)
- Paperback Writer(1)
- Paperback Writer(2)
- Paperback Writer(3)
- Paperback Writer(4)
- Anywhere I Lay My Head(1)
- Anywhere I Lay My Head(2)
- Anywhere I Lay My Head(3)
- Anywhere I Lay My Head(4)
- Anywhere I Lay My Head(5)
- Crippled Inside(1)
- Crippled Inside(2)
- Crippled Inside(3)
- Crippled Inside(4)
- Crippled Inside(5)
- Mother’s Little Helper(1)
- Mother’s Little Helper(2)
- Mother’s Little Helper(3)
- Mother’s Little Helper(4)
