ジュリアーニ以前、 まだソーシャルメディアもなく、 殺人が日常茶飯事だった僕の街では、 Mの死は数行の記事にさえならず、 一五分間の名声を得ようとした襲撃者にはお気の毒なことに、 一瞬たりとも話題にならなかった。 Mが何者であるかは警察も、 僕が大枚はたいて雇った探偵もついに突き止められなかった。 あるいは僕のまわりを嗅ぎまわっていたCIAなら知っていたのかもしれない。 ものぐさな僕らは身内のだれに対してもそうしたように、 下の名前を縮めた一音節だけでかれを呼んでいたので、 苗字のほうがラテン語で死を意味することには気づきもしなかった。 いま思えばちょっとできすぎた話で、 本名は別にあったのではと僕は疑っている。 かれが語る前世の逸話には、 一緒に大麻やLSDをやっていてさえも妙な気分にさせられた。 目の前のかれと似ているところが少しもなかったからだ。 Mは僕とおなじくらいの背丈で、 運動神経も物憶えも悪からず、 僕と張り合えるほどの大酒飲みだった。 何より一緒にいて楽しかったし、 GやRとはもちろん僕らの仕事仲間のだれともうまくやれた。 それどころか気難しく頑固な伯母からさえも笑いを引き出せた。 Mと仲違いしてから、 あの中国だか日本だかのお猿さんはどうしてるんだいと何度訊かれたことか。 つまらない意地の張り合いはよすんだよ、 などとPとの間柄についてさえいわれたことのない説教をされたりもした。 辛辣に罵り合いながら笑い合っていたふたりが懐かしい。
必ずしも折り合いのよくなかったYやPとでさえも、 特定の話題では意気投合したり、 視線だけで意思疎通をし合うような場面を何度も見た。 たとえば一九六六年四月、 『回転式拳銃』 の収録に取りかかったときの話だ。 あの頃Mは気まぐれに録音所に出入りしては、 マルEの手伝いをしたり練習や収録の様子をただ眺めたりして、 僕らもそれを当たり前みたいに思ってなんの疑問も持たなかった。 ある日僕らは、 四年前のオーディション以来ずっと調整卓を任されていた技師がお役御免になったのを、 なんの前ぶれもなく報された。 馴染みの顔が見えない理由をGが尋ね、 かれと同名のプロデューサーが僕らよりずっと若い未成年の後任者を紹介した。 ふーんそうなんだ、 じゃ僕らはそれでいいよとPが笑顔で宣言し、 Gが険悪な目つきをして空気が張り詰めたまさにその瞬間、 すかさずMが口を挟んだ。 いいんじゃないの 「マークⅠ」 には新しい音が必要だし、 若い子に大いに実験してもらおうよ。 それでGは毒気を抜かれ、 僕はおまえらがそういうならと、 ただ肩をすくめてギターの調律を再開した。 GMが例の校長先生風の笑みを浮かべ、 Pがひどく満足げにRのドラムセットへ歩き出したのを憶えている。 そのときあいつは確かにMと意味ありげな目配せを交わした。 僕やGに反対されるのを見越してあいつらが仕組んだ交代劇だったといまでは確信している。 そしてMの予言通り、 EMIの規則を片っ端から破るジェフEの魔法を僕らは気に入った。 マイクを危険なほどバスドラに近づけるとか、 レズリーの回転スピーカに声を通すとか、 スピーカを逆に配線してマイク代わりに使うとかいった発想は、 GMと同年輩の前任者からは決して出てこなかったろう。 Mと一緒にいるとそんな風に考えを吹き込まれて操られてしまうことがたびたびあった。 あとの三人がどうだったか尋ねたことはないけれど、 僕はいつもずっと後になって気づき、 あの間の抜けた笑みの下に何か禍々しいものが隠されているように思えてならなかったものだ。
LSDで口が軽くなったとき本人が説明したところによると、 僕らが知るバージョンのあいつは複製時の遺伝子操作によって、 先天性のあらゆる欠陥を修復されたのだそうだ。 かれが前世と呼ぶ原型は小柄なRより三インチも背が低く、 深夜に鏡を見ると自分でも不安になるほど醜くて、 重度の近視 (僕よりひどかったそうだ) と、 軽微だが社会生活には差し障るほどの知的障害を抱え、 ビール一杯で赤くなるほどの下戸で、 何をやらせても満足にできない無能をだれからも疎まれ、 友も家族も恋人もなく、 生まれた地方都市から一歩も出ずに、 過去の並行世界に超人として転生した自分が活躍する内容の、 だれにも読まれぬSF小説を書きながら生涯を過ごし、 最期には取り壊しを理由にアパートを退去させられ、 新たに部屋を借りる金もなく、 お情けで雇われていた非正規の職も失って、 冬の路上で餓えと寒さと心臓麻痺で死んだという。 享年四九歳。 哀しむ者は身元不明の遺体を片づけさせられた市の職員くらいで、 ヘンリー・ダーガーならぬMの原型は、 非現実の王国を死後に見いだされることすらなかった。 再生されたかれを殺すことになる色つき眼鏡の狂人にでさえ、 愛してくれる妻や、 世界旅行をしたり楽器を弾いたりする豊かな人生があったというのに……。
ちなみに犯人のことをなぜ詳しく知っているかというと、 事件のあとその妻がわざわざ僕ら夫婦に連絡してきて、 夫がいかに善良な人間であるかを力説したからだ。 会えばきっと好きになるとまでいわれた。 YやPもさすがにこれには憤慨していた。 僕とYのパロディであるかのように加害者の妻もまた日系人だった。 日本人の妻がいる男の旧友である日本人を、 日系人の妻がいる男が殺したわけだ。 文字通りの無名人を殺したところで大した罪にはならず、 犯人は数年で出所した。 いまでは孫に囲まれて幸せに暮らしているだろう。 若き日の殺人を武勇伝のように語ってさえいるかもしれない。 Mの話しぶりからすると原型の死はたぶんいまから数年後で、 せめて本名でもわかればとも思うけれど、 わかったところで、 遠く離れた日本の浮浪者のためにしてやれることは何もない。 Mの話が本当なら、 そこまでの無能に与えられる仕事は、 音楽業界ではテイラー・スウィフトの次に金持といわれる僕もさすがに持ち合わせない。
天才電子工学者を自称する詐欺師や、 社会病質の破壊活動家といった、 金を目当てに群がってくる連中にさんざん騙され、 痛い目を見てきた僕だけれど、 Mの話はさすがにイアン・フレミングやフィリップ・K・ディックの読みすぎだと思っていた (後者はかれのご贔屓の作家だった)。 でもいま振り返ればかれの学習能力には、 確かに常人離れしたところがあったようにも思う。 Yと早口の日本語で口論していたからあれが母語なのは確かだし (あの光景には嫉妬させられた)、 初対面の自己紹介はKに似たドイツ語訛りだったのに、 閉店で別れる頃には僕らそっくりのリヴァプール訛りになっていたのはいまでも鮮明に憶えているし、 フィリピンで僕ら全員が殺されかけたときには片言のタガログ語で暴徒を説得しようとしていた……通じたようには見えなかったけれど。 一九六四年六月の世界ツアー直前にRが流感で倒れたとき、 その場しのぎの代役をいつもの悪ふざけで押しつけたら経験がないと渋っていたのに、 わずか一時間ほどPが教えただけで、 音がまるで聞こえなくても僕らの頭の動きだけを見てそこそこ叩けるまでになったこともある (特殊メイクの東洋人がRとすり替わっていることに観客のだれも気づかなかった。 金切り声を上げて失神さえできればだれが演奏していようと構わなかったのだ)。 そんなわけで、 いまでは——というよりメイPと風呂上がりにバルコニーでUFOを目撃した一九七四年の夏以来は、 かれが話してくれた素性を半信半疑ながら受け入れている。
Mが暴力を厭う気持はまんざら嘘でもなかったろう。 何しろあの心優しい巨漢マルEの、 無害なマカロニウェスタン趣味にさえ眉をひそめ、 そんなものを振りまわしていたら誤解を招くとかなんとか難癖をつけて、 お気に入りの水鉄砲を取り上げようとしたくらいなのだ。 可哀想なマル! 一九七六年にジアゼパムで錯乱して同棲中の恋人に通報されたとき、 かれは駆けつけた警官たちに人差し指を向け、 親指を立ててばんばんと大声で叫んだために撃たれるはめになった。 おかげで楽器にも調整卓にも触れなくなり、 書きかけの自叙伝も口述に頼らざるを得なくなった。 Mに銃の蒐集を禁じられなければその手には本物が握られていて、 数本の指を吹き飛ばされただけでは済まなかったかもしれない。 Mがフィル・スペクターを毛嫌いして、 パーティの席でロニー・ベネットに婚約を破棄するよう忠告したことなんかもそうだ。 僕が彼女の尻を追いかけまわしていた一九六四年、 あの米国人プロデューサーが厚かましく僕らの飛行機に同乗しようとしたときや、 一九七〇年にグリンJが仕上げられなかった音源を、 僕とGがPには無断であの男に託そうと相談していたときなんか、 Mはたびたび人間性に疑問を呈し……というか、 監禁虐待者だの殺人犯だのと呼んで僕らを怒らせた。
「音の壁」 で知られるあの偏執者を腐すとき、 Mは口を滑らして前世の両親を引き合いに出した。 ろくでなしの親父を恥に思っている僕でさえもこの話にはぎょっとさせられた。 その遺伝的欠陥も修正されたのか、 むしろ兵士に有利な性質として残されたのではあるまいか。 かれは戦場での殺人を否定しなかった。 ただ曖昧に笑うだけで、 辛辣な僕の問いに答えなかった。 一九六〇年秋、 僕らと出逢うまでの八日間をMはあの港町のどこでどうして過ごしたのか。 血と泥にまみれた軍服や靴の代わりにまともな服や靴、 それにあの店で夜ごと飲み喰いする金をどうやって手に入れたのか。 銃を売り払ったのか、 それとも……使ってからエルベ川か運河にでも棄てたのか。 あの頃の僕らがあえて問い質さなかったのは、 答えを知るのが怖かったせいかもしれない。
連載目次
- Born on a Different Cloud(1)
- Born on a Different Cloud(2)
- Born on a Different Cloud(3)
- Get Off Of My Cloud(1)
- Get Off Of My Cloud(2)
- Get Off Of My Cloud(3)
- Obscured By Clouds(1)
- Obscured By Clouds(2)
- Obscured By Clouds(3)
- Cloudburst(1)
- Cloudburst(2)
- Cloudburst(3)
- Over the Rainbow(1)
- Over the Rainbow(2)
- Over the Rainbow(3)
- Devil’s Haircut(1)
- Devil’s Haircut(2)
- Devil’s Haircut(3)
- Peppermint Twist(1)
- Peppermint Twist(2)
- Peppermint Twist(3)
- Peppermint Twist(4)
- Baby’s in Black(1)
- Baby’s in Black(2)
- Baby’s in Black(3)
- Baby’s in Black(4)
- Hello, Goodbye(1)
- Hello, Goodbye(2)
- Hello, Goodbye(3)
- Hello, Goodbye(4)
- Hellhound on My Trail(1)
- Hellhound on My Trail(2)
- Hellhound on My Trail(3)
- Hellhound on My Trail(4)
- Nobody Told Me(1)
- Nobody Told Me(2)
- Nobody Told Me(3)
- Nobody Told Me(4)
- Paperback Writer(1)
- Paperback Writer(2)
- Paperback Writer(3)
- Paperback Writer(4)
- Anywhere I Lay My Head(1)
- Anywhere I Lay My Head(2)
- Anywhere I Lay My Head(3)
- Anywhere I Lay My Head(4)
- Anywhere I Lay My Head(5)
- Crippled Inside(1)
- Crippled Inside(2)
- Crippled Inside(3)
- Crippled Inside(4)
- Crippled Inside(5)
- Mother’s Little Helper(1)
- Mother’s Little Helper(2)
- Mother’s Little Helper(3)
- Mother’s Little Helper(4)
