CLOUD 9

連載第12回: Cloudburst(3)

アバター画像杜 昌彦, 2024年11月15日
Fediverse Reactions

しかし一九六〇年一二月九日の夕方にそんな途方もない幻覚ハルシネーションはひとつも話題に出なかった甘ったるい酒で口の軽くなった僕は独り言のように喋りつづけたMはあの間の抜けた顔で肯き相槌を打ち先を促したり僕のいわんとすることを整理して要約したりしたのちに大金を払ってYと受診した高名な精神科医よりもあいつのほうがずっと聞き上手だったなそんな日が三日間つづいたMは午後になると必ず現れて一時間ほど伯母と茶飲み話をしたのち僕の様子を見に上がってきてはイークラックへ連れだした僕らはザ・Bのことを議論したりくだらない冗談をいい合ったりしたMが僕に何かを書くよう薦めたのはこのときが最初だったのを憶えている曲でもハンブルク回想記でもいいからとにかく何か書けよとかれはいったのだ数世代にわたるレノン家の年代記を書いてみたいと打ち明けた気もするけれどそれがまさかこんな本になるとは思ってもみなかった四日目に僕はようやく婚約者と逢う気になりMが訪れる前に出かけていったそのことを伯母に聞かされたMはもう大丈夫と判断したのだろう翌日は現れなかったそれどころかあの撮影会の日と同様にまたしても僕の前から姿を消したのだ連絡先を聞いておかなかったのを悔やんだけれどグループを再開してやることが急に増えたのでほどなく心配するのを忘れてしまった
 数年後あのとき何を話していたのか伯母に尋ねた経理や法律の勉強をするようMからしつこく薦められていたというJの成功に備えておかなければと力説されたそうだ途方もない夢物語だし女しかもすでに若くない下宿経営者が学問をするような時代でもなかったので伯母はもちろん本気にはしなかったけれど甥のばかげたお遊びが実を結ぶとか知識で甥を護るとかいった考えはまんざらでもなかったようだいわれてみれば当時伯母の蔵書にはその手の本が急に増えた気がする前にも述べたように伯母は古風なようでいてその実型破りで先進的なところもあったのだそこはやはり僕の伯母でありあの母の姉でもあったそして僕や母と少しだけ異なりそれでいて僕に少なからず影響を及ぼしたのは知識は人生を豊かにすると固く信じていたことだだからメンディップスには本がふんだんにあったし女として生まれたがために知識から隔てられそれゆえに男のような就業機会に恵まれなかったことを伯母は内心で悔しがっていた彼女もまた人前で弱みを見せるのはみっともないと考えていて実の息子も同然に育てられた僕でさえその傷ついた自尊心と劣等感に気づかなかったそれをMは初対面で見抜いたのだ一九六九年会社の財務管理をだれに任すかで揉めた際Mが持ち出した突拍子もない案はこのときすでに種が蒔かれていたわけだ
 いま思うとちょっと笑えるのは帰国しておきながら仲間にいっさい連絡をとろうとしなかったのは僕だけじゃなかったということだだれもが互いを薄情に思いながら自分からは電話をしなかった便所臭い楽園を自分だけが追放されたと思い込んでいたGはPとピートBも強制送還され地元に戻っていると伝え聞いて安堵したしかしまさか親分ことJLもだとは思いもよらなかったMと婚約者のおかげで元気を取り戻した僕は渡独前に一二回ほど演奏したスレイター通りの喫茶店当時のマネージャとはその店で知り合ったへ赴きSからの手紙を取りに現れたGと鉢合わせしたハンブルクでの失敗を恨まれているにちがいないと僕は身構えたところがGはそんな態度はおくびにも出さず無邪気に顔を輝かせて再会を喜んでくれた僕らは背中を叩き合ったり肩を小突き合ったりばかげたことをいい合ったりしたそのあとは案の定しこたま怒られたけれどその理由はリーダーの力不足ではなくあんたの帰国を知っていればもっと早く活動を再開できたのにということだったそれから工場勤めのPを冷やかしに行ったのちにリードギターもドラムも小器用にこなして口やかましく指図しGやRを怒らせるPだけれど世間一般のまっとうな労働にはまるで適性がなかったらしく職安で紹介された荷下ろしの仕事をすぐ馘になり次の工場でも同僚がコイルを八個から一四個も巻くあいだに一個半巻けるかどうかのありさまだったそこへ僕らがやってきてよっ真面目!とか労働者の鑑!なんてからかったんでかっとなったMは父親の苦言怠け者には悪魔が憑くのだぞ息子よ……が一瞬頭をかすめたもののええい知ったことかと巻きかけの銅線を投げ棄て僕らといっしょに塀を乗り越えて職場から逃亡した
 凱旋公演はその二日後前年に僕の誕生日の前日だった報酬で揉めてそれきりになっていたピートBのお袋さんの店でやったPとピートBは別の出演者から楽器を借りたSの代役にはピートBが元いたグループのリズムギターを勧誘したピートBの親友でやがて異父兄弟の父親にもなるNが帰ってきた伝説のザ・Bなる告知チラシを店内のあちこちに貼った友情の証のつもりだったハンブルクでの活躍を知らないのでいまだ素人臭い不良のおふざけにすぎないと決めつけていたのだかつて僕らがペンキ塗りのバイトをした元石炭置き場の地下室モナBが競馬で当てた金で改装したには異国情緒溢れるドイツ人グループを期待する客が詰めかけた僕らの田舎町じゃ外国の文化に触れる機会なんてそうなかったからねそこへ僕らが現れたんでなんだこいつらかよ騙されたそりゃこんな店に大物が来るわきゃないよな……とでもいいたげな失望の空気が流れたでも僕らは去年の僕らじゃなかった僕が足を踏み鳴らして調子をとりPとG及び店主の息子とSの代役を従えて演奏をはじめると観客の態度が一瞬にして変わった飛び跳ねたら頭が天井を突き破るほど狭い地下室実際そんなことがあったは熱狂した暴力団が睨みを利かせ水兵が殴り合う地獄で鍛えられるうちに演奏も客を盛り上げる手管も格段に向上していたのだ成長した息子をうっとり見つめるモナBの表情が忘れられない母がいたら彼女も僕をこんなふうに見てくれたろうか二階に下宿していたNはピートBの弟に呼ばれて慌てて降りてきたかれの目つきが変わるまさにその瞬間を僕らは見た週給二ポンド十シリング昼飯つき夜も通信講座で出世をめざす前途洋々たる会計士見習いがそのすべてをなげうって僕らの運転手にやがて社長についには知的財産を護る語り部にまでなる人生はこのとき運命づけられたのだ
 翌々日にはマネージャがクリスマスイヴの仕事をとってきた渡独の前月まで土曜夜に出演していたリスカードにある店だかつて毎週末に集まる物騒な客への苦情が近隣住民から寄せられ一度などワラジーとシークームの不良のあいだにザ・フーの映画もかくやという乱闘騒ぎが起きてPはご自慢のエルピコ社製アンプを救おうと渦中へ飛び込むはめになった)、 取りやめになっていたロックンロールがその夜だけ解禁されたのだハンブルクに残してきた楽器や機材はこのときにモナBが船便で取り寄せていた彼女は息子とともに税関の倉庫へ向かい寒風吹きすさぶ岸壁でタクシーに乗せるために木箱を解体しなければならなかった馴染みの道具を取り戻したおかげでここでも僕らは大成功を収めさらに三日後のリザーランド市民講堂での公演はいまも語り草となっているあれからしばらくは街を歩くたびにサインをねだられ英語が流暢ですねと褒められたものだ
 この仕事はのちにBEとの仲を勘ぐったことで僕に公衆の面前で殴打されることになるお父つぁんことボブWが手配したいい歳してロックンロール熱に感染し鉄道事務員からDJ兼司会者に転身した三十路のゲイだ年齢は鯖を読んでいたし指向も巧みに隠していた)。 マネージャがハンブルクを真似て開店したばかりの店をかれはソーホー通りの熱いスポットと宣伝した僕らも出演を楽しみにしていたのにその店は電気の使いすぎによる出火でたった六日で焼失したちっとばかし熱すぎたってわけだ保険金目当ての放火を噂されたマネージャは胃潰瘍で入院した僕にいわせりゃ避妊具の呪いってとこだね邪悪なザ・Bよ次は帰国して地元の映画館に火を放て……みたいなマネージャは病床でボブWに無念を訴えザ・Bの連中を頼むといい残してがっくり力尽きたボブWはマネージャの名を叫んで号泣しマネージャはなんだなんだとびっくりして目を醒ました
 性的指向にかかわらず男気に溢れたボブWは一銭の得にもならぬのに奔走し顔なじみの興行主に僕らを売り込んだあいにくこの興行主前年五月に契約をばっくれて先輩歌手とスコットランド公演へ行った僕らを恨んでいたのでボブWはひたすら拝み倒さねばならなかったすでに刷られていたチラシにはハンブルク直送!なる煽り文句が書き加えられた背広とネクタイセンターロールリーゼントで決めた男の子たちドレスでめかし込んだ女の子たちが三百人足取りも軽く集まってくるもぎりのおばさんに三シリング払い男女が左右のクロークに別れて上着を預け番号札を受け取る両開きの扉を押してホールへ入場するとそこがダンスパーティ会場だここで僕らは客が踊るための伴奏をることになっていた前座の数組はもちろん注文通りの仕事をこなした悪いグループじゃなかったよただ当時の平均だったってだけの話だロバート・ゼメキスのSF映画を思い描いてくれたらいいあれは一九五五年の米国が舞台だけれど五年後の僕らの地元も似たようなものだった要は呑気で平和な時代だったということだ——このときまでは
 ついに僕らの出番となる打ち合わせ通りボブWが叫んだハンブルク直送センセーショナルなザ・Bの登場です!
 Pのリトル・リチャードばりの高音に合わせて緞帳がさっと上がる黒革ジャケットに黒の細身ジーンズ銀のウェスタンブーツセンターロールリーゼントにピンクの帽子そんなド派手なドイツ帰りの奴らがのっぽのサリーりだしたこいつでのんびり踊っていられるもんならやってみろよ……ゲイの夫が外でやっている恋愛を専業主婦に密告アウティングしてやろうという悪意に満ちた歌詞をPは中年男の若い女との不倫にわかりやすく改変して高く叫んだ当時は流行歌の歌詞を掲載するウェブサイトなんてもんは存在しなかったので耳と憶測に頼るしかなく僕らのレパートリーは大概どこかまちがっていたしまして性的少数派の機微なんてものは理解の埒外だったのだけれどPが惨めミザリー憂鬱ブルースに置き換えたのはわざとだと思う商売敵ストーンズの朧気兄弟グリマー・ツインズほどではないにせよ僕らなりに米国黒人文化には敬意リスペクトがあったわけだ
 センセーショナルってのはいい得て妙だったね観客は呆気にとられて動きを停めたそれから舞台前へ詰めかけ押し合いへし合いししまいには金切り声で叫びだした最後のホワッド・アイ・セイる頃には大騒ぎで収拾がつかなくなっただれもが僕らの真似をして狂ったように足踏みしたPなんかマイクをスタンドから外してギターを下ろし舞台狭しと跳ねまわっていたリズムを刻み仲間たちを煽り両脚を踏みしめて叫びながら僕はまんざらでもなかったそれまでは自分らを悪くないと思っていたいいと思いはじめたのはこのときが最初だやがて僕らは最高だと確信するようになる
 それが一九六〇年のクリスマスイヴに起きたことだ時代は変わりはじめていた


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。