思い返せばMとは酒と幻覚剤で泥酔しながら随分いろんな話をしたものだ。 あるときMは愛について定義した。 地上の総量が一定で寄り集まる性質を持つと。 富める者がより豊かになるアルゴリズムで世界は規定されているとあいつは語った (アル……なんだって? と僕はいった)。 その理屈でいえば当時のザ・Bこそ地上の愛を独占していたといえる。 でもあの頃の僕に子ども時代から渇望した愛を取り戻せた実感はなかった。 メディアが捏造した四頭の怪物にかっさらわれ、 生身の僕に残されたのは味気ない滓だけ。 どんなに働いて成功しても伯母は相変わらず認めてくれないし、 群がる女たちは僕の本体ではなく髪型を愛していて、 ロネッツのロニーは寝台の前で両脚を踏んばって貞操を守り通し (おかげで僕らと彼女らは友情を保てた)、 恋女房だったはずのCとのあいだには隙間風が吹くばかり (下半身の暴走のせいだろとMにはいわれそうだ)、 長男なんか僕の顔を見るたびに怖がって泣きだす始末 (そうとも僕は悪い父親だった)。 観測されるまで存在が確定しないともMは語っていたから、 僕にとってあの頃の愛は量子的揺らぎの状態にあったのかもしれない。 それでいてだれもいない森で倒れた樹の音のことばかり、 世界中の子どもたちの前でわかったような顔で歌っていたのだから詐欺師もいいところだ。
出逢ったばかりのAを思いだす。 輝くばかりに美しく才能に溢れ、 自分の車を乗りまわし、 高名な師匠のもとで修業中。 写真家として華々しい成功が約束されているかに見えた。 なのにザ・Bとかかりあったが最後、 英国の男たちの成功と反比例するかのように減速し墜落した——あたかも巨大な怪物に捕食され養分を吸われたかのように。 米国進出が大成功を収めた頃には、 ふたつに切り分けられた敗戦国でも、 壁の向こうではいざ知らず僕らの名声は高まり、 音盤は飛ぶように売れていた。 股を誇示したり洗いたての仔犬よろしく頭を振ったりしながら、 安全無害な十代の恋を笑顔で歌う、 襟なし銀色背広の坊やたちを目にしない日はなかった。 政治や国際情勢を扱うお堅い雑誌や一流紙までもが、 競って僕らの記事を載せた。 覚醒剤をビールで流し込んでいた便所裏の汗くさい黒革上下を憶えている者もいて、 Aが友人だと思っていたとある名家の跡取り息子なんかは、 作品や思い出に興味があるふりをして親しげに近づいてきた。 Sに関心を持たれて嬉しかったAは写真やネガ、 山のような便箋や手書きの誕生日カードを気前よく披露し、 複製して家でゆっくり鑑賞したいとの口実を疑いもせず、 乞われるがままに貸してやった。 それきり男は連絡を絶ち、 大切な思い出の品々は二度と戻ってこなかった。 数十年後に競売が報じられたネガには署名が加えられていた——あたかもそいつの作品であるかのように。
アイムスビュッテラー通りの屋敷には、 アマチュア時代の音源の噂を聞きつけた音盤会社から続々と電話がかかってきた。 それは美大の食堂で僕らがふざけたりSが拙いベースを練習したりする様子が記録された磁気テープで、 思い出を共有する仲間内でのみ価値があり、 だからこそ決して表に出したい代物ではなかった。 いいえ、 お売りするつもりはありません、 金額の問題じゃないんです、 十万マルク? ご冗談はよしてください……。 男たちの声は日増しに脅迫めき、 鳴りやまぬ電話に音をあげた彼女は電話でGに助けを求めた。 彼女を姉のように慕うGはBEの事務所を教え、 保険をかけて郵送するよう助言した。 ハイリゲン広場の移動式遊園地での作品は、 掲載を許可したのは 『ライフ』 誌だけだったのに、 ひと言も断りなく欧州の通信社を通じて全世界へばらまかれ、 興味本位の新聞や雑誌で衆目に晒される一方、 Aには一銭も支払われなかった。 抗議しようにもだれにどうやって訴えればいいかわからない。 一九六四年、 米国でこそ 『一六』 誌編集長のような、 立身出世のためならだれでも利用する貪欲な女も現れてはいたものの、 敗戦国の若い女は男社会に対してまったくの無力だった。
Aを喰い物にしようと群がる男たちは、 そいつらが最初でも最後でもなかった。 格調高き一流ニュース週刊誌 『星』 もまたそうだった。 編集長に密着取材を命じられた主幹撮影記者は三五歳。 マグナムフォト所属の写真家で、 暗殺された大統領や高名な女優の肖像作品で知られている。 インドシナ戦争や中東問題、 フルシチョフ訪欧にかけては詳しかったが十代向けの音楽は門外漢。 世界中の同業者が追う超過密スケジュールの人気芸能人に、 いかにして接触せよというのか。 無茶振りすぎだろと頭を悩ますうち、 友人の写真館で働く美人助手をふと思いだした。 確か無名時代のザ・Bに在籍していたベーシストの婚約者ではなかったか、 そんな話を聞いた気がする……。 記者に泣きつかれた師匠は弟子に事情を話し、 あいだを取り持ってくれまいかと尋ねた。 恩師の頼みとあっては断れない。 Aは気が進まぬながら年長の男性記者に会って話を聞いた。 ザ・Bが巻き起こした社会現象を四週にわたって考察する写真ルポだという。 交通宿泊費は編集部で持つから案内役として同行してくれと拝み倒された。 無名の若い女が功成り名遂げた大の男に頭を下げられるなど当時の社会ではあまりないことだった。 友人のわたしでも最近はなかなか逢えないので難しいと思いますよ、 と教えたものの無下にもできず、 Gに電話で相談した。 年長の作曲コンビと収入差がひらきはじめていたギタリストは、 回線の向こうで太い眉を寄せ、 報酬はどうなってるのと疑わしげに尋ねた。 その発想がなかったAはびっくりして旅費はもらえると応えた。 そんなの当然だろ、 きみがタダ働きさせられるのなら協力しないよとGは厳しく告げた。 その話をAから伝え聞いた恩師はもっともだ、 きみの友だちは若いのによく気がつくねと感心し、 案内役ではなく写真家として正式に雇用する契約を、 編集部とAとのあいだに取り交わさせるよう記者に確約させた。 屋敷に書留で届いた契約書には取材委託とあり、 報酬は一万五千マルクと明記されていた。 Gはそれでもまだ半信半疑で、 契約書の控えが手許にあるか何度も念を押し、 ならいいよ、 取材許可証を発行するようBEに話しとくと請け合って、 Rと共同生活をしているフラットに泊まるようAに求めた。
記者は雑誌社の費用で宿を予約した。 かれは高価なライカを若い後輩に贈った。 Aには初めての小型写真機だ。 その時点での記者はAを利用する気はあっても騙すつもりまではなかったのだろう。 むしろ友人から預かった有望な新人を育成する心意気さえあったにちがいない。 Aはいざという場面で撮り逃さぬよう、 新たな道具が手になじむまで練習を重ねて出発を待った。 三月二日、 黒革上下のAと撮影機材を抱えた記者はヒースロー空港へ降り立った。 GとRは黒のベントレーを手配していた。 フラットでは映画撮影から戻ったばかりのふたりが満面の笑みで出迎えた。 かれらはAに紹介された記者を、 戦場で撮るのはどんな感じか、 危険ではないのかと質問攻めにした。 それから自然と映画の話になり、 早起きや台詞を憶えるのが大変だとか、 チョイ役で出ているスミスのポテトチップスの子が可愛いなどとふたりは楽しげにまくしたて、 あした見学に来なよ、 記者さんも連れてさと口々にせがんだ。
翌早朝のパディントン駅には出演者と撮影スタッフ、 総勢百人あまりが集まった。 報道関係者はふたりのドイツ人だけだ。 他人を締め出して大勢に見守られていれば安全だろうというので、 このときMはいなかった。 僕はAとやぁやぁひさしぶりとか元気? などと挨拶を交わした。 BEのフラットで仮住まいだった頃に彼女が泊まりに来て以来の再会だった。 列車が走りだすと撮影の合間に話す時間がたっぷりあった。 おどけて出演者やスタッフを笑わせるRや、 停車中に構内へなだれ込んだファンに愛想を売るP、 台本を睨んでぶつぶつ呟いたり女優に腑抜けたように見惚れたりするGを、 Aは一心に撮りつづけた。 構図を決めて思惑通りのポーズをさせるのではなく、 血の通った、 呼吸をし瞬きをする、 動く生身を捉える予測のつかぬ体験に、 Aは目が開かれる思いだった。 それは写真館での日常業務とも、 僕らと知り合ったばかりで意思疎通さえままならなかった移動遊園地での撮影とも、 まるで異なった。 ライカを向けられた僕は無意識に髪型を気にして指先で整え、 Aの顔がかすかに曇るのに気づいてどうした? と視線を向けた。 ねぇJ、 なんか疲れてる? いや別に……といつものように否定しかけてから、 彼女には正直に打ち明けることにした。 うん、 実はちょっと息が詰まりかけてる、 鎖に繋がれた囚人みたいなもんさ。 僕が窓外の空へ目をやるとAもそっちを見た。 鳥になりたいよ、 愛が人生でなすべき最優先なら自由はその次だね……。
連載目次
- Born on a Different Cloud(1)
- Born on a Different Cloud(2)
- Born on a Different Cloud(3)
- Get Off Of My Cloud(1)
- Get Off Of My Cloud(2)
- Get Off Of My Cloud(3)
- Obscured By Clouds(1)
- Obscured By Clouds(2)
- Obscured By Clouds(3)
- Cloudburst(1)
- Cloudburst(2)
- Cloudburst(3)
- Over the Rainbow(1)
- Over the Rainbow(2)
- Over the Rainbow(3)
- Devil’s Haircut(1)
- Devil’s Haircut(2)
- Devil’s Haircut(3)
- Peppermint Twist(1)
- Peppermint Twist(2)
- Peppermint Twist(3)
- Peppermint Twist(4)
- Baby’s in Black(1)
- Baby’s in Black(2)
- Baby’s in Black(3)
- Baby’s in Black(4)
- Hello, Goodbye(1)
- Hello, Goodbye(2)
- Hello, Goodbye(3)
- Hello, Goodbye(4)
- Hellhound on My Trail(1)
- Hellhound on My Trail(2)
- Hellhound on My Trail(3)
- Hellhound on My Trail(4)
- Nobody Told Me(1)
- Nobody Told Me(2)
- Nobody Told Me(3)
- Nobody Told Me(4)
- Paperback Writer(1)
- Paperback Writer(2)
- Paperback Writer(3)
- Paperback Writer(4)
- Anywhere I Lay My Head(1)
- Anywhere I Lay My Head(2)
- Anywhere I Lay My Head(3)
- Anywhere I Lay My Head(4)
- Anywhere I Lay My Head(5)
- Crippled Inside(1)
- Crippled Inside(2)
- Crippled Inside(3)
- Crippled Inside(4)
- Crippled Inside(5)
- Mother’s Little Helper(1)
- Mother’s Little Helper(2)
- Mother’s Little Helper(3)
- Mother’s Little Helper(4)

@ezdog Jのむなしさが伝わってくる。スターに昇りつめたB達の生身の人間としての気持ちを考える。やっぱりあんなふうに売れてしまうと、もう自分達だけではどうにもならないことになるんだな。
大事な思い出の品を奪われたり作品を勝手に使われたりしたAのことが私まで悔しく思えてならない。B達も親友がそんなめにあうことなど望んでいなかっただろうに。