昼前にようやくはじまった録音は休憩を挟んで午後にまでずれ込んだ。 幅十メートル、 奥行六・四メートルで窓がなく、 同じ階に調整室があるこの録音所では、 爆音は無用の長物だった。 かといって音量を下げると 「棺桶」 は雑音を発するばかり。 僕らのギターはその辺の適当なアンプに繋がれ、 ピートBは衝立で僕らの足踏みから隔離された。 そもそも床が傷むからと足踏みを禁じられた。 気が散るからあの赤いやつを消してくれとPが頼んで笑われた。 ひとが入ってくるという意味が僕らにはわからなかった。 とある伝記作家の評によれば、 普段は獣さながらに痛烈な僕の声は、 小心者のように遠慮がちで、 気負いすぎのPは女みたいに声がうわずり、 語尾を変に強調しており、 躓きがちなGのソロは初心者と疑われるほど。 「洞窟」 をどっかんどっかん沸かす僕とPのギャグは、 肝心の聴衆がいないため空疎に響き、 ピートBに至っては衝立の向こうでトランプのカードでも切っていたのではあるまいか。 目の前で熱狂してくれる観客の代わりに、 無表情な連中が窓の向こうで調整卓を弄っているだけでは、 張り合いがなさすぎて調子が出なかった。
要するに僕らは 「洞窟」 のぬるま湯に慣れきっていたのだ。 地元じゃどんなに人気でも一歩都会へ出ればこのざま。 弁解させてもらえば技術に制約のあった当時これはよくある話だった。 アンディ・ウォーホルのお抱えグループが計器の針を振り切らせるのは僕らが世界を変えた数年後で、 しかもパトロンの加護があってのこと。 馘にされたウェールズ人がプロデュースした元祖パンクバンドも音盤じゃおとなしいねなんて揶揄されたそうだし、 だからこそGMも僕らのデビュー作に実況盤を検討したのだけれど、 結果として僕らは調整室にさえ入れてもらえず、 教室で罰を受ける生徒のようにその場に立たされたまま、 自分らの冴えない演奏を聴かされるはめになった。 どうも思い描いていた成功とは様子がちがった。 演奏を終えるなり調整室から技師たちが飛び出してきて拍手喝采、 葉巻をくわえた偉いさんが僕らに熱烈な握手を、 その秘書がBEに契約書へのサインを求めてくるはずだったのに。 このときの経験を僕とGは根に持ち、 およそ四年後、 危険が増すばかりで自分らの演奏さえ聞こえない公演にうんざりしてからは、 録音所こそ我らが楽器とばかりに、 録音技術に極端にのめり込むようになる。 憧れの音盤会社をあとにした僕らはBEに夕飯を奢ってもらった。 店は繁盛していて給仕がなかなか注文を取りに来ず、 頼んだワインは何かを暗示するかのように、 ついに出てこなかった。 僕らは水だけでもそもそと料理を口へ運んだ。
地元に帰ってからも僕ら三人はまだ華やかな成功を夢見ていて、 結果が出るまでの六週間ずっと、 あの話はどうなったんだいとBEを何度もせっついた。 BEも電話や手紙でデッカを何度もせっついた。 音盤会社としても取引先を無下にはできなかったのだろう、 ついにBEはテムズ南岸を望む役員専用の食堂へ呼び出され、 そこでの昼食のために夜行列車へ飛び乗った。 新人発掘部門トップと営業部長及びその秘書は、 世間話に終始してなかなか本題に入ろうとしなかった。 悪い報せは食後のコーヒーとともに出された。 いまどきギター主体のグループは流行らない、 どうしてもというなら百ポンド払えば音盤を出してあげてもいいですよというのだ。 BEは一瞬ぐらりと心が揺らぎつつもお得意の癇癪を起こし、 ふざけんなと丸めた紙ナプキンを叩きつけ椅子を蹴倒して (というのは僕の想像で、 実際は感情をこらえてそつなくふるまったのだろう) 食堂を出て行き、 それきり僕らとデッカの縁は切れた。
そのことをかれが渋々認めてからも僕らはお流れになったことをピートBに教えてやらなかった。 単に話すのがめんどくさかったからだ。 最初の渡独でその場しのぎに雇い入れただけで、 つるんで悪ふざけをする仲でもなく、 母親仕込みの金勘定や交渉術に免じて、 ずるずると関係をつづけたにすぎない。 いい奴だけどつきあいは悪いし、 この頃じゃすっかりやる気をなくして遅刻や病欠が重なっていた。 自発的か馘首かはさておき、 辞めるやつというのはそういうものなのだろうか。 Sにしても最後の頃は、 客がまばらな明け方にはベースをKに押しつけて代わりに弾かせ、 自分は婚約者の隣に座って客として僕らを眺めたりしていて、 僕らもそれをとやかくいわなかった。 思えば僕は固定メンバーでの活動というものをザ・B以外に経験しないまま人生を過ごしてしまった。 学生時代のお遊びはいろんなやつが常に出たり入ったりしていたし、 妻とやっていたバンドはそのときどきで都合のつく奴を集めた。 PやGとちがって僕は安定した人間関係を築くのが苦手で、 そのことをMにたびたび批判された。 そのくせあいつ自身にも似たようなところがあったから腹が立つ。
月末にはBEと秘書にフェリーに乗せられて、 マージー川向こうのバーケンヘッドにある仕立屋 (仕立てはイタリア風だが経営者はポーランド系ユダヤ人で、 やがてイスラエルへ移住することになる) へ連れて行かれた。 秘書は護送中の囚人でも見るような目で僕らを見ていた。 採寸のために靴を脱ぐと店員やほかの客が猛烈に顔をしかめてゲホゲホと噎せた。 偉そうな店員に言葉遣いを叱られつつ、 裾をもっと細くしろとしつこく要求してやって三度も測り直させ (ザ・フーの映画で描写された通り、 あの頃の若者はみんなそうだった)、 濃紺モヘア生地の細襟三つボタン上下を、 定価二八ギニーから五ギニーまけさせて、 ついでに丸襟白シャツ、 カフリンクス、 細い黒のネクタイ、 襟ピンなんかもひと揃い注文し、 その場で気前よく前金を支払った。 残りはマネージャに請求され、 あとから給料から天引きされるわけだ。 注文に凝りすぎて仕上がりはふた月後だといわれた。 店を出て振り返ると消臭スプレーが撒かれるのが窓越しに見えた。
帰宅すると伯母が台所仕事をしながらふんふん鼻唄をやっているところに出くわした。 かつて母がそんな真似をしていたらまぁはしたない、 なんて顔をしかめた彼女がだ。 スコットランド民謡を元にした旋律には確かに聴き憶えがあった。 のちに下宿人たちから聞きだした話によれば、 英国で売り出されたばかりの、 当時の僕らが一九九四年に映画になるまで当たることはなかったその珍しい音盤を、 彼女はだれよりも早く手に入れ、 あの子たちが音盤をつくったのよ! と誇らしげに聴かせてくれたという。 甥に気づかれたのに気づくと彼女は歌うのをやめ、 まるでそんなことなどなかったかのようにしれっといつもの説教をはじめた。 彼女を見つめる僕はきっと口をぽかんと開けていたはずだ。 表は悪天候だったけれど季節は確かに変わりはじめていた。
ハンブルクの用心棒HFと再会したのもこの頃だ。 ちょっと見ぬあいだにいっぱしの興行師になっていたかれは、 風俗店で成功した経営者と組んでひと儲けを企んでいた。 「スター座」 なる古い映画館を改装し、 大舞台と最新鋭の照明、 上等の客席つきの上階まで備えた豪華施設 「スター倶楽部」 として新規開店する。 僕らをその演し物の目玉にしようというのだ。 ちょうど二度目の渡独で公演した 「トップテン」 と契約寸前まで話が進んでいたのだけれど、 一千マルクの新札を握らされたBEがどちらを選んだかはいうまでもない。 その金は無言で瞬時にかれのポケットへ消え、 僕らは一銭たりとも目にしていない。 通訳としてHFについてきた歌手兼ピアニストはまだ 「トップテン」 に所属していて、 数日間の休みをとっての渡英だった。 業界の浮き沈みを目敏く読んだってわけだ。 演者も客も奪われた店は案の定、 閑古鳥が鳴いてすっかり落ち目、 十位圏内どころかランク外になる。
閑話休題。 人生に飽いた青年実業家が手つかずの鉱脈を発見し、 危険に踏み入るスリルとない交ぜの昂奮を味わった、 さらにそのひと月ほど前。 かれの店に並ぶ地元音楽誌にはザ・Bにまつわる暗い噂の真偽を尋ねる手紙が掲載されていた。 やがて僕らの活動末期には、 横断歩道を裸足で渡るPは替え玉だとか僕がかれを葬ったとか (クラン・ベリー・ソーォォオスと歌っただけなのに!) とかいったばかげた噂が広まることになるけれど、 これはその最初期の例で、 不吉さにおいては当たらずとも遠からずだった。 元ベーシストは疑われたような交通事故死こそしていなかったものの、 耐えがたい頭痛のため塞ぎ込んで神経過敏になり、 勉学に支障が出はじめていた。 最初のうちAと母親は、 それまでの分を取り返そうとするかのように画業に打ち込む様子から、 疲れや睡眠不足のせいと見なし、 根を詰めすぎよなんて笑っていたが、 脱退の翌月にはさすがにおかしいということになり、 検査を受けさせたところ胃炎、 盲腸の痛み、 肺の影、 線の腫れが認められた。 Aの母親が支払う治療費がかさむのに気兼ねしたSは、 国民健康保険を使うつもりでAに付き添われて帰省した。 ところがセフトン総合病院の担当外科医にどこも悪くない、 気の病ですなと決めつけられた挙げ句、 母親にまであたかも婚約者のせいであるかのように当てこすられて、 早々にとんぼ返りするはめになった。 おかげで僕はこのときかれに逢っていない。
連載目次
- Born on a Different Cloud(1)
- Born on a Different Cloud(2)
- Born on a Different Cloud(3)
- Get Off Of My Cloud(1)
- Get Off Of My Cloud(2)
- Get Off Of My Cloud(3)
- Obscured By Clouds(1)
- Obscured By Clouds(2)
- Obscured By Clouds(3)
- Cloudburst(1)
- Cloudburst(2)
- Cloudburst(3)
- Over the Rainbow(1)
- Over the Rainbow(2)
- Over the Rainbow(3)
- Devil’s Haircut(1)
- Devil’s Haircut(2)
- Devil’s Haircut(3)
- Peppermint Twist(1)
- Peppermint Twist(2)
- Peppermint Twist(3)
- Peppermint Twist(4)
- Baby’s in Black(1)
- Baby’s in Black(2)
- Baby’s in Black(3)
- Baby’s in Black(4)
- Hello, Goodbye(1)
- Hello, Goodbye(2)
- Hello, Goodbye(3)
- Hello, Goodbye(4)
- Hellhound on My Trail(1)
- Hellhound on My Trail(2)
- Hellhound on My Trail(3)
- Hellhound on My Trail(4)
- Nobody Told Me(1)
- Nobody Told Me(2)
- Nobody Told Me(3)
- Nobody Told Me(4)
- Paperback Writer(1)
- Paperback Writer(2)
- Paperback Writer(3)
- Paperback Writer(4)
- Anywhere I Lay My Head(1)
- Anywhere I Lay My Head(2)
- Anywhere I Lay My Head(3)
- Anywhere I Lay My Head(4)
- Anywhere I Lay My Head(5)
- Crippled Inside(1)
- Crippled Inside(2)
- Crippled Inside(3)
- Crippled Inside(4)
- Crippled Inside(5)
- Mother’s Little Helper(1)
- Mother’s Little Helper(2)
- Mother’s Little Helper(3)
- Mother’s Little Helper(4)
