八月一五日水曜は 「洞窟」 で日に二回公演があった。 日本では想像力の欠如と忘れっぽさの記念日だとMは話していた。 その証拠にそれがどうして大切な日なのか想像するのをだれもが忘れてしまったという。 夜公演のあと僕らは翌日に予定されたチェスター公演について打ち合わせた。 何も報されていないピートBは、 いつもの時間にNと迎えに行くよと僕に告げた。 PとGが僕を見た。 いや彼女と用事があるから自力で行くと僕は断った。 ドラムを片づけながらNは眉をひそめて妙な顔つきをしたがピートBは何も尋ねなかった。 僕が近々挙式予定なのを知っていたので疑問に思わなかったようだ。 当日の昼前にBEの事務所へ呼ばれた理由も、 自分が電話で取りつけた二、 三の契約について話すのだとかれは思い込んでいた。 モナBお気に入りの男子と長男が落書きだらけのヴァンで去ったあとも、 PとGは僕の顔をじっと見つめていた。 なんだよと僕は狼狽した。 土曜にはRが戻ってくるんだろう、 まだ話してないのかとPが咎めた。 いつ話すんだいとGが無邪気にいった。 うっせえな、 タイミングを見計らってんだよと僕は弱々しく答えた。 Mはニヤニヤしながら僕らを眺めていた。 その間抜け面に僕はイラッとした。
翌日ピートBが事務所に赴くとなぜかMもいて、 窓枠にもたれて横目で外を眺めながら小瓶のコークを飲んでいた。 戸惑いながらもピートBはようと声をかけたがMは無視した。 ピートBは薦められた椅子に座ってとりとめのない世間話をBEと交わした。 顔を紅潮させた青年実業家はいつまでも本題に入ろうとしなかった。 まるでそこに部外者の日本人などいないかのようにふるまうのも妙だった。 僕が代わりに話そうかとMがいきなり口をひらいた。 そしてピートBにニッコリ笑いかけた。 おめでとう、 きみは今日からマージービーツのリーダーだよ! ピートBは口をぽかんと開けた。 なんだって? 聞こえなかったかい、 きみはザ・Bを脱退して新グループにリーダーとして加入するんだ、 もちろんBEが面倒を見てくれるから成功は約束されたようなもんさ、 ねっBE? Mはいつもの軽い調子で部屋の主に同意を求めた。 BEはああとかううとか曖昧に唸ったのち、 そうだとついに認めた。 それからBEは茫然として何も耳に入らぬ元ドラマーに、 Rが加わる土曜日まで残りの公演で叩いてくれないかと丁寧に頼んだ。 元ドラマーはああとかううとか曖昧に肯いて、 心ここにあらずといった態でふらふらと出て行き、 だれかと鉢合わせしそうになった。 ピートBと抱き合わせで売られるはずだったメンバー二名だ。 何の契約で呼び出されたのかこいつらも知らなかった。 あとにしてくれといってBEはふたりを追い払い、 頭を抱えて深い溜息をついた。 Mはおもしろがるようにその様子を眺めながらコークを干した。
表で待っていたNをピートBは手近なパブへ連れ込んだ。 これが飲まずにいられるか。 僕らの元ドラマーはいかなる悪辣な仕打ちを受けたか親友に切々と語り、 自棄酒を呷った。 のちにかれが自ら広めた伝説によれば、 一緒に辞めると主張して憤る親友を、 これはおれひとりの問題だ、 あんたは残ってこれまで通り働くんだと男らしく諫めたことになっている。 気の毒だがこの話はN自身が容赦なく否定している。 実際には元ドラマーは時間を気にする付き人を引き留めて夜までずるずると飲みたがり、 仕事があるからと断られたのだそうだ。 でもたったいまおれは馘になったんだぞ! とピートBは情けない声をあげ、 あんたはね、 おれはそうじゃないとNは応えた。 会計士の道を諦めて転職し、 決して認知はしなかったものの父親にまでなった男は肚が据わっていた。 いまさら後戻りはできなかった。 僕らの商売は弾みをつけて転がり出していたのだ。
若き愛人に電話で顛末を報告されたモナBは怒り狂い、 BEと僕らを訴えると息巻いたけれども、 ひと月前に生んだばかりの乳飲み子を抱えていてはどうにもならなかった。 通話の最中もその子は全力で泣き叫んでいた。 その赤ん坊に彼女は悪党と名づけて役場の戸籍係にわざわざ綴りを念押しまでしている。 まるで災いの元だとでもいわんばかりだ。 赤子やその父親やザ・Bといった世の男性なるものに彼女がいかなる思いを抱いていたかわからない。 夫の不在中にできた子どもに純粋な愛や祝福からそのような名前をつけるだろうか。 わが子と同年代の若い男の子に対する特殊な嗜好がすべての発端だとの自覚はあったのかとも思うし、 逆に若きNの性欲を差し置いて彼女の責だけを問うのも公平ではなかろうとも思う。 悪党君の人生には気の毒だけれど、 いずれにせよ僕には知ったこっちゃない。 若い彼女の写真を見た次男がどこかちょっと母さんに似ているねとのたまったことがある。 よせよとんでもないと僕は憤慨したけれど、 いいたいことはわからぬでもない。 彼女の好みがちょっとでも違っていたら僕だって餌食にされていたかもしれないのだ。 ペパー軍曹のジャケット撮影のとき、 彼女の父親がインドでの軍功で授与された勲章を借りたことがある。 まだ僕らを恨んでいたはずなのに彼女は快く貸してくれた。 僕はLの花文字のところにあるトロフィを添えて返却した。
ピートBは約束させられた残りの仕事を無断欠勤した。 だれも最初から期待はしていなかった。 打ち合わせ通りの時間にヴァンを運転してリバーパーク舞踏会館へ現れたNに、 僕らはおずおずと口々に尋ねた。 なぁあいつどんな感じだった? 知るかよと僕より先に父親になった男は平然と返した。 おまえらこそどう思ってるんだ? そして何事もなかったかのように機材の搬入をはじめた。 僕らはかれの態度に感服したのと後ろめたかったのとで、 BEを通じて支払う週八ポンドの賃金を十ポンドに上げてやることにした。 お客のみんなになんて説明すりゃいいんだよ、 と弱り切った 「お父っつぁん」 に楽屋で問われた。 代わりに叩いてくれた別グループのドラマーにはあからさまに蔑みの目で見られ辛辣に当てこすられた。 僕らはどちらにも返す言葉もなく俯くしかなかった。 仕事が終わるとNは僕らの機材を積んで帰り、 モナB宅のいつもの場所に駐車した。 そして乳飲み子の泣き叫ぶ戦場へ帰還した。
仲が悪いんだかいいんだかわからぬふたりが互いの誕生日を祝い合った二ヶ月後、 何の権限もないMが僕らに成り代わってピートBへ馘首を告げた三日後。 バーケンヘッドのポートサンライトという、 花が咲き乱れる小さな美しい村にあるボルトン通りのヒューム講堂で、 地元園芸協会の一七周年を記念するダンス大会があった。 その仕事でRは公式にザ・Bに加わった。 僕が命じたとおりかれは自慢のあごひげを剃り落として頭を平らに撫でつけていた。 もみあげはそのままだった。 Rは僕らの付き人とほぼ面識がなかったものの、 前任者の親友であることは知っていて、 喧嘩を売られるのではとピリついていた。 件の前任者は自分で楽器の調整をしていた。 そのためNはやり方を教わっておらず、 Rにも調整を任せることにした。 これがRを傷つけた。 ギターとベースは面倒を見てもらっているのに新入りのおれだけ放置かよ! いいですよーだ、 いわれなくても自分でやるさ、 おれの調整のやり方なんて教えてやるもんか……。 幼少期の大半を病床で過ごし小学校にすら碌に通えなかった (おかげで単語もまともに綴れない) かれは、 陽気な楽天家を演ずることを学ぶまで、 人見知りする癖で損をすることが多かった。 ひとたび知り合って打ち解けてしまえばあんなにいいやつはいないのに。 所帯を持ってはじめて夕食に招いたときもRはこの性格を発動し、 かれが荒っぽい地区で育ったことを僕から聞かされていたCは、 おかげでまたしても 「川向こうのお嬢さん」 扱いかと恨めしく思ったらしい。 腕前と人柄に惚れ込んでRを仲間に引き入れたあのGでさえ、 最初は若白髪をメッシュと勘違いし、 鼻持ちならぬ気取り屋だと決めつけたくらいだ。
花と堆肥のにおいの漂うのどかな村でのダンス大会はつつがなく終えたけれど、 問題はホームたる 「洞窟」 で翌日の夜に行われるお披露目公演だった。 Rが元いたグループはハンブルクでこそ人気だったがリヴァプールでは知られていなかった。 当然だれだよこいつということになる。 窮屈な楽屋で肩を寄せ合っている時点から、 客の不平がましい足踏みが響いてきた。 僕らが舞台に上がるなり声を合わせてかれらは叫んだ。 ピートは永遠、 Rは絶縁! 野次は演奏をはじめてからもつづいた。 だれひとり新入りのRに同情していない。 Rは不憫にも精いっぱい強面を装っていた。 さすがの僕もいつもの無頼を気どる度胸はない。 Pは両手を挙げて謝るようなしぐさをしつつ外交的にふるまおうとしていた。 それでもこの日は騒ぎが収まらなかった。 店を出るとき僕らは怒り狂った女の子たちに揉みくちゃにされた。 汗と体臭がむっと押し寄せて吐きそうだった。 Gは何か皮肉めいたことを口走ったらしく、 次に逢ったときには目に痣をこしらえていた。 BEは愛車のゾディアックにペンキ除去剤をぶちまけられる被害に遭った。 かれは 「洞窟」 の経営者からドアマンを身辺警備につけることを勧められ、 しばらくは従わざるを得なかった。
連載目次
- Born on a Different Cloud(1)
- Born on a Different Cloud(2)
- Born on a Different Cloud(3)
- Get Off Of My Cloud(1)
- Get Off Of My Cloud(2)
- Get Off Of My Cloud(3)
- Obscured By Clouds(1)
- Obscured By Clouds(2)
- Obscured By Clouds(3)
- Cloudburst(1)
- Cloudburst(2)
- Cloudburst(3)
- Over the Rainbow(1)
- Over the Rainbow(2)
- Over the Rainbow(3)
- Devil’s Haircut(1)
- Devil’s Haircut(2)
- Devil’s Haircut(3)
- Peppermint Twist(1)
- Peppermint Twist(2)
- Peppermint Twist(3)
- Peppermint Twist(4)
- Baby’s in Black(1)
- Baby’s in Black(2)
- Baby’s in Black(3)
- Baby’s in Black(4)
- Hello, Goodbye(1)
- Hello, Goodbye(2)
- Hello, Goodbye(3)
- Hello, Goodbye(4)
- Hellhound on My Trail(1)
- Hellhound on My Trail(2)
- Hellhound on My Trail(3)
- Hellhound on My Trail(4)
- Nobody Told Me(1)
- Nobody Told Me(2)
- Nobody Told Me(3)
- Nobody Told Me(4)
- Paperback Writer(1)
- Paperback Writer(2)
- Paperback Writer(3)
- Paperback Writer(4)
- Anywhere I Lay My Head(1)
- Anywhere I Lay My Head(2)
- Anywhere I Lay My Head(3)
- Anywhere I Lay My Head(4)
- Anywhere I Lay My Head(5)
- Crippled Inside(1)
- Crippled Inside(2)
- Crippled Inside(3)
- Crippled Inside(4)
- Crippled Inside(5)
- Mother’s Little Helper(1)
- Mother’s Little Helper(2)
- Mother’s Little Helper(3)
- Mother’s Little Helper(4)

@ezdog 八月十五日のくだりで思わずニヤリとした。ほんとにそう。
今回も肝心なところでMがビシッと決めてくれた。こういうことは部外者だからこそ言えるんじゃないだろうか。
Bの歴史を全然知らない自分は、あのRがそんな目にあっていたなんて……とビックリした。
@ezdog Rのスネ方がちょっと可愛い。