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連載第22回: Peppermint Twist(4)

アバター画像杜 昌彦, 2025年2月26日
Fediverse Reactions

その日の朝アイムスビュッテラー通りの屋敷で慌ただしく身支度をしたAは寝たきりのSに屈み込んで行ってくるわと接吻したSは痩せこけた顔に弱々しい笑みを浮かべ行ってらっしゃい気をつけてと見送った婚約者が出ていくのを待ってかれは笑みをつくるのをやめ目を閉じて壁へ顔を向けたその日も恩師の写真館は忙しくSの容態を思う余裕はなかったまだ若い彼女は自分のキャリアと画家の卵との幸福な未来を当然のように疑わなかった子どもが生まれ喧嘩したりともに悩んだりしながら育て上げいずれ大成した芸術家夫婦として孫に囲まれる未来を信じていた——午すぎに電話で呼び出されるまでは半狂乱の母親の言葉は聞きとれなかった何? Sがどうしたの? 何をいっているの……? Aは恩師に事情を説明して車に飛び乗った心が麻痺したようだったこれまでにもこんなことはあったいつだって取り越し苦労で翌日にはケロリとしてたと自分にいい聞かせた部屋に駆け込むとSは白目を剥き胃液にまみれて痙攣しており呼びかけに応じなかった救急車が近づくのを聞きながらAは婚約者の手を握りしめて名を呼びつづけたぜいぜいと喘ぐSはようやくAの視線を捉え息も絶え絶えに呟いた——ごめん確かにそういってまた意識を失ったサイレンが階下で鳴り響き数人の看護師が駆け上がってきてAを無遠慮に押しのけSを担架に載せた
 病院へ向かう車中で担架の隣に座り手を握りしめる婚約者をSは認識していないようだった喘ぎが徐々に弱まって聞こえなくなり険しかった眉間の皺がふっと緩んだ病院の搬送口に救急車が横づけされるとAは担架が運び出されるのを待たずに飛び出し聴診器を下げた白衣の医師にすがりついて助けを求めた彼女に腕を引かれてつんのめるように救急車へ向かった医師はSを見下ろすなり顔をこわばらせたそして弁解がましく脈を取りお気の毒ですがと首を振ったAは何を告げられたか理解できなかった看護師たちが担架を病院へ運び入れた職員はみんな忙しそうでAの懇願はだれの耳にも届かなかったSの手はまだ温かかった今朝だって行ってきます行ってらっしゃいの挨拶を交わしたごめんって何が? 何を謝ったの? 真意を確かめなきゃきっとSは何か勘違いしているのよ……搬入口に茫然と立ち尽くす彼女に白衣の事務員が話しかけた書類を作成しなければいけないのでおいで願えますかさぁそちらへ座って亡くなった方とあなたのお名前を教えてください保険はどうなっていますかなんですってS? ああ亡くなった方ねはいはいもうご遺体はこの病院にはありませんよ搬送中の死亡は法的には路上死なんで解剖が義務づけられてるんですそれであなたのお名前は? ペンを構えて辛抱強く待つ事務員の前でAは言葉を喪った自分の名前が思いだせない
 駆けつけた従兄弟に手続を肩代わりしてもらわなければ病院の椅子で日が暮れるまで茫然としていたろうどのようにして家へ帰り着いたかAは記憶になかったお帰りなさいをいってくれるはずの婚約者の部屋には反吐で汚れた寝台と描きかけの作品を掲げた画架があるきりだった思い描いていた幸福な未来を奪われたのはAだけではなかった母親もまたあたかも居間に暗い渦が現れてそれを見つめてでもいるかのような目でソファに座ったきりだったKはふたりにかける言葉もなく場違いな闖入者になったように感じさせられたSの実家には電話がなかった電報を打って戻ったKは屋敷の女主が白い棺桶のことを呟くのを聞いたすぐにあの葬儀屋へ注文しなければどんなに高くても構わないあの子の願いを叶えてあげるのよ……そればかり狂ったようにくり返す彼女をAの従兄弟が宥めて落ち着かせようとしていたKはこの従兄弟と役場へ赴いて遺体を故郷へ返す手続をするのだが蓋を溶接した鉛の棺でなければ移送が認められないと告げられAの母親を説得するのに手を焼くことになる
 深夜に電話が鳴った雑音の混じる遠い音に言葉にならぬ啜り泣きだけが聞こえた受話器を握るKは責められたかに感じた自分だって親友を喪ったのだといいたかった受話器が落ちるような物音がして泣き声が遠ざかりSの妹が母親が飛行機でハンブルクへ来ること遺体を地元へ運んで葬儀を行うことをKに告げたリヴァプール訛りが兄に似ていたかれは別の状況で知り合えたならSの話題で笑い合えたかもしれない相手に遺体が解剖され法医学局に安置されていることを説明しなければならなかった教科書で学んだ英語はそうしたことに不向きだった不的確な単語を補う単語の数々どうにか伝わった悲鳴が上がり受話器がひったくられたどうして無断で息子を切り刻んだのほんとうは何があったのと回線の向こうの女は叫んだ彼女はのちに法医学局の霊安室で遺体と対面したときにもこの疑問をくり返した葬儀は四月一リヴァプール近郊のハイトンにあるかつてSが少年聖歌隊にいたこともある聖ゲイブリエル教会の支聖堂で執り行われたそのために渡英した長男の婚約者に対してこの母親は面と向かって公然と人殺しと責めなじることになる息子をかつての敵国へ連行して殺したザ・Bを彼女は恨んだとりわけいじめ加害者と目されたPはSの妹たちにまで憎まれたしかし僕らはまだしも英国人であり同郷の人間だったAはそうではなかったSの言葉は正しい戦争は終わらない爆弾や銃弾が切り裂くのは人間の肉や建物ばかりではない土地にひとびとの心にずっと残り続ける
 一睡もできずに夜が明けKとAはSの母親を空港へ迎えに行った何もかも順序が狂っていたまずSの入院を報せるAの従兄弟からの電報は弔電のあとに届いた海軍勤務の父親は二日前に南米へ向けて出航したばかりで連絡がとれず三週間後にブエノスアイレスで牧師から長男の死を告げられることになるボウリング場でSの死を予感した元マネージャはその的中をAに電話で報され妻と話し合ってせめて息子を喪った母親とAとのあいだを取り持ってやろうと決めた玄関先でお悔やみを伝えるとSの母親は膝から力を失い倒れそうになった慌てて支えてやったところで呼び鈴が鳴った電信局員が電報を届けに来たのだった元マネージャはザ・Bのハンブルク公演へ発つ後任者に電話して交通費は負担するから彼女を連れて行ってやってくれと頼んだ着任早々こんな重責を負うことになるとは思ってもみなかったがBEに断る理由はなかった青年実業家は病み上がりのGを車で迎えに行った同行者に怪訝な顔をしたGは理由を教わって泣き崩れたそのようにしてかれは元ベーシストの死を最初に知ったBとなったマンチェスター空港までの車中Gは幼い子どものように泣きじゃくった憎い不良仲間の一員とはいえこのときばかりは息子の若い友人の慟哭がSの母親の正気をかろうじて保たせたBEは自分たちの到着時間に空港へ来るよう残りのBに電報を打ったSの母親も一緒だと伝えたがその理由までは書かなかったよもや僕らが訃報を知らぬとはかれには思いもよらなかった
 いっぽう僕らは尾羽を備えた流線型の大型車の座席で脚つきグラスを手にして幸福の絶頂クラウドナインにいた雇用主たる風俗王がその勢力を見せつけるためかわざわざシボレーインパラを出してくれたのだ革と樫材の車内には最新オーディオやカクテルバーを完備もちろん運転手付きだそんなの映画でしか見たことない昂奮の余韻が醒めやらぬなかぺちゃくちゃお喋りをしながらGとマネージャのふたりを空港で待っていると思いがけない旧友たちの姿を見つけたおおと僕らは懐かしさに胸を満たされて大きく手を振った近づくふたりの暗い顔や僕らの足許に幽霊でも見たかのようにぎょっとしたことなどが僕の近眼にはわからなかった豪勢な気分を引きずる僕は陽気に尋ねたSは? 死んだよとKは不機嫌に答えた虚を突かれた僕はおいふざけんなと吼えてかれの襟首を掴んだ顔を背けた友人の目に涙を認め冗談ではないのを悟って振り上げた拳を寸前で下ろしたそしてその場の空気にやっと気づいた俯くAにPが近づきそっと腕をまわして慰めたピートBは無言で茫然と涙を流している
 伝説ではここで僕は急に笑いだしたことになっているAとKもそう思い込んだようでかれらのインタヴューではいつもそう説明されているそう単純じゃないと後年に弁護してくれたのはPくらいだMはあの場にいなかった肝心なときはいつだってそうだ)。 畜生笑ったりするもんか分身みたいに思っていた一番の親友が死んだんだぞ自分の感情をどうしていいかわからなかったただそれだけだKは僕らの親友が大量の脳出血であっという間だったこと原因はわからないが脳が頭蓋骨を歪めるほど膨張し圧迫された血管が破れたらしいこと遺体は法医学局の霊安室にあることなどを淡々と語った僕はベンチに力なく座って背中を丸め洩れ出る声をこらえながら勝手に慄えてじっとしていられぬ体を前後に揺するしかなかった正常な呼吸でなかったのは認める息の仕方さえわからなくなっていた脳裏には数々の思い出が渦巻いていたろくでなしの父突然たおれた伯父そしてついに大親友までも……
 Pは自分こそ僕とともにザ・Bをはじめた張本人だと思っている悪いが誤りだバディ・ホリーに倣って駄洒落のグループ名を思いついたのはSでフランス風に気どった語尾を修正したのが僕だ世界を変えた僕らのグループは故郷リヴァプールのあいつの部屋で僕らふたりだけの与太話からはじまったのだずいぶん未練があったみたいで売り込みの手紙をあいつはフランス風のほうで書き送っていたし自分の芸名まで似たような感じにしたことさえあったそんなのだせぇよといってやったときの不満げな顔一緒に悪事をはたらいたときのくしゃっと笑うそばかす顔本気で殴り合ったときの互いの頬と拳の熱い感触互いの女について照れながら打ち明けた夜……僕がくだらん冗談を書き送ると倍の分量の美しい詩が返ってきたものだ正反対なのにそっくりだった僕がボケであいつが突っ込み担当落ち着きなく飛びまわる僕をいさめる係があいつあいつが優等生の高尚な抽象画家なら僕は下種な不良のロックンローラー海の向こうに別れてからもそれぞれの世界で成功して両輪のようにやっていくはずだったのだ
 Sは僕のいかりだった一九六二年四月にそれを喪ったそして僕は五年後にもさらにその後二度までもおなじ過ちをくり返すことになる


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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“Peppermint Twist(4)” への1件のコメント

  1. ::: より:

    泣いた……って書くとネタバレになるからXでは書きたくなかった。新しい読者に先入観を持たずに読んでほしかった。ぐしゃぐしゃに泣きそうになって、仕事終わったばかりでまだ外にいたので我慢した。家に帰ってから泣く。Sのいた暗い部屋やからっぽの寝床がみえるようだ。JとSの過ごした時間の煌めきも。
    杜さんはJの気持ちをすごく理解している。Jがどんなに友の死を悲しんだか。どれほど大切な存在だったか。
    この章だけじゃなくここまで読んで、今Jが生きていたらきっとこんなふうでいただろうな、こんなふうに考えただろうな、と感じる。子どもや孫に不器用で、自分の若かりし頃の価値観の誤りを認めていて、戦争の経験なんて自分の大切な人達に経験してほしくないと願って。
    うまくまとまらないけど、私は今すごいものを読ませて頂いている。
    『Cloud9』“Peppermint Twist(4)”|人格OverDrive
    https://ezdog.press/peppermint-twist-4.html