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連載第27回: Hello, Goodbye(1)

アバター画像杜 昌彦, 2025年4月4日
Fediverse Reactions

実のところ件のネクタイは黒地に赤い馬の洒落た柄だったリヴァティ百貨店で手に入れたちょっといい品だったとかでGMが気に入っているらしいのは初対面の僕らにも察せられただからこそGはのネタにしたのだ親しくもない相手に土足で踏み込むリヴァプール仕込みの冗談はここロンドンでは冒険で現にGMはムッとして調整室に気まずい空気が流れた僕とPはやべえしくじったと蒼ざめた永遠にも思われる一瞬ののち反応を期待して得意げに眉を蠢かすGにGMが思わず噴きだし技師たちも釣られて笑ったいけると僕ら三人は確信し互いに目配せしたピートBだけは何が起きているか理解しなかったわかったところでかれにできることはなかったろうそこからの一五分間僕らは全力で機関銃のように冗談をまくしたてつづけた調整室は大爆笑の渦となったリヴァプール人の本気を舐めちゃいけないEMIの連中はみんな腹を抱え膝をばしばし叩き涙を流して呼吸困難に陥った盛り上がる調整室でピートBだけが蚊帳の外隅でむっつり不機嫌そうに黙り込んでいたこの時点のザ・Bは音楽的にはとりわけ録音技術にはまったく未熟だったと認めざるを得ないけれどもひとを笑顔にすることにかけてはだれにも負けなかった控えめにいって僕ら三人はEMIの連中を魅了したGMは田舎の坊やたちの冗談を気に入り僕らのほうでも都会の正しい教師に巡り会ったと直感した
 三日後の六月日に洞窟で行われた凱旋公演は盛大に盛り上がった楽屋に遊びに来たMにはロックの日だねおめでとうと祝われたが意味がわからなかった翌々日にはマンチェスターのプレイハウス劇場で飛び出せ十代なるBBCの収録があった三曲のうち最初に演った理由を訊いてがはじめて電波に乗った僕らの自作曲ということになるBEが貸し切りバスで連れてきたファンクラブ会員と抽選で招かれた残り五分の四の前で僕らは交互にヴォーカルとコーラスを務めた温かい歓声に包まれた僕ら三人は控えめにいって最高だっただれもがそれを認めていた問題は残るひとりださぼりがちなそいつの代役をRに務めてもらうたびに僕らの気持ちは固まったもし仮にBEが違法な人間に生まれついておらずまったく合法な僕の恋愛結婚すら隠し通そうとするほど過剰にスキャンダルを畏れていなかったとしてもやはりおなじ決断を下していたろうその決断を実行に移す勇気があったかはまた別の話だけれど
 とりわけGなんかは免許を取ってはじめての納車の日に行きはRのゾディアックで売主のもとまで連れて行ってもらい帰りは念願の青いアングリア一〇五Eデラックスでもってかれとアクション映画さながらの競争を楽しんで牧歌的な時代だから無事だったものの現代なら炎上ものだ——SNSも車も意気投合かれの人柄にすっかり惚れ込んでしまい僕とPにドラマーのすげ替えをしきりに説くようになったRはチューニングがいつもびしっと決まっていて難しい技を少ない手数でさらっとこなす曲によって叩き方を変えて劇的な表現をするし何より僕らを邪魔せず最大限に活かすように叩いてくれる……云々ちょっとは反論してくれるかとPを窺うと弟分のいうことを素直に認めたくはないものの同感であるのは顔に出ていたタムへの行き方がいいよなと自分が口走るのを僕は聞いたすると待ちかねたとばかりPもひげのドラマーを言葉を尽くして絶賛するいよいよ逃れようがなくなったピートBの名誉のために断っておくとKなんかはあいつのドラムがきらいじゃなかったようだしあれだけつたないSについてGは何もいわなかったので単に僕に気兼ねしただけかもしれないけれど)、 こればかりは腕というより相性というしかないNの評価は親友同士だから当てにならないしMに至ってはピートBのことを最初から正式メンバーが見つかるまでの助っ人くらいに思っていた節がある……まぁ合ってるんだけどたまにピートBがヴォーカルをとるときMはやんやの喝采を送っていてけっして仲が悪いようにも見えなかったのにそういう意味ではあいつも僕に負けず薄情で残酷なところがあったついでにいえば仲がいいのか悪いのかという点ではMとPの関係もよくわからない普段は犬猿の仲のように見えるのに偶然おなじ日に生まれたというのでこの年はふたりで飲みに行って互いに祝い合ったりもしていたようだかと思えば翌日Pが差し入れの誕生日ケーキを見せびらかしていたらMがそのクリームを電光石火の素早さで指ですくって舐めたのであの狭い楽屋でつかみ合いの喧嘩に発展したりした
 創設者いいだしっぺの残った片割れでありポップのトップがどうとかいうご託で仲間をここまで率いてきた張本人として僕には引導を渡す責任があった夏のあいだ悶々と考えつづけた人前では如才なく立ちまわりキュートな笑顔で対立を解消するPも内輪では身勝手さを隠さなかったしザ・Bの末期には臆さず自己主張するようになるGだってこの頃はまだ意見はあるけどあんたの決断に従うよといった態度だったふたりは冗談が僕らを救ったあの晩のことを幾度となく蒸し返した演奏ばかりか会話でさえ調子を合わせられない若干一名のおかげでザ・Bの命運は危機に晒されたのだ学生時代のお遊びではわざわざ話をつけなくてもやる気のない奴はすぐに辞めたSのときはPが辞めさせたがっていて僕が踏ん切りをつけられずにいるうちに向こうから辞めてくれたそして死んだ)。 ピートBにやる気は感じられないまでも辞める気もないようで放置すれば解決する問題でもなさそうだったモナBへの義理は売れっ子となり全国デビューすら目前にしたいまとなっては無意味だしその店だって出産と育児でつづけられなくなり閉店した何よりドラマーの親でありながら僕らの付き人に手を出すなんてそのために未成年の僕らに近づいたのかと疑いたくなる仲間にそんな真似をされていながらいい顔をしてみせる義理などなかったもとよりMに指摘されるまでもなくピートBは出稼ぎに当たって急遽雇った繋ぎにすぎずそしていまずっと探していた正式なドラマーがついに見つかったというわけだPとGの不満は限界に近づき僕自身の天秤もどちらに傾いているか明白だったかといってあの猛烈な母親とその長男に恨まれたくなかったし渦中の当事者Nのことがそれ以上に気がかりだったあいつはピートBの親友なのだ自分の身に起きたことをどう思っていたのだろうだれもその話題に触れられなかった僕ら三人はかれを喪いたくなかった大切な付き人を喪わずにあの親子だけを切り棄てる難題を僕はPとGから迫られていた
 前にも書いたように僕とPの婚約者はこの頃隣同士の部屋で暮らしていた灰かぶり姫さながらに伯母にこき使われるのに辟易したCはついにメンディップスを飛び出して親戚の家へ転がり込んだその家は教育実習先の中学校まで二度もバスを乗り換えねばならなかったので彼女はリヴァプール新報エコー紙の不動産斡旋ページをくまなく探しどうにか家賃を払えそうな部屋を見つけた家賃は週二ポンド一〇シリング単管式電気ストーブと一口コンロ寝台と古びた椅子一脚虫の喰った絨毯を備えた汚い一室だ予約制の共同浴室はメーター箱に一シリングを入れて運に恵まれればくるぶしの高さまで熱い湯が溜まる若い女が親元を離れてひとり暮らしをするなんて当時は不道徳だと思われていた彼女の場合は親のほうが子のもとを離れて海外へ行っちまったんで仕方なかったものの心細さは変わらず茶色と緑の汚い内装の部屋で鬱々と暮らしていたが隣の部屋をゴミ屋敷にしていた窃視症の老女がいなくなったので心優しいCは引っ越したと考えたようだけれど僕は孤独死したと思っている)、 これ幸いとばかりPの婚約者をそこへ招きふたりで数日かけて掃除したり内装を明るい色に塗り替えたりして僕と一緒にモナBの店の内装を手伝った経験がここで活きたわけだ)、 ハンブルクにいる僕らの帰りを待ちながら買い物に出かけたり料理をしたりして共同生活を送ることになった帰国した僕らはもちろん婚約者たちの部屋に入り浸った好きなときにいつでもふらっと訪れて四人で愉快に過ごした
 離婚を後悔したことは一度もないしほかのだれも経験したことのない冒険の数々をYと手をつないでくぐり抜けてともに皺くちゃの老人となり車椅子の彼女と無言で見つめ合う幸運を噛み締めてもいるしかしそれはそれとしてあの頃のような若く無垢な時間を永遠に生きられたらよかったのに……と思うことも正直あるCとAがぺちゃくちゃお喋りする傍らでSと砂の城を築いた思い出なんかもそうだMに懐かしむべき過去がなかったことを思えば記憶でしか過去へ遡れない僕らはむしろ恵まれていたあの時代において最大の敵は家主の中年女だった当時の僕らはわかっていなかったけれどあの女が事前通告なしにたびたびメーター箱の小銭回収や家賃の徴収に現れたのはきっとそれを口実として店子の様子を見に来ていたのだ当時の英国の下宿規約品行方正な住居に違反しないためだろうけれどそれだけではなく若い同性を案じてくれた面もあったのではないかそしてその懸念は見事的中することになる汗だくで愛し合っていると階段を上がってくる足音が聞こえたCはシーツにくるまって隣室へ逃げ込み僕は毛布や服や外套を手当たり次第にひっつかんで寝台に山をこさえてその下に潜り込んだ家主が小銭を回収して出て行くまで永遠とも思える時間がかかり危うく窒息するところだった脱ぎ散らしたウェスタンブーツに気づかれなかったのは奇跡でしかない
 Cとは毎日がそんな笑い話ばかりだった新発売の即席日焼け薬をワクワクしながら試したらふたりとも全身黄色のまだら模様になってしまったなんてこともあった世間では僕が彼女の優しさにつけ込んだことにされているしYとの恋に夢中になって彼女と長男を棄てて出て行ったときには僕自身そんな風にマスコミに喋ったこともあるでもあの頃の僕らのことは僕らにしかわからないCには僕の尊大で向こう見ずな自信が必要だったし伯母にやることなすこと頭ごなしに否定されてばかりだった僕には無償の愛で受け入れてくれるCが必要だったいまの後知恵で典型的なDVだとか共依存だとかいわれても物事にはさまざまな側面があるとしかいいようがない


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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“Hello, Goodbye(1)” への2件のフィードバック

  1. ::: より:

    @ezdog バンドのピンチが去って、しかしついに難しい問題をなんとかしなければならなくなる。難しい立場のJの悩ましさがよくわかる。そんな日々の傍ら、若き日のCとJがまぶしい。その時は確かに恋愛の真っ最中で、それはやっぱり振り返っても大事な時間だということ、誰にでもきっとあると思う。

  2. ::: より:

    @ezdog あとPとMの関係も面白い!ケンカのとことか、想像するとニヤニヤしてしまう!