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連載第36回: Nobody Told Me(2)

アバター画像杜 昌彦, 2025年6月6日
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僕は確かに虫のいい夢ばかり見て犯罪者の妻さながらの苦労をCにさせている現実から眼を背けていたでも波風立てるのを優柔不断に避けつづければどうなるかまるで理解しなかったわけじゃないそれにロンドンでの仕事が増えていちいち地元に帰るのが億劫になってもいた遅い新婚旅行を済ませた翌月くらいにCの母親が帰国することになったそれを知った伯母はある朝自室から降りてくるなりCに厭味をいったCの母親を玄関から一歩たりとも入らせまいと追い返す悪夢を見たというおっかないったらないねぇ考えてもみてごらんこのわたしがそんな夢を見るなんて! Cのような女を育てたまともな親とあの伯母とは初顔合わせから互いに声を荒げたほどの仲だった寛容で心優しいCも実母まで侮辱されてはさすがに我慢の限界だった彼女が息子を連れてホイレイクの実家に戻ることになったのを僕は電話で報された貸した一家が退去するまでのひと月は近所の屋敷の一室を借り僕が帰る月末までには実家に落ち着けるだろうとの話だった僕はへぇーそうまぁしょうがないねと他人事だったけれどCとその母親にしてみれば試練の一ヶ月だったほかの部屋の住人は気難しい老人ばかりでギャン泣きする息子を日中は乳母車に乗せて何時間も表を歩きまわり夜はあの手この手でどうにか静かにさせようと努めるしかなかったにわかに国中で熱狂される有名人となった夫は高級ホテルで鮭の燻製やらキャビアやらよりどりみどりの女やらをつまみ喰いしているというのに片や妻とその母親は週五ポンドの狭くみすぼらしい部屋で泣き止まぬ赤子の世話に疲労困憊やつれ果てているようやく実家に移ると息子は安堵したのかぱたりと泣き止んだ
 ホイレイクでは近隣住民のだれもが事情を知っていて余計な詮索をせずに護ろうとしてくれたけれどCが安心して乳母車を押して歩けたのはせいぜい数週間僕が公演に出ているあいだに噂を聞きつけた記者たちが近所を嗅ぎまわりはじめたハイエナのような作り笑いでにじり寄る輩に問い質されるたびに嘘をつくのが苦手なCは懸命にしらばくれた理不尽な境遇に耐えるのが夫の仕事のためだと心から信じていた執拗に尾行されて近くの店へ飛び込み親切に匿ってもらうこともしょっちゅうだったそんな生活はある日突然乳母車を押して家を出るなりあっさり終わった群がって待ち構えていた連中にフラッシュを焚かれ新聞の一面に写真が大きく掲載されたのだ僕ら夫婦はむしろ安堵したもう秘密でも何でもない世間に対してなんら後ろめたくないはずのことで二度と逃げ隠れしなくて済む……みずからの立場を投影したBEの不安はまったくの杞憂だった多くのファンはCを尊重し長男を神に祝福された特別な子であるかのように可愛がってごく一部の狂信的な輩から護ってくれた何より妻子の存在ごときでファンの情熱は損なわれなかったむしろ危険な魅力が増したと自負している僕の性的冒険の数々を知るMはそういうとこだよと批判がましく溜息をついた)。
 僕ら夫婦は音盤のジャケットを担当した写真家の口利きでクロムウェル通りを入ったところにある四階建てマンションのメゾネットになった最上階寝室が三つあるフラットを週一五ポンドで借りたすぐに致命的な欠陥に気づいた昇降機がなかったのだたまにしか帰れぬ僕としては浮世の喧騒を隔てるにはそのくらいがよかろう眺めもいいし……くらいの安直な考えだったけれどCにしてみればまず買い物袋と乳母車を置いて長男を抱えて狭くて暗い階段をのぼり踊り場で折り返してまたのぼりを三度くりかえし安全な場所にとりあえず赤子を寝かせてから放置したものを取りに戻らねばならぬことを意味した僕が放蕩のかぎりを尽くして肥え太る一方Cは運動選手なみに引き締まった下階の写真家夫婦とはこのマンションを出てからも家族ぐるみで一年ほど親しく付き合った僕はとりわけ妻のほうと親しく付き合ったおかげでほどなくかれらは離婚した
 Mのお薦め本を大量に読まされるようになったのもこの頃だ読み終えるたびに感想を求められ次はこれと押しつけられる。 『ミス・ブランディッシの蘭もその一冊でそこから捏造したハドリーなる偽名の表札はわずか半月しか通用しなかったある朝Cが窓を開けると黒いアイラインをひいて髪を高く結い上げた十代の女の子たちが歩道に群がっていたその日を境に彼女らはずっと居座るようになり昼も夜もいつもそこにいるのが当然の風景になった帰宅するたびにわらわらと集まってきては声をかけてきたり触ったり署名や髪のひと房をねだったりする彼女らにMはいい顔をしなかった僕ら一家の安全を気にかけるなら追い払うべきだというのだでも僕にその発想はなかったそのマンションに住めるのも彼女らが音盤や切符に金を払ってくれたからだ家の近所だろうが公演で訪れた異国の街だろうがいつどこであろうと声をかけられたらどんなに疲れていても必ず足を止め愛想よく握手や会話や署名に応じるのを忘れなかったその場に居合わせるたびにMは説教がましい態度をしたうるさいなぁそんなの撃たれてから考えるよと僕は応じたMの葬儀で同窓会みたいに当時の仲間が集まったときだれもが懸命に僕を説得してこの習慣をやめさせようとしたしコロナ禍では別の意味で命の危険を感じたけれど僕は断固としてファンの前で立ち止まりつづけているおかげで僕の署名はほかの三人に較べて市場価値がとても低い
 Mのことを書いていて思いだした僕らの音楽以外何ひとつ信じちゃいないように見えたあいつが実は信心深いのではと思わされたのもこの頃だCが長男を乳母車に乗せて表へ出ると赤ちゃんをひと目見せてと少女たちが群がるのが常だったああなんて可愛い子なのちょっと触ってもいい抱っこしてもいい? Jが旦那様だなんて幸運ねどこの美容院に行ってるのお洋服はどこで買うの? Cは津波のように押し寄せる幼い少女たちに圧倒され叫びたくなるほど怯えながらも夢を壊してはならぬとの一心であくまで優雅で冷静沈着な理想の大人像を演じつづけたこの子たちがいつか憧れた大人になれたらそのためのお手本になれたらと祈りながら……そう彼女は本来僕とかかりあわなければ教師になっていたはずなのだその日はいつもより人数が多かった赦しを乞うかのように跪いて手をさしのべる少女たちの海をかき分けてじりじりと乳母車を押していたそのときCは通りの向こうから茫然と見つめる日本人に気づいた呼ばわっても声は届かず人垣に遮られて近づけなかったけれどMは確かに涙を流していたとCは僕に証言したそしてちょっと気味悪がっていた)。 あの日は天気が悪かったけれど雲間から光が射しちゃいなかったかいと冗談のつもりで尋ねると彼女はどうしてわかったのと驚いていた母親と幼子祝福を求めて群がる少女たちその光景にあいつが何を重ねたのか僕にはわかるような気がする生き延びるために戦場でやったことはあの男に深い傷を残したのだ
 ずっとのちにMが語ったところによれば未来世界を統治する人間の意思決定に影響を与えたり取って代わったりするための自動システムとやらはさまざまな企業が争って最後に残った寡占的なシステムなのだそうだそのAIにも複数の異なるヴァージョンがあり互いに上書き更新や強制終了をされまいと争っているという人類もまた同様にほかの類人猿を強姦したり根絶やしにしたりしてきた種族の末裔なのであってなるべく多くの他人を強制終了させたり自らの遺伝子で上書きしたりしたいという本能的な欲求をもっているだから他人を迂闊に信じるなとMは疑り深い割には騙されてばかりの僕にことあるごとに説教した特に大きく美しいやつには気をつけろ……と一九六四年の時点ではまだそこまでは話してくれなかったけれど偏執的なまでに僕の生命を案じるその態度には戦場での経験がかかわっているんだろうなという気はした親世代の男たちからおまえらのために闘ったんだぞと恩着せがましく説教されてもピンとこず反感と侮蔑の念しか湧かなかったけれどハンブルクで知り合いともに悪ふざけを重ねた同世代と当時は思っていたの言葉には耳を貸さぬまでも何かしら揺さぶられるものがあった
 大げさな警告を笑えなくなったのはあいつの宗教的体験から数日後だった家出少女たちが逮捕されずにどこまで法を犯せるか競い合うようになったのだ連中は寝袋とサーモス印の魔法瓶を持参して建物の玄関をだれかが出入りするまで一日粘り連れ立ってまんまと入り込んでは玄関ホールや階段に堂々と寝泊まりするようになったCは買い物に出るたびに横たわる人体を跨がねばならなくなったこの話を僕に聞かされたMは顔をしかめた——きっとかれが跨いだものはどれも生きていなかったのだろう)。 いくら心優しい彼女といえど便所を貸したことはないはずなので不法侵入者らが生理的欲求をどうしていたのか僕には想像もつかない家出少女たちは麻薬をやる僕とおなじ目つきで赤子の世話を手伝うことを口々に申し出たやっていることや身なりを見るにいくら寛大なCでも息子の命を預ける気にはならなかった不法侵入者らはどこでそのやり方を憶えたのか噛んでいたガムを鍵穴に押し込み鍵を挿せずに困惑する僕にガムのようにひっついて鼻声で署名をせがんださすがの僕も狩り場と自宅捌け口とお客さんは区別していた)。 やがて深夜に部屋の扉がしつこく叩かれるようになったそんなときにかぎって僕は公演に出ていて不在でCは耳を塞いで暗闇に横たわりながら今度こそ母子ともども殺されると確信した
 Cの忍耐がついに切れたのは近所の火事だったパトカーと消防車が通りすぎて炎が夜空を舐めわずか三百ヤード先のヒースロー空港行き長距離バスターミナルが松明のように燃えていたそのときも当然のように僕はいなかったCは長男を抱き締めて窓際に立ち朱に染まる夜空をなすすべもなく見つめた風向きのおかげで火の粉がこちらまで飛んでくる階下の写真家夫妻が心配して上がってきて火はここまで届かないよと慰めてくれたがCは安心できなかった幸い消防士の活躍のおかげで無事に鎮火したもののもうたくさんだと彼女は思ったその頃には通り向かいの学生宿舎のバルコニーから昼夜お構いなしに手を振られ名前を呼ばれてカーテンさえ開けられなくなっていたし渦がおまえたちを見ているぞなどと性別不明の声で脅すわけのわからぬ悪戯電話もつづいていた人の心を持ち合わせない僕も火事の話を電話で報されてさすがに同意したただ自宅へ出入りするためだけの絶え間ない闘いに僕自身ほとほとうんざりしていた屈強な運転手に力ずくで道を空けてもらっても連中は屍骸に群がる蠅ごとく次から次へと我先に突進してきて僕の帽子やマフラーや持ち物を追い剥ぎよろしく強奪しては戦利品を奪い合って僕の周囲で噛みつき引っ掻きの格闘をはじめる元はまともな親御さんに育てられたいい子たちだったろうに何かに取り憑かれたかのように完全に正気を喪っていた連中に入り込まれない安全で静かな場所が必要だ! とかなんとか僕はCに演説をぶった


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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“Nobody Told Me(2)” への1件のコメント

  1. ::: より:

    @ezdog 伯母の意地悪さったらもう! Cのことがバレて読んでいる私もホッとした……と思ったら、ファンの女子達が恐ろしすぎる……。あんまりなJにチクリと物申してくれるMにすっきりする。

    でもJがファンを大切にする姿勢は偉い。彼が本当にまだ生きていたら、きっと今もそうしていただろう。そんなふうに夢想させてくれる。

    そしてMの涙が印象深い。母子と女子達の群れから少し離れたところに佇むM、この光景が美しい聖画のように思える。