CLOUD 9

連載第5回: Get Off Of My Cloud(2)

アバター画像杜 昌彦, 2024年9月27日
Fediverse Reactions

一九六〇年秋の霧がかった夜のちに僕らのアルバムの装画を描き僕とYのベーシストにもなるKはひどく腹を立てていたとはいってもMの癇癪のような常軌を逸した怒りではない襟が高いロング丈のジッパーつきスウェード革ジャケットこれはやがてあの店でのかれの制服のようになるを着て湿った潮風に吹かれながら陰鬱に歩いていた写真家の見習いをしている恋人と烈しい口論をした直後だったAのことは愛していたし垢抜けない自分にファッション指南をしてくれたことにも感謝していたが従順な着せ替え人形のように扱われつづけるのには閉口した交際というよりも飼われている心地さえしないでもないたしかに戦争に行った親世代やスポーツを嗜む同世代と較べれば手脚が細く華奢で痩せていてグラフィックデザインなどという肉体労働とは正反対の職業に就いた自分が性的魅力を喚起しないのもむりはないし初デートの相手に同意なく純潔を奪われ獣じみた性欲に警戒するようになったAの心情も理解できる男らしさの発露としてユダヤ人やロマや障害者や同性愛者を皆殺しにしようとした親世代への反撥は自分にだってあるし服の共有は低収入の身の上にはありがたく思える彼女が望むなら前髪を下ろして切り揃えたゲイっぽい髪型も喜んで受け入れようだがどれだけ大人しく安全にふるまってみたところで所詮自分は性欲に突き動かされた若者なのだ恋人としてふるまうのであれば多少なりとも男として一個の人間として尊重してほしかった不満を訴えてもお嬢様育ちのAには馬耳東風不潔な暴君に対するがごとく断罪されるばかり考えてみればつきあう前の学生時代からそうだった作品のために枯葉を集めていたらほら変態がぼろを集めてやってきたなんて嗤われたりしたあの日の同級生らの嘲笑はいまも耳に残るあんな優しい女がどうしてそんなに冷酷になれるのか女とはみんなそうなのか経験に乏しいKにはわからなかった
 十代の夫婦が金のために中年男を殺そうとする映画を観たが憂さは晴れないそもそも面皰にきびとそばかすだらけの自分があんな美人とつきあえたのもゲイだと思われたからではとの疑いすらある現に彼女の雇用主でもある恩師はそう勘違いしていたしかれの事務所の男たちも期待を裏切られてがっかりしていた僕だって男なんだと心中で何度もつぶやき埠頭の近くを長いあいだ歩いた帰りは治安が悪いのでいつもは通らない歓楽街ザンクトパウリ地区のグロッセフライハイト通りを抜けて近道しようとしたレイパーバーンとの角で揚げ芋を買った爆撃の痕が残る建物毒々しいネオンサイン客待ちの売春婦酔って大きな身ぶりで叫ぶように話す水夫や港湾労働者小さい驢馬がくるくる廻る馬場の近くで客が店に入る際に昂奮した声が聞こえ肥った女が泥相撲をやっているのがかいま見えた店員に危うく引っ張り込まれそうになり必死に腕を振りほどいたそのとき荒々しい音楽が地下の小窓から突き上げてきたKは一瞬足を止めたが店の戸口にたむろする革ジャンの屈強な男たちハルプシュタルケとかシュレーガーとか呼ばれる連中に気づいて考えなおした厄介ごとに巻き込まれるのはまっぴらだ執拗につきまとうポン引きを無視して突き進んだグラフィックデザイン科の同級生たちのあれで男? がっかりねという聞こえよがしな陰口やAの冷ややかな拒絶が脳裏に蘇って歩みを止めたそんな自分を変えたいと思ったのではなかったか? すぐに引き返した強い訛りで猥談に興ずる男たちはKを一瞥もせずに通してくれた入場券を確認され手の甲に判が押された暗がりでつんのめった座るか出て行くかどっちかにしろと給仕に嗤われた
 湿った熱気に包まれた地下牢めいた店には五百人は収容できるフロア舞台が霞むほど充満する紫煙天井に吊られた投網やガラスの浮きや船のキャビンを模した円い窓二艘の木製救命艇を縦半分に切った椅子席やカウンターにひしめくがさつな客拳銃型の催涙ガスやメリケンサックや警棒で武装した白ジャケットの給仕元ナチの支配人それに敗戦国ドイツの若者Kが生まれてはじめて体験する正真正銘のロックンロールがあったそれまではお高くとまったジャズやナット・キング・コールせいぜいがプラターズまでしか聴いたことがなかったKが入店する直前に僕らと交代して舞台に上がったのはリンゴ・キッドならぬ指輪のリンゴ」 (当時はこういう西部劇風の芸名が流行っていたことRが当時在籍していた人気グループでぱっとしないながらも唯一ドラマーにだけはKも心を掴まれたことになっている僕ら若きロックンロールグループは当時英国港町の業者にとって低賃金と過酷な労働条件でいくらでも搾取できるお手軽な輸出品だった僕らは業者のお情けでエロ映画館のスクリーン裏にある便所の臭いのする狭い物置いや物置呼ばわりしたら物置に失礼と思えるような用具置き場で寝泊まりしていた窓は中庭を見下ろすやけに高い位置に小さなのがひとつあるきり鰯の油漬けのほうがまだしも快適と思える暮らしでいちばんましな簡易寝台はもちろん僕が占有していた二階の老婆が騒音に苦情を申し立てくれたおかげで追い出された前の店に較べたらその職場は僕らにとっちゃ大出世だったのだけれどKにしてみればいつ命をとられてもおかしくない物騒な場所に見えたはずでかれはマッチョな水夫や港湾労働者に髪型や黒ハイネックを指さして嗤われるのにも気づかずぬるいビールを啜りながら友人たちに話して聞かせたらきっと驚かれるにちがいない冒険に胸躍らせていた最初のグループにはそれほど感銘を受けず歌手の派手なステージ・アクションを冷静に観察する余裕すらあったものの交代してヒッピー・ヒッピー・シェイクりだした次のグループには度肝を抜かれた大股に床を踏みしめて顎を突き出し独特の声で卑猥な冗談をがなる男如才ないMCを仲間らにからかわれつつ眠たげな顔でリトル・リチャードばりに歌う男耳が大きく眉毛の繋がったまだ少年のように見える男その三人が盛大に足踏みして背後のドラムを牽引し仲よしの仔猫よろしく小突き合いながら声を重ねてギターを掻き鳴らすかたわらでひたすら寡黙に演奏するベーシストにKは痺れた絵具を叩きつけた絵が酔狂な金持に売れた金でむりやりヘフナー五〇〇/五を買わせ拉致同然に連れてきたもののちっとも巧くならないんでピートBを除く僕ら全員に虐められていたSだ
 当時は僕ら全員が自分のほうがはるかにいい男だと自負していたけれどその夜のSは痴話喧嘩でやさぐれたKの目に黒眼鏡をかけてでかい楽器を構えたジェイムズ・ディーンそのものに見えたそんなすかした男が俯き加減に背を向けて不器用な手つきで子宮や睾丸に響く太い音を鳴らすものだから男らしさの欠如やら過剰やらに悩んでいたKにはまさに後光が射して見えたイッヒ・イケテルンとかなんとか茫然とつぶやいたそれこそ人生を覆されるほどの衝撃だった実際この夜を境にKはグラフィックデザイナーとしての輝かしい前途をあっさり棄てあまつさえ僕らのあとを追って渡英しベーシスト兼装画家として数々の名盤に名を残すことになるブルーノートやプレステッジの円盤蒐集でグラフィックデザインに目覚めたとき以上の劇的な転向でそのことに僕らは責任を負うべきなんだろうけれどあいにくKの初来店はまるで記憶にないいつも通り便所掃除のおばちゃんに横流ししてもらった減量薬 (「豆ッコと僕らは呼んでいたや暴力団員らに押しつけられた名誉戦傷章なる三角形の青い錠剤おぅズィーお×んぽピーデルバンバンやぁプローォストがっはっは!客に奢られたビールで流し込んでぶっ飛んでどうせ英語なんてわかるまいとばかりナチ野郎ども聴きやがれとかなんとか叫びまだ見ぬ米国から貪欲に仕入れたレパートリーの数々を跳んだり跳ねたり屁をこいたりガムを噛んだり飯を喰ったり中指を立てたり煙草を吹かしたり寝転がったり結露したアンプにもたれて居眠りしたりあらゆるものを蹴飛ばしたりしながら夜通し演奏しつづけていた。 「ホワッド・アイ・セイみたいに受ける曲はそればかり引き延ばして一五分もやった水夫や売春婦や犯罪者はほとんどだれも聴いちゃいなかったしのちに大成功してからも十代の女の子たちは叫んで失神するばかりでだれも聴いちゃいなかったんでロックンロールとは金にはなるがだれも聴いちゃいない音楽だといまでも思っているその金でさえ常時配信時代では雀の涙だ (「ほんの鶏の餌ミア・チキン・フィードに相当するこの表現はGの取り分で揉めたときMに教わった)。 ところがこの夜のKは聴いちゃいないどころか僕らの狂気に感染したかのように夢中になった
 果たしていまの若いひとたちにわかってもらえるかどうか僕らの世代はあの頃退屈な自分を変えてくれる力を猛烈に欲していた終戦から一五年も経っていたけれど僕らの港町はかれらによる空爆をかれの港町は東西を引き裂く敗戦や知らずに加担した罪を引きずっていたふたつの空を覆う暗い雲を吹き飛ばしてくれたのがロックンロールだったその音楽がどこで生まれたかなんて関係ないそれは僕らの世代の発明だったKは深夜三時の閉店まで数杯のビールで居座ったRが叩いていたグループと一時間交代で出演するザ・Bを最後の客となって追い出されるまで三度も観た下ろして切り揃えられた髪から湯気を発してアルトナ地区へ戻り自分のアパートではなくAの屋敷へ直行して呼び鈴を連打した数時間後には身支度をして写真館へ出勤せねばならないAは安眠を妨げられた母親を気にして迷惑そうに出迎えた彼女の顔を見るなりKは目撃したものについてまくしたてたこないだ孫に教わったところではこういうのをナード特有の早口というらしい)。 かれを無口で繊細と思い込んでいたAは衝撃を受け口論のつづきであるかに感じた男特有の理解しがたい粗雑さの魅力を訴えて女の自分をやりこめようとしているのだと落ち着かせようと台所でお茶を出してやり頼むから一緒に行っておくれよきみだって実際に見りゃわかるよと懇願されてはじめて目の前の男がよく知るいつものKに思えてきたがしかし早朝に明晩というか今夜の話をされてもピンとこないし何よりどれだけ拝み倒されようがのこのこと治安の悪い盛り場へついていく気にはなれなかった暗がりへ連れ込まれ強姦される恐怖はKには理解できまいどんなに華奢に見えてもこのひとは男でどんなに髪を短くし革パンを穿こうが自分は非力な女なのだそして肝心な事実として恋人を暴漢から護るほどの腕力がKにはない絵筆や鉛筆や製図ペン以外の得物を振りまわすさまが想像できなかった子どもの頃には母親に楽器を習わされていたと聞いたこともあるけれどなんならそれすらも想像できなかった
 約束だよきっとだからねと何度も振り返るKを押し出すようにしてようやく追い払い深く溜息をついた頃には朝日が射していたAは睡眠不足で出勤せねばならなかった虐殺に怯えた戦時中の反動からか男性バレエダンサーとの同棲を隠しもしない温厚な師匠からも顔色の悪さを訝られ心配された早退してもいいといわれたが断ったかれに体調を悟られたのが悔しく恥ずかしかった個人的事情で迷惑をかけまいとAは普段にも増して熱心に働いた照明を調節したりフィルムを換装したりモデルの女の子の世話をしたりしながらも定時になるのが憂鬱だった繁盛する写真館の一日はあっという間に過ぎた案の定Kは職場の前で待ち構えていてこちらの顔を見るなり犬が尾を振るがごとく嬉しそうにさあ行こうといったお風呂に入って寝なきゃいけないのあしたも仕事なんだからとAは撥ねつけたわたしはあなたと違って稼がなきゃいけないのよ……そういって恋人を追い返してからAは自己嫌悪に駆られた戦後の食糧難では人並みに栄養失調まで経験したものの実業家の祖父のもとでほぼ不自由なく育った自分が何をいうかと思ったのである服飾デザインをやりたかったのに恩師のもとで成り行きで見習いをしているわたしと異なり早くから実家を出て働きながら学んでいたKは自力で職を得た自分が何者であるかを見極めて人生を切り拓き独力で生活を成り立たせているのだむしろわたしのほうが周囲に流されてばかりでいまだ実家暮らしで親離れすらできていない……Aは悶々としてその夜もろくに眠れなかった
 一方断られたKはそれほどめげていなかったザ・Bの演奏を見られるのが楽しみだったからだ睡眠不足などものともしなかったこの夜も五人は最高だったはじめて見たときとおなじく大昂奮し寡黙なベーシストとお喋りな三人のギタリストひとりひとりの魅力に夢中になった別のグループに交代した頃には紫煙に霞む広大な店内を観察する心の余裕もあった犯罪者に売春婦に水夫に湾岸労働者表情ひとつ変えずにそいつらと渡りあう強面の給仕……すぐ近くの席に変なやつがいるのに気づいた泥と垢にまみれた顔に後ろへ撫でつけた縮れ毛の髪ありふれた作業服や靴を身につけているが港湾労働者には見えず顔や手の汚れ具合とも不釣り合いでまるで追い剥ぎや辻強盗でもやって手に入れたかのようだ身長や体格こそ自分や舞台上の若者たちと変わらぬものの黒犬の頭部を持つエジプトの神を思わせる目はどうも東洋人のように見える無銭飲食でもしようものなら命がないこの店でさほど金まわりがよさそうにも見えぬのに舞台を凝視しながらシュナップスを立てつづけに干しているさながら本来そこにあるべきではない異物が紛れ込んだかのような強烈な違和感があった好奇心に勝てずに観察した東洋人が気づいて振り向き視線が合った


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。