人生であれほど死に近づいたのは翌年を別にすれば一九八〇年六月くらいだ。 僕は血の気がひくのを感じ脂汗をかいて、 座席の肘かけを握り締めた。 Cと二歳の長男を想った。 おなじ部屋にいる息子をほったらかして、 本や新聞を読んだりテレビを観たりMとどうでもいい会話をしたり (銃や爆弾がどうとかいって怯えることはさすがになくなったものの、 あいつも子どもとどう接したらいいかわからぬようだった) と、 かけがえのない成長の瞬間をみすみす見逃しつづけた愚かさを痛感した。 僕は四文字言葉を連発して猛然と立ち上がるや、 疾風のごとく非常扉の把手に飛びついて、 羽交い締めせんとするMを振り払った。 一九六三年に僕を軽々と投げ飛ばしたあの日本人をだ。 後日あいつがのたまったところでは日本語でその手の神経症的怪力を火事場の莫迦力というのだそうな。 飛行機ってのは一方のエンジンを喪っても飛べるようにできてるんだとか、 高度やら気圧差やらについてもMは解説してくれたけれど、 どうせなら僕が再び扉へ突進してマルEに体当たりされる前に教えてほしかった。
せいぜい三十分のはずが永遠に思えた。 エレクトラ機は緊急消防隊が撒布した泡の上に何事もなく着陸した。 泡に包まれたエンジンはあっさり鎮火した。 拍手が沸き起こってしかるべき場面だけれど、 前座の連中や付き人たち、 記者団のだれにもそんな気力はなかった。 Mでさえ気の抜けたような顔をしていた——もっともあいつはいつだってそんな間抜け面だったのだけれど。 宿に備えつけの聖書を好むあいつや、 メダルを胸に下げたRを別にすれば信心深いとはいえない僕らも、 音楽が危うく再び死にかけたこのときばかりは深い溜息をついて神に感謝し、 もう二度と飛行機なんか乗るもんかと誓った。 しかし公演を投げ出して船で英国へ逃げ帰るわけにもいかず、 LAへの移動にはおなじロッキード社製でも骨董品のコンステレーション機が使われた。 第二次大戦中の主力機で大手航空会社からのお下がりだ。 僕らはみんな機内の古臭い装備を疑いの眼で見つめた。 Gは巻かれて埃を被った縄を頭上の物入れで発見した。 訊かれるより先に添乗員が緊急脱出用の梯子だと説明した。 Gが長さを尋ねると一二フィートだという。 では今夜われわれは一三フィートの高度を保つこととしよう! とGは厳かに宣言した。
この公演旅行で僕はCや伯母に随分たくさんの手紙を書いた。 別に火を噴いたエンジンのせいじゃない。 もとより僕は手紙魔で、 近所の洗濯屋への苦情でさえ便箋を何枚も費やしたものだけれど、 海を跨いだ通話でさえ高価で不便だったこの時代には、 回線が繋がりさえすれば掌中の端末で世界中どこでも即時にやりとりできる未来なんてM以外だれも知らず、 僕やSのように書くことに (そしてMのように書かせることに) 取り憑かれていなくとも、 ひと月も家族と離れたらむしろそんなのが当たり前だった。 数秒の動画を指先でスクロールして消費する現代じゃ、 たかが数行を送信しただけで孫に長いと不平をいわれるのだから寂しいものだ。 いつものように仲間と莫迦をやって笑い転げながらも、 ふと谷間のような昏い一瞬、 楽屋で何時間も出番を待っているときなんかに、 だれの愛も繋ぎ止められない身勝手を不意に自覚して、 どん底まで気持が沈むことがあの頃の僕にはあった。 親父そっくりなことをやっている自覚があり、 再会するたびに成長している長男が僕を憶えていてくれるか心配だった。 息子と会うたびに目尻が下がり態度が変わるPのほうが、 むしろ実の父親らしく思えて劣等感に打ちのめされた。 お袋と僕がそうだったみたいに、 碌にわかり合う前に何かあったら取り返しがつかないと思った。 息子にありのままの自分を記憶に焼きつけてほしかった。
二歳の長男に海外通話はまだ早かった。 そこで僕はCが読み聞かせられるよう、 いつか成人した我が子が読み返せるように手紙をしたためた。 世界で経験した冒険の数々や、 家族に逢えない寂しさ、 仕事を終えて帰宅する日がどれだけ待ち遠しいかをひたすら書き送った。 その感情に嘘はない。 僕が想うのと同様に妻子にも恋しがってほしかった。 でもご存知の通り、 数年後に僕はかれらをあっさり棄てちまい、 無慈悲にも過去の亡霊扱いするようになる。 Mはあたかも世界の終わりのように怒り狂い、 GとRは僕の機嫌を損ねるのを畏れてCと距離を置いた。 Pだけは何事もなかったかのように平然として、 住む家さえ喪って困窮したCと息子に、 それまでと何ら変わらず接しつづけた。 そればかりか競売に出された僕の手紙をわざわざ買い戻して、 額に入れてCに贈りまでしたらしい。 人づてにその噂を耳にしても何も感じぬほど、 その頃の僕は変わってしまっていた。
時間が速度を緩めたのはエレクトラ機の一件だけで、 あとはまた大麻の夢を見るうちに轟然と流れ過ぎた。 九月二日に帰国し、 長男と取っ組み合って遊んだりファンからの手紙を整理したり、 Cに入れてもらったお茶を啜りながら家がいちばんだとしみじみ繰り返したり、 ウエストエンドホテルの続き部屋での逢瀬を重ねていた 「ウィンストン夫人」 こと年増歌手が、 痩身薬の注射で健康を損ねたってんで病院に見舞ったりするうちに、 一〇月一日にはPが夢で聴いたのを元にした曲が全米番付で一位になった。 「掻き卵」 なんて仮題で年増歌手とピアノを弾いてふざけていた時点では想像もつかぬ快挙だ。 弦楽四重奏を重ねたPの弾き語りを調整室で再生したら、 あと三人の出番がないことに全員が気づいた。 叩きようがないとRがいい、 ギターは一本で充分とGも認め、 GMや録音技師、 付き人ふたりを含む全員の視線が僕に集まった。 活動末期には四人各自が分かれて収録するのも珍しくなくなるけれど、 この時点では単独の演奏をザ・B名義で発表するなんて前代未聞だった。 僕は責任を押しつけるべくMを見た。 みんなの視線もつられて移動した。 Mは肩をすくめ、 きっと 「昨日」 はそうなることが最初から決まってたんだよと述べた。 ほらPだって自分のだって信じられなくて、 なんて曲かみんなに訊いてまわってたじゃないか……。 本当にいいんだなとGMが僕らの顔を見渡し、 僕らは重々しく肯き、 それで決まった。
僕が指一本関与していないこの曲が、 ザ・Bの代表作として扱われるたびに誇らしいような妬ましいような悔しいような、 複雑な心境にさせられる。 見ず知らずの他人にあれ歌ってくださいよと何度せがまれたことか。 柔な曲で強面グループの印象を壊したくなくて英国ではシングルにしなかったのを悔やみ、 以後の公演ではPの見せ場にした。 スポット照明を当てて僕があいつを紹介し、 弦楽四重奏の代わりにVOXのオルガンを弾いてやる。 目立ちたがりで有名な僕だけれど、 引き立て役だってお手の物、 これは受けに受けた。 Pのファンは感動のあまり卒倒し、 舞台袖でBEは真っ赤な顔で涙ぐみ、 Mときたら執拗に、 向こうを張って 「明日」 を書けよとけしかけてきた。 こういう厄介なところがあいつにはあった。 何かにつけてPと競わせたがるのだ。 張り合うといえば、 僕はMをサンチョ・パンサのごとき生意気な家来のように思っていたのだけれど、 Pのほうではまるで対抗するかのようにマルEをお供に連れ歩いていた。 ペパー軍曹の案もふたりで考えたって噂だし、 向こうも家来が主人にけしかけたり入れ知恵したりしていたのかもしれない。 うっせえな、 用心棒風情が首を突っ込むなよと怒鳴りつけてやりながらも、 負けず嫌いの僕は 「明日」 とやらを無意識にこねまわし、 やがて新曲 「マークⅠ」 にRの言葉から着想した歌詞を充てることになる。
連載目次
- Born on a Different Cloud(1)
- Born on a Different Cloud(2)
- Born on a Different Cloud(3)
- Get Off Of My Cloud(1)
- Get Off Of My Cloud(2)
- Get Off Of My Cloud(3)
- Obscured By Clouds(1)
- Obscured By Clouds(2)
- Obscured By Clouds(3)
- Cloudburst(1)
- Cloudburst(2)
- Cloudburst(3)
- Over the Rainbow(1)
- Over the Rainbow(2)
- Over the Rainbow(3)
- Devil’s Haircut(1)
- Devil’s Haircut(2)
- Devil’s Haircut(3)
- Peppermint Twist(1)
- Peppermint Twist(2)
- Peppermint Twist(3)
- Peppermint Twist(4)
- Baby’s in Black(1)
- Baby’s in Black(2)
- Baby’s in Black(3)
- Baby’s in Black(4)
- Hello, Goodbye(1)
- Hello, Goodbye(2)
- Hello, Goodbye(3)
- Hello, Goodbye(4)
- Hellhound on My Trail(1)
- Hellhound on My Trail(2)
- Hellhound on My Trail(3)
- Hellhound on My Trail(4)
- Nobody Told Me(1)
- Nobody Told Me(2)
- Nobody Told Me(3)
- Nobody Told Me(4)
- Paperback Writer(1)
- Paperback Writer(2)
- Paperback Writer(3)
- Paperback Writer(4)
- Anywhere I Lay My Head(1)
- Anywhere I Lay My Head(2)
- Anywhere I Lay My Head(3)
- Anywhere I Lay My Head(4)
- Anywhere I Lay My Head(5)
- Crippled Inside(1)
- Crippled Inside(2)
- Crippled Inside(3)
- Crippled Inside(4)
- Crippled Inside(5)
- Mother’s Little Helper(1)
- Mother’s Little Helper(2)
- Mother’s Little Helper(3)
- Mother’s Little Helper(4)
- Mother’s Little Helper(5)
- Flying(1)
- Flying(2)
- Flying(3)
- Flying(4)

@ezdog Jが飛行機から飛び降りなくて本当によかった!しかし怖かっただろうなぁ。梯子のエピソードが面白い。
せっせと手紙を書き送るJの気持ちの切実さがよく分かる。家族を大切に思っていた気持ちがこの時は本当に本当だったんだなというのが温かくも切ない。それにしてもPはいいやつだなぁ。
「明日」を書けよと言うMのしつこさが面白すぎる!Mがしつこすぎたおかげで名曲ができたと思うとなんだか楽しい。Mがサンチョ・パンサというのはぴったりすぎる!いいな!