夜の雑記帖

連載第11回: 幾多銭呀?

アバター画像書いた人: 一夜文庫
2022.
11.06Sun

幾多銭呀?

社会人になって数年目くらいの頃に香港に行ったことがあるなぜ香港だったのかはもう覚えていないがたぶん安いパッケージツアーがあったからだろうホテルが中心街から少し離れた場所にあってこわごわ地下鉄に乗って街に繰り出したり動物園に行ったら滅茶苦茶混んでいて動物を見にいったのに大量の香港人にもみくちゃにされただけだったりご飯屋さんを開拓する勇気がなくて二日連続で同じショッピングモールのレストランで夕御飯を食べたりとかそんな些細なことを今でも覚えている

香港に行くにあたって私は小さなスケッチブックに旅で使えそうなとっさの一言を書いて用意した香港の公用語は広東語なので広東語でトイレはどこですか」 「いくらですか」 「これをくださいなど会話で必要になりそうな言葉を調べて書いておいたネットで調べて写して書いただけなので自分では声に出して発音できないがせっかくなのでカタコトの英語で何とかするより香港らしいコミュニケーションがしてみたかったのだ

実際行ってみるとツアーに組み込まれている免税店などでは日本語が通じるのでスケッチブックの出番はなかったのだが自由行動の時間に街に出たときには結構役に立った何よりスケッチブックを見せると露店の仏頂面のおじさんがちょっと笑ってくれたりしてそんな些細なやりとりが楽しかった

私が香港の観光地の中でいちばん行きたかったのがキャットストリートだ真贋のうさんくさい骨董品の怪しい屋台が並ぶ雑多でキッチュな通りガイドブックを見れば見るほど期待がふくらんだ日程二日目で地下鉄の移動にも慣れた頃ついに憧れのその地に向かったわくわくしながら地下鉄の最寄り駅から外に出ると温帯夏雨気候の香港らしい土砂降りのスコールに迎えられたそれでもめげずに目的地に向かったキャットストリートに続く有名な階段を登って通りに出ると骨董屋街で露店が並び賑わっているはずの道沿いには全然店が出ておらず誰も歩いていないがらんとした通りに強い雨だけがざばざばと降りそそいでいた確かにこの雨の中で人も少ないのにせっせと露店を出す人はいないだろうみんな今日はあきらめて店をお休みにしているのだ

半分心が折れかけたがそれでもせっかく来たので通り抜けるだけでもとざばざば降る雨の中を歩いていった

通りの中程誰も歩いていない道の端に真っ赤なものばかり並べている露店がひとつだけぽつんと開いていた強い雨で煙る暗い道でそこだけ灯る橙の電灯白髪で背中の曲がったちいさなおばあさんがひとりちんまりと店先に座っていた顔も背中も丸くて全体的に丸っこくてちいさくて可愛らしい

露店に近寄っていくと赤い商品の正体が分かった毛沢東グッズだ毛沢東語録の本に写真にポスターピンバッチに缶バッチに灰皿目覚まし時計に腕時計⋯⋯私がキャットストリートで是非買いたいと思っていたお土産のひとつだ数は少ないけれど他にお店が全然ない中でここだけでも開いていてくれたのはありがたい

おばあさんにたどたどしくニイハオと挨拶して私はグッズを真剣に選んだおばあさんは穏やかな顔でそれを見ていた結局私は毛沢東語録のちいさな本を買おうとした傘を抑えながらがさごそとスケッチブックを取り出して幾多銭呀?  いくらですか?と書いたページを開いた

それを見た瞬間おばあさんはころころけらけらと可愛らしい声で笑い出したそして字を一字ずつ指さしながら読み上げた

げぇいどーちん

⋯⋯げぇいどーちんあ?

げぇいどーちんあ!

おばあさんは笑いながらメモ紙に数字を書いた私も笑ってその金額を支払った

欲しかった毛沢東語録とスケッチブックをカバンに入れてまたぎこちなく謝謝と言っておばあさんと別れた

私が歩いていく後ろで、 「げぇいどーちんあ! げぇいどーちんあ! アハハハハ⋯⋯とずっと繰り返し言って朗らかに笑っているおばあさんの声が聞こえていた

私は英語をはじめ外国語を覚えるのは苦手だがおばあさんのおかげで広東語で値段を聞くことは完璧にできるようになったコミュニケーションのなかで使ってみて覚えた言葉はそう簡単には忘れないあれから長い時が経ったので多分もうあの通りにおばあさんはいないかもしれないがもしまた香港を訪れる機会があったら私はきっとまたキャットストリートに行って今度はスケッチブックなしで堂々と値段を尋ねられるだろう誰かがくれた言葉はずっともらった誰かの胸のなかで生き続けるのだ


寝る前の読書を愛する本好き。趣味で一箱古本市に出たり、ツイッターで本をオススメしたりしている。杜作品を読み人格OverDriveに憧れている。