コロナ前のこと、 仕事に疲れた日の帰りに何の意味もなく羽田空港国際線ターミナルまで行ったことがある。
空港に向かう夜のモノレールは空いていた。 高層マンションの窓の高そうなシフォンのカーテンからは橙色の温かな幸せそうな光が漏れ、 蛍光灯の白くひんやりした光に照らされて丸見えのオフィスの窓の向こうではまだ誰かが働いている。 自分には一生関わることのない部屋の数々が目の前を通り過ぎてゆく。
高速道路と並走してトラックに追い抜かれていく。 高架下には川か海か分からない黒い水面がゆらいでいるのが見えた。 さざなみは街灯の光を汲んできらきらと闇に散らしていく。
窓にもたれて流れていく夜景を見ながらぼんやりしていると、 鬱屈した日々の垢が後ろに過ぎていくような気持ちになった。
空港に着いても飛行機に乗るわけでもない。 それでもインバウンド向けのディスプレイや土産物店を眺めたりしてうろうろしていると、 ちょっぴり旅気分を味わうような浮かれた気持ちになった。
せっかく空港まで来たので、 飛行機を見たかった。 展望デッキに上がってみる。 青白く煌々とライティングされた夜の滑走路を次々と飛行機が降り立ち、 飛び立っていく。 行き交う赤や緑のテールライトと轟音がここちよい。
展望デッキは思ったより人が多かった。 寄り添うカップルや、 搭乗前の時間潰しにきているおばさまグループや、 飛行機に目もくれずベンチで PC を高速タイピングするサラリーマン。 皆どこかしら目的地があったり一緒に過ごすひとがいたりする様子だった。 私だけが何のあてもなく彷徨っているようだ。
そんな夜の雑沓の中に浮いたように、 ひとり佇むおじいさんがいた。 ひとりでふらふらしている者には、 同じような人間が目に入りやすい。
おじいさんはランニングシャツに短パン、 手には白いビニール袋を下げていた。 近所の人が部屋着のままコンビニに来たような出で立ちだった。 じっと夜空を見上げていた。 何を考えていたのだろう。 遠い昔を思い出していたのか、 私のように日々の憂さを溶かしていたのか。 内心は案外気楽だったのかもしれないけれど、 その背中は何となく寂しそうには見えた。
巷でよく聞く言葉だけれど、 私は 「孤独に寄り添う」 という言葉が苦手だ。 人は誰しも誰にも理解されない自分だけの孤独を持つ。 孤独はそのひとにしか分からない、 崇高で美しくさえある繊細なものだ。 そこに他人が土足でずかずか入っていって寄り添ったつもりになるなんて、 なんという冒涜だろう。 そんなおぞましいことはしたくない。 だけど。
おじいさんは展望デッキの縁のフェンスのすぐ前で空を見上げていた。 私はおじいさんから両手を広げた長さほど離れた場所に並んで、 空を見上げてみた。
しばらくそうやって、 おじいさんの見ている空と同じ空を見ていた。
なんとなくこの時のことを忘れたくないなと思って、 数年経った今でも覚えている。 おじいさんは私の存在には気づいていなかった。 私が勝手に近くにいて同じ空を見ていただけだ。
だけどあの日の空とおじいさんのことを、 私は今も忘れていない。 ほんの束の間に誰かと同じ空を見上げた時間があったことを覚えていたいのだ。 明けないようにすら思える深い夜を切り裂くように飛んでいく赤いテールライトと、 呆けたようにじっと夜空を見上げるおじいさんと、 そこにただ立ち尽くすひとりぼっちの私とを。
寂しかったのは孤独だったのは私で、 おじいさんに側にいてもらったのかもしれないなぁ。