閉店まぎわのスタジオはいつも空いている。 顔馴染みの受付スタッフに挨拶して部屋へ。 ひとりで重い扉を開けて入り、 また閉める。 楽器を弾くという趣味に地道な努力は欠かせない。 さぼればさぼるほど身体は感覚を忘れてしまう。 安いスタジオのドラムセットはボロボロで、 スネアは金盥のような耳障りな音がする。 チューニングはあきらめて、 椅子の高さとタムのセッティングだけ少しいじって座る。 鞄からスティックを取り出せば、 先端は削れて毛羽立ったチップから木の粉が落ちる。 いつも換え時に迷うけれど、 これはまだいいだろう。 叩く叩く叩く。 叩いたところでさっぱり上手くなった実感はない。 それでもやらなければ失われていく焦りだけはいつもある。 誰に聞かせるあてもない。 ただ興味本位で始めて今も続けているだけ。 何の意味もないのにどうしても止められない。 叩く叩く。 スネアからタムへ。 タムからフロアへ。 太鼓から太鼓へスティックを移動させていく。 右手は細かくシンバルを刻む。 バスドラを規則的に踏む。 腹にまで響く低音。 ドラムを始めてから音楽の聞こえ方が全く違って聞こえだした。 今は地の底から響くような低音と振動がここちよい。 叩く叩く叩く、 一日働いてきた身体はなかなか思うように動かない。 年のせいも確実にあるだろう。 それでも止まりたくない。 すこしずつテンポを上げていく。 叩く叩く。 音の波の中をひとり駆け抜けるように。 『夜に駆ける』 って曲が流行ったことがあったっけ。 あれは心中の歌らしいけど私はひとりで自由だ。 いつか倒れるまで好きに走り続けるだろう。 叩く叩く叩く。 限界まで速く速く強く。 スティックを振り回しシンバルに振り下ろす。 高音の残響が私の脳を揺らす。 叩く叩く止まらない。 私が止まらない。 叩く叩け私。 どこにも届かなくても私のために叩け。
2022.
10.04Tue
連載目次
- いま寝落ち五分前
- あの日に書いた報告書
- 私の夜を駆ける
- 共犯者たち
- 明けない夜に空をみにいく
- すろーりぃ
- 林檎とパイン
- 本の申し子
- 蠢毒の坩堝
- TAXY DRIVER
- 幾多銭呀?
- 忘れられない学園祭
- ひとでないもの
- 旅の記憶と日常と
- 楽しい男
- 寝かせてくれない彼
- クリスマス舞踏会
- はじっこ天国
- 幸福な家族
- 異次元カラオケ
- 異境の一ツ星グルメ
- 散歩と歌と
- 陰気な美容師
- 虫愛で過ぎる姫君~前編~
- 虫愛で過ぎる姫君~後編~
- 熱を纏う
- シャム猫の置物
- テキ屋の世界旅行
- 思い出の味噌ラーメン
- 間奏曲
- 極限の経験
- 意外と通じるルー語講座
- heavenly white noise
- お守り売りのおじいさん
- その後の日々を生きていた
- 大変尾籠な話
- お調子者の戦争
- 『GONZO』は華麗なアクションシーンも最高だけど、繊細な人物描写に私は救われた。
- 『血と言葉』推薦文
『夜の雑記帖』の次にはこれを読め!