文系ですか理系ですか? という質問に上手く答えられない。 私は数学というか算数のことを考えただけで頭痛がしてくるタイプの人間だ。 だが大学は理系の学部を選んだ。 文系に進んだところで凡人の自分には将来の展望が見えなかったのと、 宮沢賢治の農業に取り組んだ生き方や佐々木倫子さんの漫画 『動物のお医者さん』 が好きだったからだ。 数学が苦手なのに入れる理系の学部なんてあるのかと疑問に思われる方は多いだろうが、 実はある。 生物学系の学部は英語と生物のみで受験できるところが結構あった。 私が選んだのは農学部だった。
某三流私大のド田舎キャンパスのさらに片隅に追いやられている農学部になんとか潜り込んだ。 学生も教授たちも変なひとだらけだった。 学生にはやはり農家の跡継ぎという子が結構いて、 次に多いのが獣医学部に入りたかったけど挫折した子、 それ以外だととにかく自分の好きなことがはっきりしている子が多かった。 環境問題に関心があったり、 植物や特定の生き物が好きだったり。
同級生ふたりが楽しそうに談笑しているので 「ねぇねぇ何の話?」 と聞いたら 「今ねミトコンドリアの話してたの!」 と言われた。
実習で校内の畑の雑草を刈っていたら、 みんな引っこ抜いたクローバーの根を凝視しながら 「根粒菌! 根粒菌はどこだ!」 と根っ子についているはずの粒々を探しまくっていた。 高校の生物がお好きだった方なら辛うじて覚えておられるようなお勉強の話題で盛り上がれる奴らだった。
私は今もあまり物事を深く考えないで楽しそうなほうへ走ってしまう性質なのだが、 大学時代もその性質を遺憾なく発揮して、 将来性やら自分の資質やらを一切考慮せずに昆虫の研究をするゼミを希望した。 虫が結構好きなのと、 単純に面白そうだと思ったからだ。 そして昆虫の餌の成分分析の研究を選んで苦手な化学をがっつりやらなければならなくなって卒論に苦しむのだが、 それはともかく、 昆虫が好きで研究したい! と集まるような連中は、 学科の奴らに輪をかけて変な奴らだった。
ゼミが決まってすぐ、 研修旅行があった。 筑波の生物学系の研究施設をいくつか見学するといういかにも理系らしい内容だった。 研修旅行に来たゼミの同期のメンツはとても濃かった。 体育会系熱血男子。 スズメバチ大好き野郎。 冬虫夏草大好き野郎。 なぜここにいるのかわからない学年イチのモテ女子などなど。 よく言えば個性豊か、 わるく言えばおかしな奴らが十五人ほど集結した。
なかでも特に個性の強い女の子がいた。 ゆるいパーマのかかった茶髪でフリルのついた白ブラウスの似合う華奢でふわふわフェミニンな可愛い子だった、 見た目は。 中身は、 ちょっと普通の社会では絶対に通用しないレベルの強力な虫好きだった。
彼女には密かに 「カマキリちゃん」 という渾名がつけられていた。 ある日そのへんにいたカマキリを捕まえてブローチの如く自分の胸にとまらせ、 そのまま授業に出ていたからだ。 その一件で隣の学科の学生にすら 「ヤバいやつがいる!」 と認知された有名人だったが、 本人はまるで気にする様子もなく、 緑豊かというかほぼ山の中のキャンパスに毎日出現する何かしらの虫をマイペースに追いかけていた。
そんなカマキリちゃんも、 しかしさすがに研修旅行ならおとなしくしていることだろう、 虫を追いかけたり捕まえたりはしないだろう、 と誰もが思っていた。 だいたい研究施設の見学の合間に捕まえられる虫もいないだろうし。
ところがどっこい。 虫というのはどこにでもいるものなのだ。 昆虫は世界で現在発見されているだけでも約百万種がおり、 地球上に存在する生物種の五割以上を占めている。 ものすごくたくさんいる生物なのだ。 身体が小さく様々な環境に適応し進化し繁殖しているから、 なにかしらの虫がどこにでも出現しうる。 当然のように、 駅から研究施設へ歩いていく僅かな移動の間にも、 昆虫は現れた。
「わぁ~! かわいい~!」
カマキリちゃんの黄色い声に我々が嫌な予感がして振り向くと、 彼女は道端の街路樹の葉についた十五センチはあろうかという巨大な芋虫を葉からひきはがそうとしているところだった。
教授が目をキラキラさせる。 「あぁこいつはね、 スズメガの幼虫で、 食草の種類が広くて何でも食べてしまうんだよねぇ。 この大きさならもうすぐ蛹になるだろうけど⋯⋯」
教授はここぞとばかりに詳細な解説をしてくれた。 皆で聞き入ってから 「それじゃ行きましょう!」 と改めて研究施設に向かって歩き出した。 カマキリちゃんも歩き出した。 芋虫を手のひらにのせたまま⋯⋯。 教授は一瞬何か言いたそうな顔をしていたが、 すぐにスルーすることに決めたらしく、 スズメバチ大好き男子と楽しげに談笑しながら歩き出した。
私は⋯⋯露骨にカマキリちゃんと距離を取ってしまった。 実は私は芋虫だけは大っ嫌いなのだ。 芋虫以外の大抵の虫は大丈夫で、 今でも勤務先に入ってきたカナブンを素手で捕まえて外に逃がしてドン引きされる私だが、 そんな私にも人並みに苦手な虫はいる。 芋虫、 毛虫、 蛆虫だけはどうしてもダメなのだ。 ゴキブリよりも無理だ。 なぜか分からないが昔からダメだ。 遠い先祖で触って毒に当たって死んだひとがいるのではないかと思うくらい遺伝子レベルで無理だ。 えっ芋虫を触ったくらいで死なないって? そこまで毒性の強い芋虫はいないって? そりゃ理屈はそうかもしれませんが! 私の気持ちとしては触ったら死ぬくらい無理なのだ!
カマキリちゃんは手のひらのスズメガ幼虫をなでなでしながら歩いている。 奴らはしっぽのあたりにツノのような突起がある。 それがめちゃくちゃ怖い。 先程の教授の解説のおかげであれはただの飾りで毒はないと理解していても怖い。 色はどす黒い褐色をしている。 めちゃくちゃ気持ち悪い。 理屈では人体に害はないと分かっていても生理的に無理だ。 というかあの見た目で毒がないなんて嘘ではないだろうか。 まだ誰も発見していないだけで本当はあるんじゃないのか。 誰かちゃんと研究してくれ私は嫌だが。 学年イチのモテ女子が可愛い顔でその忌々しい毒虫を覗きこみ 「この色は擬態の効果もあるのかな」 なんて話している。 やめろ。 おまえたちに常識はないのか。 大学生女子が公道でそんなでっかいツノつき暗黒芋虫を持ち歩くなんて、 危険物取扱法違反に該当するのではないか。
「ご、 ごめん私は芋虫苦手で⋯⋯」
「わ、 私も⋯⋯」
私と、 もうひとりいた地味っこ女子がどん引きしているとカマキリちゃんは
「えぇ~なんで!? こんなに可愛いのにぃ」 と言いながら手のひらの芋虫をこちらに差し出してきた。
「「ぎゃあああああ!」」
私たち芋虫キライ連合が悲鳴をあげるとカマキリちゃんは 「ごめんごめん、 でも大丈夫だよ! 私ちゃんと捕まえてるから! それにこの子おとなしいし!」
と言ってまた芋虫をなでなでした。 芋虫は怯えたように固まっていた。
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