むかし通っていた美容室の私の担当者は、 それはそれは陰気だった。
そもそもその美容室からして雰囲気が暗かった。 見た目は綺麗なオシャレな店で、 パステルカラー調の柔らかな黄色やオレンジを多用した内装に暖色の明るい照明で、 入りやすいポップな雰囲気だった。 BGM には軽めのボサノバがひかえめに流れる。 大通り沿いの理想的な立地。 それなのに、 私以外のお客さんがいるのを全然みたことがなかった。 私の仕事が平日休みで平日の午後にしか行ったことがなかったからかもしれないが、 いつ行っても誰もいなかった。 行くといつも見た目は雑誌 LEON に出てきそうなアロハシャツにジーパンでロン毛茶髪のチャラいいけおじオーナーが出てくる。 丁寧に接してはくれるのだか、 いつも表情が固くて悲しげな目をしていた。 オーナーの奥様らしき清潔感と透明感の塊のような美しいお姉さんがアシスタントのポジションらしくシャンプーをしてくれるのはこの人だったが、 とても物静かでおとなしかった。 そしてどんなにひまそうに見えてもオーナーは決して髪を切らず、 私の担当美容師が出てくるのだった。
どういうわけか美容室では美容師が話しかけてきて髪を切る間ずっとしゃべらなければならないシステムのようだが、 私はあれがきらいだ。 何回か通った美容室で美容師とする話が毎回同じで気まずくなって行くのをやめたこともある。 美容師と話すのがいやで千円カットで済ませていた時期もある。 これまでの人生、 何百回と美容室に行ってきて、 ああ話が合うなあとか話しかけられてよかったなあと思ったひとは三人しかいない。 ひとりは新卒でブラック企業に勤めていて死にそうだったときに行った床屋のおじさんで 「頭皮がガチガチですよ。 何か大変なのではないですか⋯⋯」 と終始心配してくれた。 もうひとりは今通っている近所の美容室のおじさん美容師で、 このひとは店の本棚にニーチェを忍ばせるようなひとなので本好きとしてはなんとなく気楽に話せる。 そして最後のひとりがこの陰気な美容室の陰気な美容師だった。
美容師は三十代前半くらいの男性だった。 黒髪短髪で一見オシャレそうに見えるのだが、 伏し目がちで静かに話すひとだった。 髪を切り始めると話しかけられるので最初は身構えていたのだが、 話す内容は 「最近寒くて⋯⋯」 とか 「休みの日は寝てばっかりで⋯⋯」 とかネガティブな話題ばかりで、 全然美容師らしくない地味な自虐ネタばかりだった。
けれど私には、 なんだかそのほうが楽だった。 キラキラした美容師の話にはこちらもなんとかキラキラした話をしなければならないような圧がある。 だが私のような地味な本好きにはそんなにキラキラした話題がない。 「お休みの日は何をしてるんですかぁ?」 なんて聞かれても、 ゴロゴロしているとか本を読んでいるとか答えるしかなくて、 全然キラキラした話題を持ち合わせていない自分は無理に美容師に合わせて気をつかうのに疲れてしまった。 だけど陰気な美容師には、 そんな私の素の話が通じたのだ。
「お仕事つかれますよね」 「休みの日なんて一歩も外に出たくないですよね」 「というか部屋から出たくないですよね」 「というか布団から出たくないですよね」
美容師との会話はどんどんネガティブで駄目なほうに進んでいった。 それがとってもラクだった。 美容師が花粉症になったときはめちゃくちゃ盛り上がった。 「どうも花粉症になったようだが認めたくない」 と言う美容師。 以前から春先にそれらしき症状が出ていて怪しかったようなのだが、 一切認めず気合いで乗り切ってきたそうだ。 ところが今年は仕事に支障が出るくらい鼻水が止まらず顔面が痒く、 認めたくないが仕方なく薬局の花粉症の薬を飲んだらピタッと治まったという。 「いやぁ私もちょっと怪しいかもしれないんですけど、 認めたくないんですよね」 と私。 「俺も何年もその状態でした。 でも⋯⋯こんなに症状が出てきて薬まで飲むハメになっては、 もう認めなければならないかもしれない⋯⋯」 と明らかに素でヘコむ美容師。 気持ちはものすごくよく分かるし御気の毒だが、 ちょっと面白い。 「私はまだまだ認めませんよ!」 と私が勢いづくと、 美容師は 「⋯⋯いつか認めなければならないときがくるんですよ」 と言ってニヤリと笑った。 あれは今までの人生において美容室で美容師と交わした会話の中でいちばん駄目な会話だった。
ある日、 美容師は 「今度、 地元で独立するんです」 と言った。 その時ばかりはちょっと嬉しそうで明るかった。 「おめでとうございます! どちらでですか?」 と聞いたら、 ずいぶん遠い他県だった。 「たぶん来られないですよね。 まぁもしお近くにいらっしゃることがあったら気軽に寄ってくださいね」 と美容師は言ってくれたけど、 来ることはないだろうと分かっている言い方だった。 そういうさっぱりしたところが本当にラクだった。
ひとの暗さとか冷たさみたいなものはどうしてもネガティブなイメージがあるけれど、 それも必要なものなんだろう。 あの美容師の暗さは、 同じようなネガティブ人間の私には話しやすさやラクさと同じだった。 無理に話さなくていいとか明るい話をしなくていいとかいうひとや場所には、 実は気まずさよりも安心感や安らぎのほうが多く感じられるのではないか。
最近の美容室には 「話しかけ NG コース」 を作って好評だなんていう店もあるらしい。 美容室で話しかけられる問題は実は結構いやだと思っているひとは多いのではないか。 だからあの陰気な美容師の美容室ができた地元のひとは、 ずいぶん助かっているんじゃないかと思う。 美容室の売りが 「明るい」 「いけてる」 だけじゃなく 「暗くても OK」 「ほっといてくれる」 となる時代は、 もうすぐそこにきているのではないだろうか。
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