物心ついた頃から、 いつのまにかおもちゃ箱に入っていた置物があった。 とぼけたようなすましたような顔のシャム猫が、 背筋をピンと伸ばしてお座りしている置物だ。 親指まるごとくらいの大きさで、 目と耳と足にちょんちょんと最小限の絵の具がのせられている。 紙粘土の軽い体に、 丁寧にニスがかけられている。 白い毛色に黒い耳、 青い目は少し笑っているような、 さりげない愛嬌のある猫だった。
幼い頃には何も気にせず他のオモチャの人形と同じように遊んでいたけれど、 少し大きくなってからこのシャム猫の置物は手作りのものらしいと気づいた。 でも明らかに親の作ったものではない。 猫はどこか洗練されたセンスを感じさせる垢抜けたデザインで、 子供の私の目から見ても自分の親にはこれを作れる感性はないだろうなと思った。 これはどうしたのかと聞いてみたら、 母親が職場の同僚のおじいさんからもらったという。 全然知らないそのおじいさんのセンスを粋だなと思いつつ、 子供の私はだからといって急に猫を大事に飾るようになったりはせず、 やっぱりそれまでと同じようにその猫で遊んでいたのだった。
大人になって実家が建て替えをすることになった時、 実家にあった自分の荷物を引き取った。 いろいろなガラクタに混じって子供の頃に使っていたオモチャ箱が出てきた。 懐かしいオモチャがいくつも入っていた。 その中にシャム猫の置物もいた。 子供の頃の記憶にうっすら残っていた、 猫の置物を子供ながらに良いものだと思っていたことや、 遊んだときに触れた感触や質感が、 手に取った瞬間に一気に蘇った。 思わず一人暮らししていた部屋に連れ帰った。 以来ずっと、 私の本棚にはこのシャム猫がいる。 引っ越しした時にも実家に戻った時にも、 そのたびなくさないように気をつけながらいっしょに連れてきた。
先日ふと母親に、 この猫をくれたおじいさんがどうしているかを聞いてみた。 この置物をくれただいぶ後に亡くなったということだった。 それならおそらく私が実家を出る前にはすでに亡くなっていたということになる。 そんな昔に亡くなったひとで面識もないのに、 何故だか寂しいような悲しいような気持ちになった。
それにしても不思議なものだ。 全然知らないおじいさんの作ったシャム猫の置物が、 どういうわけか私の手元にたどり着いた。 そのことを考えると、 なんとも言い難い感慨のようなものが胸に湧く。 知らないおじいさんの人生や人柄を想う。 何かささやかな、 けれど大切なものを受け継いだ気持ちになる。 私はこの猫がとても気に入っていて、 これからも大事にしていくつもりだ。 おじいさんは私のような者に自分の作った猫が末永く飾られることなど、 予想もしなかったに違いない。 ひとに作られたものは、 時に作ったひとの思いもかけないところにたどり着くことがあるようだ。 形を得た無機物に人間は命を投影する。 その命は存外しぶとく強い。 ひとに作られたものはどんなものでも、 永遠とも呼べるような命を持つ可能性がある。 ロゼッタストーンも縄文式土器も鳥獣戯画もそんなふうにして今もそこにある。 もちろん途上に消えてしまうものもあるだろう。 でも不思議に長らえ時を経るものもある。 時を経たものは付喪神のような怪しさと優しさを得て、 手にするひとを励ましてくれるのだ。