随分前にボブ・ディランの来日公演を聴きに行ったことがある。 私は海外アーティストの公演などそれまで一切行ったことがなかったのだが、 ちょうど加齢でガタがきてメンタルが若干弱っていたところで、 何かいつもと違うことがしたかったのだ。 たまたまポスターを目にして、 ご高齢だからこの機会を逃すともう日本に来ないかも⋯⋯という不純な動機でいちばん安いチケットを取った。 だがこれが大正解だった。 それまでボブ・ディランをちゃんと聴いたことはなかったのだが、 おじいちゃんディランの朗々と自由に歌う声の深みにはすっかり引き込まれてしまった。 これがきっかけで公演後しばらくディランばかり聴いていたくらいだ。 若い頃のダミ声よりも柔らかくなったその歌声が、 ガタがきた身体と心に染み渡った。 成功も挫折も味わい何度も結婚と離婚をし波乱の人生を送ってきて七十代でも歌いつづける男の声には、 私のようなひよっこなど秒でどっぷりと浸してしまう包容力があった。
全然知らない曲ばかり⋯⋯と思いつつ聴いていたが、 公演後に HP でセットリストを確認したらあの 「風に吹かれて」 ほか代表曲ばかりがずらずらと並んでいた。 ディランのセルフアレンジというかおじいちゃんディランの気分で全然違う曲のように仕上がっていたらしい。 そんな自由なところもディランの魅力なのだろう。
会場のロビーではたくさんのディラングッズが売られていた。 終演後すっかりディランに癒された私は記念に何か買っていこうかと眺めてみた。 CD はもちろん T シャツやらマグカップやらキーホルダーやらの見本が高く掲げられていた。 だがお会計するカウンターはめちゃくちゃ混んでいた。 いいなと思うデザインのものは早々に売り切れていた。 あきらめて会場を出た。
帰り道に向かう人波に混じって会場を出る。 いいものを聴いた高揚感と、 聴き終わってしまった少しのさみしさを抱えながら歩いていると、 ちょうど会場の出口のすぐ前の道路で、 何かをヒラヒラさせているひとが見えた。
出口を出ると、 そのすぐ前で欧米系の五十代くらいの太ったおじさんとおばさんが、 腰を屈めて何やら大きな紙を広げて持ち、 それを地面から少し上の辺りに掲げて高速で表にしたり裏にしたりを繰り返している。 おかしいひとなのか⋯⋯と思った。 おじさんとおばさんは声を張り上げ何事か叫んでいる。
「Bob・Dylan Poster! reversible!」
「Bob・Dylan Poster! reversible!」
ヒラヒラしている紙には若かりし頃の目付きの悪いディランや、 サングラスをかけて革ジャンのディランが白黒で印刷されている。 裏にも表にもディランがいる。
⋯⋯そうか!彼らは非公式のグッズを販売するモグリのポスター屋なのだ!彼らの作ったポスターは裏も表も両面違う柄のリバーシブル仕様で、 一枚で二枚分の写真が楽しめるのだ。 彼らはその最大の利点をアピールするために、 一生懸命あんな不思議な動作をしていたのだ!
もちろんライセンス料を支払わず勝手にグッズを作って売るのがいけないことなのは私も分かる。 しかし私は少し懐かしかった。 昔は縁日の屋台なんかで非公式の芸能人グッズをわんさか見かけたものだ。 何よりおじさんとおばさんの身体を張ったマヌケな売り方⋯⋯。 真面目に怒るほうがバカみたいに思える。 このふたりはたぶん夫婦で、 ずっとこういう商売をしてきたのだろう。 そのゆるさというか雑さというかそういうものが、 私はすっかり好きになってしまった。 そして、 ディランもこの夫婦を結構好きで、 彼らの商売をわざと見逃してあげているんじゃないかと妄想した。
私はおじさんから五百円のポスターを一枚買った。 おじさんはニコニコしながらポスターを丸めて輪ゴムで止め 「アリガト!」 とぎこちなく言って渡してくれた。
私はポスターを大事に抱えて帰りの電車に乗った。 あの夫婦はどこから来たのだろう。 おじさんもおばさんも 「アリガト!」 以外の日本語は全然できなそうだった。 普段は米軍基地やその周辺など、 英語だけで生活できる場所で暮らしているのかもしれない。 それとも⋯⋯と私はまた妄想する。 おじさんとおばさんは、 ボブ・ディランのツアーにくっついて、 ディランと一緒に世界中を旅してまわっているのかもしれない。 ディランは旅する歌手だ。 デビューしたての若い頃も全米各地でたくさんブッキングを組まれライヴをこなし、 世界公演も果たし、 ローリング・サンダー・レヴューでは行き先も途中で決めるような風来坊なやり方で音楽仲間と小規模の会場を周り、 今もネヴァー・エンディング・ツアーと題して世界中を旅して歌い続けている。 ポスター売りの夫婦はそんなディランの終わらない旅にどこまでもくっついていく。 毎回会場の外でポスターをひらひら高速で振り回して、 いっぱい売れるときもそうでないときもあるけど、 ひと仕事終えたらその土地のお酒で乾杯する。 売れ行きによってそのお酒はモーテルの缶ビールになるかもしれないし、 土地の旨いレストランで名物料理を肴にいいワインを開けることになるかもしれない。 公演が始まるまでの昼間は観光したりして。 パリ公演ならシャンゼリゼ通りを歩いてエッフェル塔や凱旋門を眺め、 ロンドンなら二階建てバスに乗ってピカデリー・サーカスまで行ってぶらぶらお買い物。 ローマではトレビの泉やスペイン階段をそぞろ歩き、 真実の口に噛まれる真似をしてオードリー・ヘップバーンごっこに興じる。 きっとどの街でもおじさんとおばさんは呑気で朗らかでちょっと抜けていて、 愉快な珍道中を繰り広げることだろう。
ディランともすっかり顔馴染みで仲良しで、 ツアー会場で顔を合わせては 「よぅ! またついてきたのかい! 景気はどうだい?」 「ボブのおかげでなんとか食えているさ!」 なんてお喋りしていたりして⋯⋯。 ディランの旅にくっついていく夫婦の姿を想像したら可笑しくなった。 そして、 そんな世界を股にかけたテキ屋のような暮らしができたらいいなぁと思ったのだ。
旅費が出るほど儲かる商売だと思えないので、 あの夫婦が本当にそんな暮らしをしているわけではないだろう。 でも、 ディランにくっついて旅するおかしな夫婦を思い浮かべると、 私はちょっと楽しくなる。 自分もそのツアーにくっついていっている気持ちになれるのだ。
ボブ・ディランは私がこれを書いている現在八十一歳で、 今も元気にツアーで世界中を飛びまわっている。 この春にはまた日本に来るらしい。 私はあのとき聴いた歌声だけで充分だと思っているので今回は聴きにいかないけれど、 ディランには末永く元気で歌い続けてほしい。 今は色々厳しくて以前のような商売はできないかもしれないけど、 あの流浪のポスター売りの夫婦にもどこかで元気にやっていてほしい。