私はタクシー運がいい。 それほど頻繁でないけれどたまにタクシーを利用する時、 嫌な運転手に当たったことは一度もない。 逆に面白い人には結構あたる。 運転のコツを教えてくれた人や、 プロの三味線奏者で自分の演奏の録音を聞かせてくれた人、 夜道をとぼとぼ歩いていたら本当はダメなのに格安で家まで乗っけていってくれた人もいたっけ。 その節は大変お世話になりました。 会話がなくても、 クラシックを静かに流していたり、 昔ながらのレトロなレースのシートカバーでお迎えしてくれたり、 個性豊かな運転手さん達に出会えるタクシーは、 単なる移動手段にとどまらない運転手さんが主役の劇場のようだ。
そんな私が出会った運転手さんの中でも、 特に忘れられない人がいる。
もうだいぶ昔の話だ。 たまたま何かの用事で急いでいて、 自宅から最寄り駅までの短距離をタクシーに乗った。 ほんの数キロくらいだったと思う。
運転手はいかにも昭和のオヤジという感じの武骨な男性だった。 行き先を告げると短く返事をして滑らかに走り出した。 短距離で安い客だからあまり嬉しくないのかなと思った。 むっつりとした表情で明るく雑談などするタイプではなさそうだった。
ちょうど私はその時、 とても怒っていた。 めっちゃくちゃぷりぷりしていた。 そう、 ちょうど私はこの時 「アポロ計画陰謀論」 を信じていたのだ。 というか今もちょびっと信じている。 考えてもみてほしい。 あの時に月に行けたのなら何故今は行けていないのか。 最近のアメリカの月計画も度々延期になっているではないか。 当時のコンピュータの性能だって月計画に使われたものすべて足しても現代の PC 一台分にも満たないというし、 今できないことを当時のスペックでできていたというのが疑わしすぎる。 ヴァン・アレン帯をどうやって越えたのかも怪しいところだ。 このメアリー・ベネット / デヴィッド・ S ・パーシー著の 『アポロは月へ行ったのか? Dark Moon 月の告発者たち』 (雷韻出版) に全て書いてある。 (※当時ちょっと流行った陰謀論の本です。 よいこのみなさんは信じないでください ) 全く腹立たしい! 全てはジョン・ F ・ケネディの見栄と嘘とそれを隠し続ける NASA の 「お客さん! お客さん!」
声をかけられて私は我に返った。
急に、 武骨で無口と思っていた運転手が声をかけてきた。 特にルートの確認が必要な場所ではない。 まさか話しかけられると思っていなかった私は、 びっくりして顔を上げた。 たぶん 「きょとん」 を絵に描いたような表情になっていたと思う。
車は赤信号で止まっていた。 「ガム食べます?」 そう言って運転手は、 自分の私物らしき緑の包装紙のガムを一枚差し出した。 昔からある細長いパッケージの板状のミントのガムだ。
「あ、 ありがとうございます」 私が受け取ると、 運転手はまた前に向き直った。 信号が変わり車が走り出す。 私は受け取ったガムの包み紙を剥いて口に入れた。 もそもそと噛む。 どこか遠い思考の世界から、 一気に日常の世界に戻ってきた気がした。 目の前にいるひとのことも忘れて、 ずいぶん遠くに行っていたなぁと思った。 運転手さんが心配してくれるほど、 自分は厳しく思い詰めた顔をしていたのだと気づいた。 急に目の前に広がる世界が、 明るくなった。
あれから何度もタクシーに乗ったけれど、 あの時の運転手さんの不器用な優しさほど忘れられないことはない。 思い返せばいろいろな場面で、 私はたくさんのひとにあのガムのような優しさを差し出されながら生きてこられたのだ。 思い詰めた顔の誰かを見かけたら、 自分もガムを差し出せる人であれたらと、 心からそう思う。

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