たぶんもう十年以上前にはなると思う。 渋谷の駅前にちょっと変わった物乞いのおじいさんがいた。 ハチ公口からモヤイ像に抜ける高架下の薄暗い歩道の端がおじいさんの定位置で、 見かけるときはいつもそこにいた。 その隣にはだいたい、 安っぽく見えるアコースティックギターを抱えて尾崎豊そっくりの声で自作の音程の定まらない歌を歌う、 汚いジーパンに浅黒い顔の三十すぎくらいの男がいた。 どちらかしかいないときも多かったがふたり並んでいるときも結構あって、 妙な存在感のふたりが並んでいるときの雰囲気はなかなかちょっとした近寄りがたさだった。
おじいさんはいつも、 トマトやキュウリなんかの野菜を入れるような長方形の平たいダンボール箱をお賽銭箱のように自分の前に置いて、 地べたにダンボールを敷いて座っていた。 ダンボール箱にはこれまたダンボールで作った看板のようなものが立ててあって、 細い黒マジックで書かれたこちゃこちゃ小さな字が並んでいた。 近くを通る時に読んでみたら 「楽しい男」 と書いてあった。 「私は楽しい男です。 もしあなたが少しお金をくれたら、 私はあなたを少し楽しくできると思います。 楽しい俺は楽しい男。」 というような文言が続いていたと思う。 一字一句正確ではないかもしれないが、 だいたい合っているはずだ。 謎すぎてインパクトが強すぎて、 いまだに忘れられない。
私はそのころ渋谷の商業施設でレジ打ちの仕事をしていた。 仕事帰りに駅前に向かうとだいたい 「楽しい男」 が座っていた。 始めはただの物乞いだと思っていたし、 実際そうではあるのだろうが、 「楽しい男」 の風貌はどこか愛嬌があって、 物乞いをするひとが漂わせる悲壮感のようなものが全然なかった。 普通の物乞いと違って 「楽しい」 を提供しているわけだから哀れっぽさは必要なかったのだろう。 頭頂部はつるつるにはげ、 側頭部にはふさふさもじゃもじゃとした白髪が生えていた。 年老いてはいたが不思議に顔の皺は少なくて肌が艶っぽかった。 表情に笑顔らしきものはなく無表情に近いような、 それでいてなんとなく呑気な空気をまとったような、 そしてちょっとはにかむような顔をしていた。
ある時、 いかにも今時っぽい若い男の子達の集団のひとりが、 ノリみたいな感じで 「楽しい男」 に千円あげているのを見かけた。 私は前々から 「楽しい男」 がいかにして人を楽しくさせるのか気になっていたので、 さりげなくゆっくり通過する風を装いつつ彼等の様子を観察することにした。
若い男の子に差し出された千円札を 「楽しい男」 は丁寧に四つ折りにして、 着古したポロシャツの胸ポケットに大事そうにしまった。 そしてゆっくりよっこらしょとふらふら立ち、 片手をおいでおいでして若い男の子に自分の近くに身を乗り出させた。 男の子の顔が近づくと 「楽しい男」 は彼の片耳に手をあて、 ごにょごにょと何事かをささやいた。
男の子はぽかんとしたような呆れたような顔をした後、 はじけたようにブハッと笑った。 身体を戻して連れの子達のほうに振り返って 「ちょっと楽しくなった」 と言った。 「楽しい男」 と若い男の子は少しの間お互いにニヤニヤしあっていた。 そして男の子達は去っていった。
今でも気になる。 「楽しい男」 はあの時なんと言ったのだろう。 下ネタだろうか。 駄洒落だろうか。 だけどそれは、 たぶん知ってしまったら特にたいしたことはないんだろうな。 あの光景をまるごと思い出すから、 なんとなく楽しくていいかんじがしているだけだ。 だからもしこれを読んだ方で 「楽しい男」 に対価を支払って囁かれたことのあるひとがいても、 その答えは私に教えないでほしい。 きっと私はずっとその光景をそのまま覚えていて思い出して、 そのたびにあれはなんだかよかったなぁと懐かしい気持ちになるのだろう。
そのうち渋谷駅前では小洒落たインディーズバンドやら歌手やアイドルになりたい子やらがキーボードやエレキギターやアンプを持ち込んでバリバリ爆音で演奏するようになり、 そんな奴らと一緒になると 「楽しい男」 や尾崎を歌う男はなんとなく居心地が悪そうだった。 路上ライブをする奴らが増えると駅前を取り締まる警官も増えていって、 夢を持った若者達は何度つまみ出されてもわらわら沸いてきて永遠にいなくならないのに、 「楽しい男」 や尾崎の男はいつのまにかいなくなってしまった。
あの頃の渋谷は今よりもっと汚くてごちゃごちゃしていて治安も悪くて、 だけど 「楽しい男」 のような人もいてもいい、 ゆとりのある街だった。 今の渋谷駅前は再開発が進んでいる真っ最中で、 昔の小学生が描いた未来予想図みたいなシュッとした高層ビルや高架橋が立ち並び、 どんどん綺麗に近未来的になっていっている。 綺麗になる一方で、 「楽しい男」 の存在をなんとなく許していた街のゆとりのようなものは失われてしまった。 東京の街はどこもどんどん汚いものや曖昧なものやいいかげんなものが消えて綺麗になっていく。 つまらないことだ。
「楽しい男」 はもうこの世にもいないかもしれない。 でも彼を思い出す時、 私はいつも少し楽しくなる。 彼はあそこにいるだけで本当に 「楽しい男」 だったのだな。 だけど 「楽しい男」 には無理に楽しくしてやろうというような変なりきみはなくて、 ごく自然体だった。 自分で 「楽しい」 なんて堂々と言い切って、 お金をくれた人に 「つまらないじゃないか!」 とか怒られないといいけど⋯⋯なんて私は勝手に心配していたのだけど、 たぶんそんなことは気にしていないラフな感じがよかったのだろう。
私はあんなふうにごく自然に楽しいひととして生きられるだろうか。 最近はそんなことばかり考えている。 まだまだ年期がたりないけれど、 私もあんなふうに歳をとれたらいいな。
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