夜の雑記帖

連載第16回: 楽しい男

Avatar photo書いた人: 一夜文庫
2022.
12.15Thu

楽しい男

たぶんもう十年以上前にはなると思う渋谷の駅前にちょっと変わった物乞いのおじいさんがいたハチ公口からモヤイ像に抜ける高架下の薄暗い歩道の端がおじいさんの定位置で見かけるときはいつもそこにいたその隣にはだいたい安っぽく見えるアコースティックギターを抱えて尾崎豊そっくりの声で自作の音程の定まらない歌を歌う汚いジーパンに浅黒い顔の三十すぎくらいの男がいたどちらかしかいないときも多かったがふたり並んでいるときも結構あって妙な存在感のふたりが並んでいるときの雰囲気はなかなかちょっとした近寄りがたさだった

おじいさんはいつもトマトやキュウリなんかの野菜を入れるような長方形の平たいダンボール箱をお賽銭箱のように自分の前に置いて地べたにダンボールを敷いて座っていたダンボール箱にはこれまたダンボールで作った看板のようなものが立ててあって細い黒マジックで書かれたこちゃこちゃ小さな字が並んでいた近くを通る時に読んでみたら楽しい男と書いてあった。 「私は楽しい男ですもしあなたが少しお金をくれたら私はあなたを少し楽しくできると思います楽しい俺は楽しい男。」 というような文言が続いていたと思う一字一句正確ではないかもしれないがだいたい合っているはずだ謎すぎてインパクトが強すぎていまだに忘れられない

私はそのころ渋谷の商業施設でレジ打ちの仕事をしていた 仕事帰りに駅前に向かうとだいたい楽しい男が座っていた始めはただの物乞いだと思っていたし実際そうではあるのだろうが、 「楽しい男の風貌はどこか愛嬌があって物乞いをするひとが漂わせる悲壮感のようなものが全然なかった普通の物乞いと違って楽しいを提供しているわけだから哀れっぽさは必要なかったのだろう頭頂部はつるつるにはげ側頭部にはふさふさもじゃもじゃとした白髪が生えていた年老いてはいたが不思議に顔の皺は少なくて肌が艶っぽかった表情に笑顔らしきものはなく無表情に近いようなそれでいてなんとなく呑気な空気をまとったようなそしてちょっとはにかむような顔をしていた

ある時いかにも今時っぽい若い男の子達の集団のひとりがノリみたいな感じで楽しい男に千円あげているのを見かけた私は前々から楽しい男がいかにして人を楽しくさせるのか気になっていたのでさりげなくゆっくり通過する風を装いつつ彼等の様子を観察することにした

若い男の子に差し出された千円札を楽しい男は丁寧に四つ折りにして着古したポロシャツの胸ポケットに大事そうにしまったそしてゆっくりよっこらしょとふらふら立ち片手をおいでおいでして若い男の子に自分の近くに身を乗り出させた男の子の顔が近づくと楽しい男は彼の片耳に手をあてごにょごにょと何事かをささやいた

男の子はぽかんとしたような呆れたような顔をした後はじけたようにブハッと笑った身体を戻して連れの子達のほうに振り返ってちょっと楽しくなったと言った。 「楽しい男と若い男の子は少しの間お互いにニヤニヤしあっていたそして男の子達は去っていった

今でも気になる。 「楽しい男はあの時なんと言ったのだろう下ネタだろうか駄洒落だろうかだけどそれはたぶん知ってしまったら特にたいしたことはないんだろうなあの光景をまるごと思い出すからなんとなく楽しくていいかんじがしているだけだだからもしこれを読んだ方で楽しい男に対価を支払って囁かれたことのあるひとがいてもその答えは私に教えないでほしいきっと私はずっとその光景をそのまま覚えていて思い出してそのたびにあれはなんだかよかったなぁと懐かしい気持ちになるのだろう

そのうち渋谷駅前では小洒落たインディーズバンドやら歌手やアイドルになりたい子やらがキーボードやエレキギターやアンプを持ち込んでバリバリ爆音で演奏するようになりそんな奴らと一緒になると楽しい男や尾崎を歌う男はなんとなく居心地が悪そうだった路上ライブをする奴らが増えると駅前を取り締まる警官も増えていって夢を持った若者達は何度つまみ出されてもわらわら沸いてきて永遠にいなくならないのに、 「楽しい男や尾崎の男はいつのまにかいなくなってしまった

あの頃の渋谷は今よりもっと汚くてごちゃごちゃしていて治安も悪くてだけど楽しい男のような人もいてもいいゆとりのある街だった今の渋谷駅前は再開発が進んでいる真っ最中で昔の小学生が描いた未来予想図みたいなシュッとした高層ビルや高架橋が立ち並びどんどん綺麗に近未来的になっていっている綺麗になる一方で、 「楽しい男の存在をなんとなく許していた街のゆとりのようなものは失われてしまった東京の街はどこもどんどん汚いものや曖昧なものやいいかげんなものが消えて綺麗になっていくつまらないことだ

楽しい男はもうこの世にもいないかもしれないでも彼を思い出す時私はいつも少し楽しくなる彼はあそこにいるだけで本当に楽しい男だったのだなだけど楽しい男には無理に楽しくしてやろうというような変なりきみはなくてごく自然体だった自分で楽しいなんて堂々と言い切ってお金をくれた人につまらないじゃないか!とか怒られないといいけど⋯⋯なんて私は勝手に心配していたのだけどたぶんそんなことは気にしていないラフな感じがよかったのだろう

私はあんなふうにごく自然に楽しいひととして生きられるだろうか最近はそんなことばかり考えているまだまだ年期がたりないけれど私もあんなふうに歳をとれたらいいな


寝る前の読書を愛する本好き。趣味で一箱古本市に出たり、ツイッターで本をオススメしたりしている。人格OverDriveに憧れてダメ元でお願いしたら書かせて頂けることになってしまい震えている。永遠の前座。
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