人生で初めて読んだ本は何でしたか? という問いに、私は答えられない。気がつけば本は私の周りに大量にあって、空気を吸うように当たり前に読んでいた。私は凡庸な人間で大した取り柄はないけれど、本を読むということに関してはサラブレッド並みの素養があったと思う。
どの作品が初めてかなんてもう分からない。こどものともにかがくのとも、ぐりとぐら、ノンタン、どんくまさん、彼らを友達に私は育った。日本昔話以外のテレビアニメは大人達がニュースを見たいという理由で見せてもらえなかったし、マンガはサザエさんしか買ってもらえなかった。けれど私には何の不満もなかった。なんといっても大好きな本の世界は広いのだ。
好きな絵本を何度も何度も読んで、半分お話の中で育ったような浮世離れした子どもだった。小学校入学前にさすがにこいつは異常なのではないかと察知されて知能診断されたが、一応通常の範囲のちょっと変わった子でしょうということで普通学級に入れた。
その頃からだろうか。さすがに本人も自分が普通とはちょっとズレていると感じはじめたのは。私が大好きな本のことを、小学校のお友だちたちは誰も知らないらしい。知らない上に興味もないらしい。こんな面白い本を読んだんだよ! と読後の興奮した勢いで話しても、みんな上の空だ。こんなに面白いのに。みんなにも知ってほしいのに。
私は成長するにつれて、いつしか友達に本の話をしなくなった。さみしくはなかった。他にも楽しい遊びはたくさんある。友達とは公園でたかおにや色おにをしたり、家でぬいぐるみで遊んだりして、五時のチャイムが鳴ってみんなと別れてひとりになったら本を読んだ。あの頃にはその言葉はなかったけれど、子どもなりに「空気を読む」ことを覚えたのだろう。
そうやって歳を重ねて小学校も高学年になったある日、友達何人かと誰かの家に集まった。おやつを食べながら見始めた子ども向けの映画がめちゃくちゃ面白くて、みんなが釘付けになっていた。それを私だけ、みんなとはちょっと違った気持ちで見ていた。
その映画は『長くつ下のピッピ』の実写版だった。あの児童文学の巨匠アストリッド・リンドグレーンの代表作。力持ちで嘘つきでへんてこりんな女の子ピッピが大活躍する爆笑痛快物語。私は『長くつ下のピッピ』が大好きだ。ピッピが好きすぎてわざとそばかすをつくるために日に当たっていたくらい大好きだ。ピッピだけでなくリンドグレーンの岩波書店から当時出ていた児童書は図書館を駆使して全て読んでいた。本好きオタクならば推しの作家の作品を全て網羅するなど当然! 面白いし素晴らしいのだから自然に読めてしまう。映画に夢中になるみんなを見ながら「⋯⋯でしょうね。原作があんなに面白いんだから面白いに決まってるもんね。」と思っていた。我ながら可愛げのない子どもだったと思う。
それから数日後、学校の授業で図書室で本を読む時間があった。といっても、おとなしく本を読む生徒など私くらいしかいなかった。みんな本には目もくれずわいわい遊んでいる。図書室の貸し出しカードがいっぱいになるくらい本を借りるのは私だけで、みんな本なんかに興味はないのだ。図書の時間はいつだってそう。いつもの光景。
そんな中で、この前いっしょに遊んだ子のひとりが棚の前にたたずんでいた。珍しいなと思ってその子のそばにいくと、棚にはあの『長くつ下のピッピ』の背表紙があった。
私に気づくとその子は「これってこないだの映画の本?」と聞いてきた。「そうだよ!」と私が答えると、その子はその日『長くつ下のピッピ』を借りていった。翌週の図書の時間、その子は「これの続きってある?」と私に聞いてきた。明らかに目をキラキラと輝かせて。
私はたぶんかなり誇らしげに『ピッピ 船に乗る』『ピッピ 南の島へ』を教えてあげた。「名探偵カッレくんシリーズも面白いよ。」と付け加えるのも忘れなかった。嬉しそうに本を抱えて、あの子は笑っていた。私はやっと友達が自分の好きなもののよさを分かってくれたことが、嬉しくてたまらなかった。
大人になった今、一箱古本市などというマイナーな趣味にハマり、来てくださったお客さんに本をお勧めしている私は、あの日の図書室の延長線上にいる気がする。大好きな本のよさを誰かに届けたい。ただそれだけでこれからもアホみたいに突っ走っていくのだろう。あの日のあの子の笑顔のような、誰かの笑顔をもう一度見るために。
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