ひさしぶりに、 何の用もないのに通勤帰りに途中下車した。 「なんにも用事がないけれど、 汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。」 とは內田百閒先生の 『阿房列車』 の書き出しで、 何度読んでもいいなぁと思うけれど、 私の放浪癖は百閒先生の影響ではなくて、 百閒先生の作品に出会う前からそういう意味のない散歩をしていた。 百閒先生が乗り物に乗りたいのとはちょっと違って、 私は知らない街をほっつき歩きたいのだ。
通勤定期圏内の途中駅で降りる。 駅を選ぶときは、 本屋や百円ショップや喫茶店など寄りたい店があることもあるけれど、 全く何の目的もないことも多い。 全然目的のない駅にふらっと降りて、 あてどもなくふらふら歩く。 結構長く歩く。 隣の駅まで歩いてみることもある。
目的のない夜の散歩は誰に会うわけでもなく誰とも話さない。 ひとりで黙って黙々と歩く。 音楽などは聴かない。 すれ違うひとの会話や車の往来の音が BGM だ。 誰にも会わないけれど、 誰かがいる気配は感じている。 知らないたくさんのひとの気配や痕跡を感じながら歩く。 知らないひととの距離感はこれくらいがちょうどいいな。
普段の仕事は店員で接客業だから、 対面でひとと話すのに疲れてしまうことがある。 長くこの仕事をしているので仕事中は忘れているけれど、 素に戻れば本来の私は話下手で人見知りだ。 誰とも話したくないときがある。 そんなときにひとりで黙って歩いていると、 自分のリズムを取り戻せるような気がする。 知らない街の夜道を歩く。 マンションや民家の窓から幸せそうな灯りがもれる。 若い頃はそんな灯りを見上げるとすこしさみしい気持ちになった。 今は、 あぁたくさんのいろいろな人生があるんだなぁと思う。
ビルや飲食店や民家をながめながら歩く。 少し古びた建物が私の好みに合う。 規則正しく並んだ公営団地の棟、 民家の壁の釉薬の艶やかな陶のタイル、 アパートの屋根の上の頭のまるい給水塔。 気に入ったら Xperia のカメラで写真を撮る。 後で見返すことはあまりしないけれど、 なんとなく見たことを忘れたくなくて。 その光景をなくしたくなくて。
このところほぼ毎日何かを少しずつ書いていて、 書きながら職場と家を往復するだけの日々を過ごしていたら煮詰まってしまっていた。 もう書くことなんかなんにもないよー! と頭を抱えていたのに、 頭をからっぽにして歩き続けると書きたい言葉が数行ぽつりぽつりと浮かんでくる。 それを大事にしまっておく。 何度も何度も頭の中で繰り返す。
大通りを一本入った道に感じのいい路地をみつけた。 小路の先はゆるい坂になっている。 坂の途中に赤提灯を掲げた昔ながらの居酒屋や飲食店やスナックがぽつぽつと並んでいる。 暗がりに提灯の赤が滲む。
一枚写真を撮りたいな、 と思ったら、 道の端にずっと佇むひとがいる。 自転車にまたがったまま、 ずっととまっている。 背中を丸くしてスマホをみているようだ。 自分の写真にはなるべくひとの姿を入れたくない。 少し待ったけれど全然うごかないので、 そのひとを避けて一枚撮った。
少し先まで行ってみよう。 Xperia をしまって歩きだした。 とまっているひとのそばを通りすぎようとした。 長めのおかっぱのようなぼさぼさした髪の女の子で、 辛子色のコートを着ていた。 近づくと、 声を出して歌っているのが分かった。 異国の言葉のようだった。
留学生なのか出稼ぎのひとなのか、 ずっとスマホから目を離さないから、 母国の動画でも見ながら一緒に歌っているのかもしれない。 幼ささえ残るような若く張りのある高音が高らかに響く。 少し酔っぱらっているようだった。 のびのびとした歌声を背中にあびて私は通りすぎていく。
今日この駅で降りなければ、 この歌を聴くこともなかっただろう。 ささやかな出会いと書き表すのもためらわれるくらいの、 ささやかな出来事。
こういう瞬間のために、 私は今夜もふらふらさ迷うのだ。 そのときだけそこにある、 淡い景色をみるために。