夜の雑記帖

連載第22回: 散歩と歌と

アバター画像書いた人: 一夜文庫
2023.
01.20Fri

散歩と歌と

ひさしぶりに何の用もないのに通勤帰りに途中下車した。 「なんにも用事がないけれど汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。」 とは內田百閒先生の阿房列車の書き出しで何度読んでもいいなぁと思うけれど私の放浪癖は百閒先生の影響ではなくて百閒先生の作品に出会う前からそういう意味のない散歩をしていた百閒先生が乗り物に乗りたいのとはちょっと違って私は知らない街をほっつき歩きたいのだ

通勤定期圏内の途中駅で降りる駅を選ぶときは本屋や百円ショップや喫茶店など寄りたい店があることもあるけれど全く何の目的もないことも多い全然目的のない駅にふらっと降りてあてどもなくふらふら歩く結構長く歩く隣の駅まで歩いてみることもある

目的のない夜の散歩は誰に会うわけでもなく誰とも話さないひとりで黙って黙々と歩く音楽などは聴かないすれ違うひとの会話や車の往来の音が BGM だ誰にも会わないけれど誰かがいる気配は感じている知らないたくさんのひとの気配や痕跡を感じながら歩く知らないひととの距離感はこれくらいがちょうどいいな

普段の仕事は店員で接客業だから対面でひとと話すのに疲れてしまうことがある長くこの仕事をしているので仕事中は忘れているけれど素に戻れば本来の私は話下手で人見知りだ誰とも話したくないときがあるそんなときにひとりで黙って歩いていると自分のリズムを取り戻せるような気がする知らない街の夜道を歩くマンションや民家の窓から幸せそうな灯りがもれる若い頃はそんな灯りを見上げるとすこしさみしい気持ちになった今はあぁたくさんのいろいろな人生があるんだなぁと思う

ビルや飲食店や民家をながめながら歩く少し古びた建物が私の好みに合う規則正しく並んだ公営団地の棟民家の壁の釉薬の艶やかな陶のタイルアパートの屋根の上の頭のまるい給水塔気に入ったら Xperia のカメラで写真を撮る後で見返すことはあまりしないけれどなんとなく見たことを忘れたくなくてその光景をなくしたくなくて

このところほぼ毎日何かを少しずつ書いていて書きながら職場と家を往復するだけの日々を過ごしていたら煮詰まってしまっていたもう書くことなんかなんにもないよー! と頭を抱えていたのに頭をからっぽにして歩き続けると書きたい言葉が数行ぽつりぽつりと浮かんでくるそれを大事にしまっておく何度も何度も頭の中で繰り返す

大通りを一本入った道に感じのいい路地をみつけた小路の先はゆるい坂になっている坂の途中に赤提灯を掲げた昔ながらの居酒屋や飲食店やスナックがぽつぽつと並んでいる暗がりに提灯の赤が滲む

一枚写真を撮りたいなと思ったら道の端にずっと佇むひとがいる自転車にまたがったままずっととまっている背中を丸くしてスマホをみているようだ自分の写真にはなるべくひとの姿を入れたくない少し待ったけれど全然うごかないのでそのひとを避けて一枚撮った

少し先まで行ってみようXperia をしまって歩きだしたとまっているひとのそばを通りすぎようとした長めのおかっぱのようなぼさぼさした髪の女の子で辛子色のコートを着ていた近づくと声を出して歌っているのが分かった異国の言葉のようだった

留学生なのか出稼ぎのひとなのかずっとスマホから目を離さないから母国の動画でも見ながら一緒に歌っているのかもしれない幼ささえ残るような若く張りのある高音が高らかに響く少し酔っぱらっているようだったのびのびとした歌声を背中にあびて私は通りすぎていく

今日この駅で降りなければこの歌を聴くこともなかっただろうささやかな出会いと書き表すのもためらわれるくらいのささやかな出来事

こういう瞬間のために私は今夜もふらふらさ迷うのだそのときだけそこにある淡い景色をみるために


寝る前の読書を愛する本好き。趣味で一箱古本市に出たり、ツイッターで本をオススメしたりしている。杜作品を読み人格OverDriveに憧れている。