新卒で入社した回転寿司チェーンの会社は掃き溜めみたいなブラック企業だった。 朝は十時から夜は終電間際まで働いて残業代は付かず休みは月四日で、 それでも休み月一日の店長には 「四日も休めていいな」 と言われた。 不条理なことにそんな店長は高卒で私は大卒だったので私の給与の方が若干高かった。 嫌味のひとつも出るのは当然だろう。 社員みんな疲弊していて社長や上層部の人達だけ夢見て空回っている感じだった。 会社の理念が 「この世の全ては空である」 だったのは、 後に潰れて跡形もなくなったことを考えたら皮肉としかいいようがない。 就職氷河期でどこも行くところがなくて仕方なく入った会社で、 なんとか一年は辞めずに耐えた。
そんなクソみたいな会社にいた時の話。 郊外のショッピングセンターの中にある店舗にヘルプでしばらく入らされた。 電車で最寄り駅について、 住宅地や畑の並ぶ中を十五分くらい歩くと街道沿いの三階立てのしょぼいショッピングセンターに着く。 働いているパートもバイトもお客さんも地元の人で、 そんな辺鄙な所に社員用アパートのある他の街からわざわざ通勤しているのは私だけだった。 げっそり疲弊した先輩社員を横目に魚を捌き寿司マシーンで寿司を作りレーンに流したり流してカピカピになったものを捨てたり。 新卒一年目で何も分からないこともあったけれど何より私自身に能力もやる気もなく、 社員らしく売上アップのための画期的な施策やなんかをすることもなくパートやバイトに混じって日々の業務を淡々とやって人件費を削り、 家に帰ったらコンビニ飯を食って寝るだけの砂を噛むような日々が続いた。
ある日の朝の通勤中、 店の最寄り駅から歩いていたら、 急に空が真っ暗になり土砂降りの雨が降ってきた。 傘は持っていなかった。 出掛けに天気予報をチェックする余裕もないくらい眠くて何の用意もしていなかったのだ。 近くには住宅ばかりでコンビニもない。 そのまま歩くしかなかった。 もうどうでもいい、 すべてがどうでもいいと思った。
酷い雨の中、 仕方なく急ぎ足で歩いていった。 髪も服もどんどん濡れていくけれど、 そんなことすらもうどうでもいい気持ちになっていた。 疲労で限界の体、 面白くもない仕事、 店員なんて虫やなんかと同じだと思っている客、 社員やパートやバイトとの面倒くさい人間関係、 全てが嫌だった。
「ワンワンワンッ!!」
急に犬に吠えられた。 最悪な上にさらに最悪な状況か。 一瞬どきっとした。 けれどその声には、 威嚇しているような圧が全くなかった。
そちらを見ると、 築二十年以上は経っていそうな落ち着いた邸宅の庭先の柵の上から顔を出して、 毛並みがふさふさのゴールデンレトリバーが尻尾を振っていた。 舌を出して口角を上げた顔は笑っているように見えた。
( よー人間! こんな雨の中で傘もささずに何してんだよ! )
( そっちこそ! こんな雨の中で何で庭に出てるんだよ! 飼い主どうしたの? 雨イヤじゃないのかよ! )
もちろん実際に言葉を交わしたわけではない。 ただ土砂降りの雨にうたれながらお互い見つめあっただけだ。 それだけなのだが、 犬君と私は完璧に何かが通じ合っていた。
そっと手を出すと嫌がられなかったので、 軽く頭を撫でた。 それほど濡れてはいなかった。 庭の奥にある邸宅の窓には明かりがついている。 軒のひさしもある。 広い庭だからどこかに犬小屋もあるのだろう。 犬君はたぶん雨を避けようと思えば避けられるはずだ。 飼い主に閉め出されたわけではなく自分で出てきたらしい。 雨が好きな子なのかもしれない。 私は安心して、 犬君の頭をまた軽く撫でさせてもらってからバイバイした。
あの頃のことは辛すぎて今では全く覚えていないのだが、 犬君と分かり合えたことはいい思い出になっている。 もしかしたら犬君は、 土砂降りの中で傘もささずに歩いている異様な私を見て心配して来てくれたのかもしれない。
あの頃いろいろ辛かったけど、 周りの人達にも優しい人はいたので気遣ってはもらっていたはずだ。 でも申し訳ないけれどそういうことを今の私は全く覚えていなくて、 当時のことを思い出すとあの犬君のことが真っ先に脳裏に浮かぶ。
たくさんの人間の中で揉まれていたりすると、 人間の気遣いがピンとこなかったり寧ろ重たかったりする時があるのだと思う。 たぶん同じ人間同士では癒せない何かがあって、 あの日の犬君はそんな私の何かを癒してくれたのだ。 私には犬君だったけれど、 誰かにとってのそういう存在はハムスターだったり熱帯魚だったり昆虫だったり植物だったり、 あるいは生物でさえなくて鉱石だったりロボットだったり虹だったり風だったり夜空の星だったりもするのかもしれない。
みんなにそんな存在との出会いが、 いつもありますように。