夜の雑記帖

連載第13回: ひとでないもの

アバター画像書いた人: 一夜文庫
2022.
11.19Sat

ひとでないもの

新卒で入社した回転寿司チェーンの会社は掃き溜めみたいなブラック企業だった朝は十時から夜は終電間際まで働いて残業代は付かず休みは月四日でそれでも休み月一日の店長には四日も休めていいなと言われた不条理なことにそんな店長は高卒で私は大卒だったので私の給与の方が若干高かった嫌味のひとつも出るのは当然だろう社員みんな疲弊していて社長や上層部の人達だけ夢見て空回っている感じだった会社の理念がこの世の全ては空であるだったのは後に潰れて跡形もなくなったことを考えたら皮肉としかいいようがない就職氷河期でどこも行くところがなくて仕方なく入った会社でなんとか一年は辞めずに耐えた

そんなクソみたいな会社にいた時の話郊外のショッピングセンターの中にある店舗にヘルプでしばらく入らされた電車で最寄り駅について住宅地や畑の並ぶ中を十五分くらい歩くと街道沿いの三階立てのしょぼいショッピングセンターに着く働いているパートもバイトもお客さんも地元の人でそんな辺鄙な所に社員用アパートのある他の街からわざわざ通勤しているのは私だけだったげっそり疲弊した先輩社員を横目に魚を捌き寿司マシーンで寿司を作りレーンに流したり流してカピカピになったものを捨てたり新卒一年目で何も分からないこともあったけれど何より私自身に能力もやる気もなく社員らしく売上アップのための画期的な施策やなんかをすることもなくパートやバイトに混じって日々の業務を淡々とやって人件費を削り家に帰ったらコンビニ飯を食って寝るだけの砂を噛むような日々が続いた

ある日の朝の通勤中店の最寄り駅から歩いていたら急に空が真っ暗になり土砂降りの雨が降ってきた傘は持っていなかった出掛けに天気予報をチェックする余裕もないくらい眠くて何の用意もしていなかったのだ近くには住宅ばかりでコンビニもないそのまま歩くしかなかったもうどうでもいいすべてがどうでもいいと思った

酷い雨の中仕方なく急ぎ足で歩いていった髪も服もどんどん濡れていくけれどそんなことすらもうどうでもいい気持ちになっていた疲労で限界の体面白くもない仕事店員なんて虫やなんかと同じだと思っている客社員やパートやバイトとの面倒くさい人間関係全てが嫌だった

ワンワンワンッ!!

急に犬に吠えられた最悪な上にさらに最悪な状況か一瞬どきっとしたけれどその声には威嚇しているような圧が全くなかった

そちらを見ると築二十年以上は経っていそうな落ち着いた邸宅の庭先の柵の上から顔を出して毛並みがふさふさのゴールデンレトリバーが尻尾を振っていた舌を出して口角を上げた顔は笑っているように見えた

( よー人間! こんな雨の中で傘もささずに何してんだよ! )

( そっちこそ! こんな雨の中で何で庭に出てるんだよ! 飼い主どうしたの? 雨イヤじゃないのかよ! )

もちろん実際に言葉を交わしたわけではないただ土砂降りの雨にうたれながらお互い見つめあっただけだそれだけなのだが犬君と私は完璧に何かが通じ合っていた

そっと手を出すと嫌がられなかったので軽く頭を撫でたそれほど濡れてはいなかった庭の奥にある邸宅の窓には明かりがついている軒のひさしもある広い庭だからどこかに犬小屋もあるのだろう犬君はたぶん雨を避けようと思えば避けられるはずだ飼い主に閉め出されたわけではなく自分で出てきたらしい雨が好きな子なのかもしれない私は安心して犬君の頭をまた軽く撫でさせてもらってからバイバイした

あの頃のことは辛すぎて今では全く覚えていないのだが犬君と分かり合えたことはいい思い出になっているもしかしたら犬君は土砂降りの中で傘もささずに歩いている異様な私を見て心配して来てくれたのかもしれない

あの頃いろいろ辛かったけど周りの人達にも優しい人はいたので気遣ってはもらっていたはずだでも申し訳ないけれどそういうことを今の私は全く覚えていなくて当時のことを思い出すとあの犬君のことが真っ先に脳裏に浮かぶ

たくさんの人間の中で揉まれていたりすると人間の気遣いがピンとこなかったり寧ろ重たかったりする時があるのだと思うたぶん同じ人間同士では癒せない何かがあってあの日の犬君はそんな私の何かを癒してくれたのだ私には犬君だったけれど誰かにとってのそういう存在はハムスターだったり熱帯魚だったり昆虫だったり植物だったりあるいは生物でさえなくて鉱石だったりロボットだったり虹だったり風だったり夜空の星だったりもするのかもしれない

みんなにそんな存在との出会いがいつもありますように


寝る前の読書を愛する本好き。趣味で一箱古本市に出たり、ツイッターで本をオススメしたりしている。杜作品を読み人格OverDriveに憧れている。