私が高校生くらいの頃、 母親が狂ったように行っていたラーメン屋があった。 近所の古びた商店街にあって、 外観はどこの街にもひとつはあるような古びた汚いラーメン屋だった。 壁は長年の油や煙で黒っぽく煤けて、 鰻の寝床のような店内に細長く伸びたひとつだけのカウンターも椅子もガタがきていた。
その汚い店は並びこそしないもののいつもお客さんで賑わっていた。 私も一度だけ行ったことがある。 母親が偏愛している味噌ラーメンを頼んだ。 しばらくして出てきたそれは、 大量にのった熱々の野菜炒めが湯気をもうもうと立てていた。 ニラにキャベツにモヤシにニンジン。 細長く切り揃えられた野菜は程よくシャキシャキに炒められ、 香ばしい油と焦げを適度にまとっていた。 濃い味噌のスープに中太のちぢれ麺。 口のなかを火傷するくらい全てが熱々で、 それをふぅふぅしながら勢いよくすすりこんだ。 最近流行りの高級ラーメンみたいに凝ったところはない。 ごくごく普通の味噌ラーメンだ。 ごく普通だけれど、 これぞ下町のラーメン屋の味噌ラーメンというシンプルな美味しさだった。
店の名前は 「縄文」 といった。 母親は何かといえば 「縄文のラーメンを食べに行った」 と話した。 仕事が休みの日の昼はよく行っていたようだった。 縄文は繁盛したからか、 あるとき前よりも新しくて綺麗な店舗に移転した。 母親は移転後もしばらく通っていたらしいが、 移転先の立地がよくなかったのか、 最終的には閉店してしまったようだ。 私が社会人になって生まれ育った街を出ている間にいつの間にかなくなっていた。 少なくとも十年以上は前の話で、 いま地域名と店名で検索しても出てこない。
母親はその後もときどき 「縄文のラーメンが食べたい⋯⋯」 とつぶやくことがあった。 店がなくなってしまうと食べたくても食べられない。 ああいう町中華のラーメンというのは、 どこにでもあるようで全く同じものはどこにもないのだ。 あのいかにも下町の味の典型みたいな味噌ラーメンが、 実はどこにもない唯一の味噌ラーメンだったのだと、 失ってから気がついた。 仕方のないことだけれど、 やっぱりちょっとさみしい思いがしたものだ。
それから月日の過ぎた最近のある日。 夕食のときにぼんやりと見ていたテレビでサウナ特集が流れていた。 サウナが好きな芸人さん達の企画で、 あちこちのサウナ施設が紹介されていた。 私は大して詳しくはないがサウナも好きなので、 一緒に見ている母と 「うわぁ暑そうだね」 とか 「ここは有名な所だから知ってる!」 とか他愛もない会話をしながら見ていた。
テレビの話題はサウナ自体から、 施設内の食事処で食べられる美味しいものの情報に移っていった。 今はサウナの食事処でも本格的な料理を出すところが増えているようで、 贅沢な食材を使った凝った料理が次々と紹介されていった。 そんな中に混じって、 ものすごくよくありそうな見た目のラーメンがテレビ画面にアップで写った。 細く切り揃えられた野菜のたっぷりのった、 ニンジンの橙やニラの緑やキャベツの薄緑やモヤシの白が鮮やかに映える、 こっくりした味噌のスープが丼からあふれんばかりのラーメンが、 湯気を豪快にぶわっと立てている⋯⋯。
「あっ! これ縄文の味噌ラーメンだ!」
母がそう叫んだ! そう言われてよくよく見れば、 それは確かに昔あの細長いおんぼろの店内で私がすすった味噌ラーメンにそっくりなのだった。
その味噌ラーメンを出しているサウナ施設は、 かつて縄文があったすぐ近くにある。 どういう経緯であの味噌ラーメンがそこの食事処で出されるようになったのかは分からないが、 もしかしたらかつて縄文で腕をふるっていたひとが、 今はそちらにいるのかもしれない⋯⋯。
もちろんよくある典型的な味噌ラーメンの見た目なので、 もしかしたら全然関係ないかもしれない。 しかし母は 「縄文のだよ! 間違いない!」 と断言した。
そのサウナは男性用の施設だから、 母も私も行って食べることはできない。 でも、
「縄文のなら食べられなくてもいいや。 もう味を知っているからね」
母はそう誇らしげに言っていた。 もう食べられなくても、 あの味がちゃんと残っているということが嬉しいようだった。
うしなわれたと思っていたものが、 まだうしなわれていなかった。 ふとしたときに分かったそのことは、 私と母に思いがけない懐かしさと嬉しさをもたらした。
あの味噌ラーメンを出しているというサウナは最近時々レディースデイをやっていて、 その時なら予約しておけば入れるらしい。 だけど、 そうしてまでそこに食べにいくのは私や母にとっては少し違うかなと思う。 私や母にとっては、 あの味噌ラーメンは縄文の細長いカウンターで食べるものだったから。 ただ、 あの味とあの熱が今日も誰かのお腹を満たしているのだと遠くで思うだけで、 自分も温かく満たされたような気持ちになる。 もう私は食べられなくても、 今日も他の誰かが美味しく食べているのなら、 それでいいのだ。 これからもあの味噌ラーメンが、 たくさんのひとの普通で特別な一杯になっていてほしい。