夜の雑記帖

連載第32回: 極限の経験

アバター画像書いた人: 一夜文庫
2023.
03.23Thu

極限の経験

大学生のときに間違ってワンダーフォーゲル部に入ってしまったワンダーフォーゲルとは戦前にドイツの学生が始めた野外活動で最初はみんなで野山に出掛けて歌を歌ったりしていたらしいワンダーフォーゲルという言葉はドイツ語の渡り鳥なので若者が渡り鳥のように野山を旅するくらいの意味で名付けられたのだろう日本では同じワンダーフォーゲル部 ( 略してワンゲル ) でも学校によってハイキング感覚のところから本気の登山部まで様々で私の母校のワンゲルは若干登山寄りだった冬山登山こそ禁止されていたがそれは過去に死人が出ていたからだ

私は登山にはほとんど興味はなくワンゲルなど存在すら知らなかった本当は落語研究会に入りたかったのだなのに部室棟に行ったら落研の部室は閉まっていて隣のワンゲルには誰かいたので軽い気持ちで覗いたら大歓迎されて旅は好きだからいいかなとそのまま入部してしまった山登りは遠足の高尾山くらいしか経験がなかった本格的な登山の過酷さを身をもって知るのは数ヶ月後の初めての長期夏合宿になるその頃には環境にすっかり慣れてしまっていてしんどいと思っても辞めるという選択肢はなくなっていた

なんだかやたら校内を走ったり筋トレしたりするし先輩達に見繕ってもらって買ったザックの容量は八十リットルもあるしその中にわざと水やら石やらを入れて重くして担がせるし短期合宿ではその状態で山を登らされるしでちょっと山登りするくらいでおおげさだなぁと思っていた完全に山をナメていた夏合宿の期間が予備日を入れて九日間と聞いたときも長い間旅に出られることのほうにわくわくしていたその長い期間を自分で荷を背負って自分の足で歩き通すことの大変さについては全く考えていなかった

この年の夏合宿は少しマイナーで標高も低めの山での縦走だっただから油断していたところもあったかもしれないだがこの合宿で選ばれたルートには標高だけでは測れないキツい箇所があった恐怖の藪こぎルートだ

藪こぎとは登山道のついていない草木の生い茂った藪の中を掻き分けて進んでいくことでこれのキツさはもうやったことのあるひとでなければ絶対にわからない私も事前に話を聞いていた時にもふ~んそりゃちょっと疲れそうだなぁくらいに思っていたその想定の一億倍大変だった

実際に現地に行って尾根に取りついて上がっていくと藪というものは近所の河原の膝くらいの丈の雑草が生えている野原のようなものではなくて胸の高さから背丈を超えるような笹がびっちりどこまでも隙間なく生えている密林のような厳しい場所だった獣道さえロクについていない笹の群れの中を笹を掻き分け掻き分け登っていくそう平地ではなく山なのだ傾斜がついているのだただ笹を掻き分けるだけでも大変なのに傾斜をよじ登っていかなければならないのだ

笹は固くて手で押し退けて登ろうとしても強い力で反発してくる踏み倒して進もうとすれば滑る先を行く先輩が何度も滑り落ちてくる私も何度も滑り落ちるそのたびに笹を掴んで踏みとどまる軍手をはめた手で掴もうとしても笹はつるつるすべる全然進めないそれでも一歩一歩歩くしかなかった

一日目はずっと藪の中を登った藪の中なのでトイレなどない行きたくなったら仲間に告げて誰もいないほうに行って軽く穴を掘って済ませてくるびっちり笹の生えた斜面なのでやりづらいことこのうえないそういう用足し以外でも一時間に一回は小休憩を挟むのだが藪の中なので全然休まらない

夕方にやっと広くて平らな場所に出た冬はスキー場になるところでそこだけは定期的に草刈りがされているようで短く切り揃えられた夏草の平原に止まったリフトがそびえ立っていた平らな地面を普通に歩けるというだけでとても楽だったテントを張って夕食を作って食べる水は貴重で皿は洗えないので飲み水を少し入れて食べ滓をこそげ落としその水を飲み最後に皿をトイレットペーパーで拭く風呂には山を下りるまで入れない食べたら少しの自由時間の後に寝る地べたに張ったテントの中でウレタンマットを敷いて寝袋にもぐり込んで寝るマットを敷いても地面は固くて寝心地は悪いけれど疲れていたのでなんとか眠れた

朝は日が昇る前に起きて朝食をしっかりと摂り朝日が昇るころには歩きだすテントを畳んで平らな地面に背を向けてまた藪の中に入っていくこの日も笹の中を出たり入ったりを丸一日繰り返してじわじわと高度を上げていったその間自分たち以外の誰とも行き合わなかった

三日目の朝相変わらず笹だらけの藪を少し進んだところで急に視界が開けた稜線に出たのだ

峰沿いにはしっかりとした登山道がついていた

歩ける⋯⋯笹の生えていない空間を歩ける⋯⋯!

たったそれだけのことで天にも昇るような心地だった

向こうからザワザワとした人工的な音が聞こえてきた三日ぶりに聞く人間の発する音は風にざわめく笹の葉の音や木々の枝の音とは全く違う異質なものだったたった三日ぶりだというのに何年ぶりかに聞いたかのように思えた音は私たちが向かおうとする道の先からこちらに向かってだんだんと近づいてきたやがて音の主の姿が見えてきた

それはラジオを流しながら早いペースで歩いてくる登山者だったかなり山に慣れている様子の少し年配の細身の男性だちいさくまとまったザックにウエストポーチ白い T シャツにタイトな黒のスパッツ無駄のない動きでさくさくとこちらに向かってくる

こっ! こんにちはっ!

思わず挨拶の言葉が口をついて出た山ではすれ違うひとに挨拶するのがルールだ今までは義務的にしていた挨拶をはじめて自分からしたくて声に出した男性は軽く頷いてすれ違っていった

自分でも信じられないくらい泣きたいような安堵感に包まれたまるで地球に自分たちだけ取り残されたような気持ちになっていたことに気づいた無人島に流れ着いたロビンソン・クルーソーが船を見つけて手を振ったときの気持ちはこんなふうだっただろう

あのとき強く思った自分は全然人間の気配がないところでは生きていけないのだと都市のなかでたくさんの人間に囲まれて暮らすと苦痛もあるけれど全く誰の気配もないところでは私は生きられないのだただすれ違うだけだった知らないひとたち街や駅や大学やコンビニですれ違う無数の知らないひとたちの気配がこんなにも自分に必要なものだったとは

二週間の縦走を終えて山から下りた後世界は私の目に全く違って見えた

食べるものすべてが美味しかったお風呂で身体を洗えることが快感だった地べたにマットと寝袋ではなく柔らかい布団にもぐりこむといくらでも眠れた野糞ではなく綺麗な水洗トイレを使えるのが夢のように便利だったスーパーのおばちゃんもコンビニのお兄さんもマックのお姉さんもありがとうと言ってくれるのが嬉しかった泣きたいほど嬉しかったしばらく何にでも感動しまくって情緒が不安定だった

あのときの極限のような経験は私の価値観やらなんやらを根底から覆すようなものだったあれから社会人になって山の暮らしとはまた別の辛さもたくさん経験した何でも山の辛さと比べたら楽に感じるわけではないいつも無数の他人の気配を気にする店員の仕事をしているといっそもう一度あの藪の中で誰にも会わずにひとりでサバイバル生活をしたいと思うくらい他人の存在に疲れることもあるけれどもあの極限状態を知っているとなんだかんだ人間のなかで暮らすことで自分は守られているのだと思う

そしてもう究極にすべてがいやになったら私は本当にひとりでサバイバル生活もできるだろうと思うテントと鍋釜水の濾過器や野菜の種でも持って人間の入ってこられない無人島や山奥の廃墟なんかに籠っても生きていけるよなぁ生きていればどこでもどうとでもなるよなぁという確信がある腹のなかにそういう変な覚悟があることで妙に気持ちが楽になるときがあるあのときした発狂寸前の苦労も今思えば経験しておいてよかったのかもしれない

だがしかしそんな私が最近うらやましくて妬ましくて仕方ない事柄がある

グランピングゆるキャンですキェーッうらやましい! 私も青春時代にチャラいサークル仲間とキャッキャしながら設備の整ったキッチンでアヒージョとか作って綺麗に草刈りされた気持ちのいい平らな地面で焚き火かこみながら山を眺めながらパーティーしたかったよ! やっぱりしなくていい苦労ならしないほうがいいんだよ! ちきしょー!


寝る前の読書を愛する本好き。趣味で一箱古本市に出たり、ツイッターで本をオススメしたりしている。杜作品を読み人格OverDriveに憧れている。