すみっこやはじっこやフチやヘリがすきだ。 食パンもかまぼこも韓国のり巻きも漬物も切り分けられたはじっこがすきだし、 道を歩く時もどんなに空いていてもはじっこを歩くし、 室内でも壁を背にしてはじっこにいると落ち着く。 電車の座席のカドのところをみんな無言で取り合いしているところを見ると、 はじっこ好きさんは結構多いのではないか。
通勤電車でよく一緒になっていた経理部ベテラン風の太ったおばちゃんは、 毎朝毎朝並んでいる人達を押しのけて電車のドアの真ん前に仁王立ちし、 ドアが開くと同時にいつも座るはじっこめがけて一目散に走っていく。 彼女ははじっこに命をかけているが、 あれはちょっとやりすぎだ。 はじっこを愛する者にはもっと慎ましくあってほしい。 人を押しのける図々しさがあるひとはどこでも堂々とド真ん中にデーンといればいいのに。 コロナ前は毎日のように彼女に割り込まれてうんざりしていたが、 近頃はリモートワークが増えたのか会う頻度が十日に一回くらいになった。 そうなるとちょっとさみしい気もするから不思議なものだが、 たまに会って久しぶりに割り込まれるとやはりイラッとする。
私は通勤電車の席のはじっこはもうおばちゃんに獲られるのであきらめているけれど、 お昼ごはんを食べに行く富士そばやカレー屋や喫茶店や、 仕事帰りに寄る銭湯の湯船にはすきなはじっこの定位置がある。 そこに落ち着けるとうれしい。 特に銭湯の湯船に浸かるときの位置は重要だ。 よく行く銭湯は改装して綺麗になった今時流行りの銭湯で、 広い露天風呂がある。 露天といっても半分以上は屋根に覆われていて、 はじっこの畳二枚分くらいの区画で屋根が切れて空が広がっている。 ここで湯船に仰向けになって夜空を見上げながら風にあたりながらぬるめのお湯に浸かってぼーっとするのが最高なのだ。 そう思っているのはたぶん私だけではないはずで、 だからそこの露天風呂のはじっこはいつ行ってもだいたい誰かいる。
しかしお風呂のポジション争いというのはマイルドなもので、 ちょっと他の湯船に浸かりに行ったりして待っているとそのうち空いているからいいものだ。 お風呂だから長く入っているとのぼせるというのもあるかもしれないけれど、 なんとなくみんな 「ここずーっと一人占めしてたら悪いわね」 と思って無言で譲り合っているふしがある。
そのはじっこでお湯に浸かっているのは、 だいたいひとりで来ているひとが多い。 お友達同士で来て長湯しながらお喋りしている人達は狭いからあまりはじっこにはいないのだ。 ひとりはじっこにいるひとはおばあさまから若い娘まで年代はいろいろだけれど、 思い思いの姿勢で静かにじっと湯に浸かっている。 空を見上げているひとや目を閉じているひと。 それぞれの人生があり、 それぞれの艱難辛苦があっただろう。 しかし今はひととき湯に浸っている。 温まりぼんやりとして、 きっと心穏やかにしていることだろう。 夜風にあたりながらほどよくぬるいお湯に浸かっている時にまで、 ひとは難しいことは考えていられまい。
私も空いたはじっこに浸り、 夜空を見上げる。 途切れた屋根から小さく開いた夜空には星はひとつふたつしか見えない。 それでも見るとはなしにぼんやりと眺めている。 自分の来し方行く末について思いを巡らしながらぷかぷかと湯に浮かぶ。 そのうちそんな思考もゆるやかにほどけていって、 ただ ( あぁ⋯⋯気持ちがいいなぁ⋯⋯天国だなぁ ) としか考えなくなる。
あらゆるはじっこで簡単に幸せを感じられる私は、 ずいぶん安上がりな人間だ。 けれどまぁいいじゃないか。 本人がはじっこが好きなのだもの。 そんな安上がりな幸せをいくつか積み上げるくらいの日常が、 私の身の丈にはちょうど合っているのだろう。 これからもはじっこで慎ましく、 ちいさな幸せをかみしめていたい。