以前書いた私の唯一の特技 「全然知らない街を適当に歩いて良い本屋にたどり着く」 は今日も健在で、 私の脳についている本屋探知レーダーは今日も元気に稼働しているが、 かつて私にはもうひとつ便利なレーダーがついていた。 美味しいお店を発掘するレーダーである。 ふらっと入った店で不味いものが出てきたことはまずない。 どの街に行ってどんなにさ迷っても、 自分の入るべき美味しいお店を自力で見つけることができた。
グルメサイトのクチコミなど私は一切見ない。 私には必要ない。 自分にとって真に美味しいものは自分の足と舌で見つけるべきだ。 そしてその経験によって私のレーダーはさらに研ぎ澄まされる。 だいたいあの誇らしげにクチコミを書き込んでる奴らはどいつもこいつも何も分かってないくせに通ぶりやがって。 私の大好きなラーメン屋にも大好きなパン屋にも☆一つ付けた奴がいる。 ラーメン屋はいつも行列のできる人気店だがどんなに混んでいてもいつも最高のクオリティだし、 パン屋は国産小麦と天然酵母で牛乳不使用なのに完璧な焼き上がりでどのパンもいつも争奪戦になるのに。 味音痴は背脂だのニンニクだの生クリームだの砂糖だので簡単に騙されやがる。 添加物舌で頓珍漢なコメントを書き散らす奴らは永久にファミレスとマックから出なければいいのに。 ミスタードーナツは元々アメリカのチェーン店だったが、 それを知らない奴が唯一残るアメリカのミスタードーナツのクチコミに 「モチドーナツ ( たぶんポン・デ・リングのこと ) がない」 と書いて☆一つ付ける。 ゲイシャコーヒーは高級豆のブランドだが、 知らない奴が専門店の前で 「インバウンド客に媚びやがって」 と大声で話す。 人間は自分の狭い知識の中で簡単に勘違いする。 その勘違いを気軽に全世界に向けて発信することの怖さと恥ずかしさを我々はもっと認識するべきだ。 ⋯⋯とさんざん毒づいてしまったが、 実際クチコミなんて当てにならない。 店側に与える結果も考えず何でも気楽に書き込んで平気でいられる神経の人間の書いたことなんて、 そいつのその時の一時的な気分でしかないかもしれない。 たまたま体調が悪くて味覚が鈍っていたりとか、 もしかしたらホルモンバランスでも乱れてイライラしていた奴のただの八つ当たりかもしれないのだ。 プロの料理人でもない素人さんの気分に何の根拠もない。 その書き込んだ奴らの好みと私の好みは違うのだ。 自分の足で行って自分で味わってみなければ、 自分にとって本当に美味しいかどうかなんて分からない。
そうやって自分の足と舌で培った私のレーダーは外れない!外れるわけがない!⋯⋯と思い込んでいた。 そう、 あのラーメン屋に入るまでは⋯⋯。
ある日、 家族が全員出かけていたので、 それならひとりで外食しようと近所の商店街に出かけた。 そういうときにたまに行く美味しい居酒屋があるのだ。 昔ながらの木造の古い二階建ての店は黒光りする年季の入った木戸を開けて入るのに一瞬ためらうが、 入りさえすれば極上の美味しいものパラダイスが広がっている。 一応看板はトンカツ屋ということになっているのだが、 刺身も煮物も天婦羅もある。 そして何を頼んでも旨い。 私はあんまりお酒は飲めないけれど、 ここで梅干しハイを一杯頼んで自家製塩辛や空豆やアジの刺身や桜エビの天婦羅をつまみ、 最後カニクリームコロッケかカツカレーでしめるのが最高なのだ。 今日は何を食べようか。 新しいメニューを開拓してもいいな。 旬の食材も入っているかも。 そろそろ朝晩は冷え込む季節になってきたから、 もう白子やあん肝もあるかもしれないな。 あぁ楽しみだなぁ⋯⋯。
のんびりと自転車を漕いで店の前まで行くと⋯⋯ちょうど大将がのれんをしまっているところだった。 コロナの影響で時短営業をしている時期だったのだ。
呆然と自転車を止めた私の前で、 のれんを抱えた大将の背中が店の入口の木戸に吸い込まれていった。 扉が閉められ看板の照明が落とされた。
⋯⋯私の塩辛、 ほどよく漬かった塩辛⋯⋯丸々一匹ぶん姿造りになって出てくるアジの刺身⋯⋯揚げたて熱々カリカリの桜エビの天婦羅⋯⋯あったかもしれない白子やあん肝⋯⋯とろとろサクサクのカニクリームコロッケ⋯⋯うぅ⋯⋯さ、 さようなら⋯⋯。
ガックリと肩を落とした私は、 また自転車にまたがった。
脳内では完璧にあのカニクリームコロッケの味が再生されていたのに⋯⋯。 完全に当てが外れた。 これからどうしよう。 私はとりあえずふらふらと自転車を走らせた。 目的地なんてない。 全くノープランだ。
適当に走っていると、 少し先の小道の端にやけに古ぼけた平屋の建物があるのが目に入った。 白いのれんが出ている。 どうやら飲食店らしい。 それにしても古い建物だ。 築三十年は超えているだろう。 気のせいか少し傾いて見える。
自転車を走らせて近くまで寄ってみる。 庇の上に掲げられた看板にはペンキの文字のくすんだ 「◯◯軒」 という店名。 金色の金属製の格子戸に曇り硝子のはめられた扉と窓。 昔ながらのラーメン屋のようだ。 もしかしたら隠れた老舗の名店かもしれない。 何しろこんなに建物が傾くくらい長く営業しているのだから。 そのわりにのれんは白くて綺麗なのが店のプライドを感じさせる。 よし! ここで出会ったのも何かの縁。 今日の夕御飯はここにしましょう。
ガラガラガラ⋯⋯と金属の戸を開けた。 ⋯⋯閉めたくなった。
綺麗なのは外ののれんだけだった。 くすんだ壁紙はいたるところ染みだらけ。 狭い店内に五つほどあるテーブルは、 そのうち四つがモノに埋もれていた。 食器、 鍋、 書類らしきもの、 新聞紙の山、 漫画雑誌の山、 灰色がかった脱ぎっぱなしの白衣、 飲みかけのお茶の入った湯呑み、 吸殻いっぱいの灰皿、 収納用に使われている様子のいくつも積み上がった贈答品のお菓子やお茶の空き箱らしき紙箱は色あせている。 かろうじて客席としてひとつ開けられたテーブルの上に、 黄ばんだプラスチックの割り箸立てと、 薬局で売っている一番安いボトル入りのアルコール消毒液⋯⋯。
ここは絶対にヤバい。 私のレーダーが異常を感知している。 さっきの隠れた老舗の名店かも反応はエラーでしたと表示されている。 脳内で激しい警告音が鳴り響いている。
だが扉を閉めて帰ることは私にはできなかった。 開けた瞬間、 ちょうど店内奥の厨房らしき暗がりから出てきた店主と目が合ってしまったからだ。
「⋯⋯いらっしゃい!」
一瞬ちょっとビックリした顔だった店主は、 すぐにすごく嬉しそうな顔になり、 私にただひとつ空いた席を指し示した。
「⋯⋯どうも⋯⋯⋯⋯」
どうみても七十歳は過ぎている店主のおじいちゃん。 一応かぶっている厨房用の紙のコック帽の下はたぶんつるっぱげだろう。 ラーメンの栄養のおかげか少しぽっちゃりめの体型でしわしわの顔を笑顔でもっとしわくちゃにしている。 左上の犬歯が一本抜けている人の良さそうなその笑顔を見てしまったら、 素直に座る以外のことは私にはできなかった。
席はひとつしか稼働していないというのに、 メニューは店内のいたるところに貼られていた。 元は白かったであろう黄ばんだ紙に少し角ばった字で黒マジックで手書きされている。 ラーメン四百円、 ワンタンメン五百円、 チャーシューメン七百円、 ギョーザ二百円。 安い。 いつからお値段据え置きなのだろう。 安すぎて怖い。
いつもの私ならワンタンメンを頼むところだ。 ワンタンのつるつるの皮が大好きだ。 ぷりぷりの具も大好きだ。
「⋯⋯ラーメンください」
「あいよ!」
ワンタンは大好きだがそれは、 普通のラーメン屋のものに限る。 ここで頼んでまともなワンタンメンが出てくる気がしない。 安全策を取った。 返事は元気な店主だったが、 ふらふらよろよろと厨房に向かう足取りはめちゃくちゃ頼りなかった。
ラーメンを待つ間、 私は祈った。 ちゃんと食べられるものが出てくることを祈った。 店内の様子はなるべく視界に入れないようにした。 不安が増すからだ。 あと何か見てはいけないものを見てしまいそうだからだ。
しばらく待った。 永遠に感じられたとまではいかないが、 ラーメン一杯のみのわりには結構待った。
「はいぃぃぃラーメン! お待ちどおぉさま」
いそいそと店主が両手で丼を持ってきてくれた。 幸いにして指が汁に浸かっているような昭和のベタなスタイルではなかった。 大丈夫かも⋯⋯と一瞬安心した私は、 丼を覗いて固まった。
これは醤油ラーメンだろうか? それとも味噌ラーメンだろうか? 醤油と味噌の中間のような濁った赤茶色の液体が丼を満たしている。 ウチの肉じゃがの煮汁はこんな色だな。 真ん中に乗ったナルトは普通のナルトで安心感を覚えるが、 散らばったメンマがどす黒い濃い色をしている。 褐色にほんのり緑掛かった小さいチャーシュー片が一枚浮いている。 一枚だけでよかった。 チャーシューメンにしなくて本当によかった。
店主のおじいちゃんはうきうきした足取りで、 飲みかけのお茶と書類で埋まったテーブルに座って新聞を広げた。 こちらのことは放っておいてくれる方針のようだ。 しかし何となく気遣わしげな気配を感じる。 全然食べないで出ていったら、 おじいちゃんは泣いてしまうかもしれない。 こうなったら腹をくくるしかない。
色褪せた箸立てから割り箸を取って割った。 麺をすすってみる。 ちゃんと温かい。 ごく普通の中太麺だ。 スープもレンゲですくってちょっぴり飲んでみる。 たぶん醤油ベースだと思う。 やっぱり肉じゃがの煮汁のような、 ほんのり甘い味のような気がする。 薄くてよくわからない。 というか味わいたくない。 舌が全力で詳細な味を感知するのを拒んでいる。 チャーシューをかじってみる。 火を通した肉の繊維の風味がするからどうやら大丈夫だろう。 メンマを一本かじる。 メンマとは元々そういうものかもしれないけれどやけにヌメヌメしている。 もう一本箸でつまむ。 何か白い粒々がついているけどこれは旨味成分の塊なのか、 それとも⋯⋯。 いや、 これはもうやめよう。 スープの底に沈めておこう。
とにかく麺だけは全部食べた。 その間の記憶はあまりない。 思い出したくない。
「ごちそうさまでした!」 とおじいちゃんに四百円払って、 私はゆっくり戸を開けて外に出た。 そして自転車に飛び乗って全速力で家に逃げ帰った。
家に帰って正露丸を飲んで半泣きで寝た。 絶対にこの後おなかが大変なことになると思った。 まだ何の症状も出ていないのに正露丸を服用したのは私のこれまでの人生でこの時だけである。
そして翌日⋯⋯私のおなかはなんともなかった。 正露丸が効いたのか、 私が丈夫すぎるのか、 実はあのおじいちゃんは店内を片付けるのは下手だがラーメンはちゃんと衛生的に作れる人だったのか。 今となっては分からない。 もう永久に分からない。 分かりたくもない⋯⋯。
それから数ヶ月後、 あの日のトラウマもだいぶ癒えた頃、 私はたまたまあのラーメン屋の前を通り掛かった。 そして衝撃の光景を目にした。
ちょっとくたびれた服装のおじさんがあのラーメン屋まで歩いてきて、 ひょいとのれんをくぐって戸を引いて、 慣れた様子で入っていったのだ。 それはごく普通の常連客がするような、 ごく自然な所作だった。
あの店に通っている客がいるなんて⋯⋯。
私には衝撃が大きすぎたのだが、 しかし確かに誰も客が来なければ店は潰れているだろう。 安さが理由なのか何なのか分からないが、 あの店にもちゃんと客がついているのだ。 少数の稀有な常連客によって、 あの店は細々と支えられているのだ⋯⋯。
ところで私が激しく憎むグルメサイト書き込み野郎たちは、 うっかりこのような店に入ってしまったらどうするのだろうか。 たぶんまず戸を開けた瞬間に閉めて帰ると思うのだが、 もし私のように帰れずに食べるハメになったとして、 彼らは☆一つ付けてクソミソに酷評できるのだろうか。 私はできないと思うのである。 もう明らかに飲食店としての営業を終了している店の、 弱者らしきおじいちゃんにトドメを刺すことなど、 奴らにできやしないだろう⋯⋯。 だからクチコミなんて、 全然あてにならないのだ。
そんなわけで、 私の 「美味しいお店を察知するレーダー」 はこのラーメン屋の衝撃で壊れた。
壊れたというか、 外食すると美味しくなくはないけど注文を間違えられたり食べたいメニューが品切れだったりといったトラブルにあうようになってしまったのだ。 それくらいならまだいいのだが、 回転寿司でネギトロを食べたら冷凍パックの一部であろうビニール片が入っていたり、 カレー屋でラッシーを飲んだらスチールタワシ片が入っていたりと、 異物混入にも頻繁に遭遇するようになった。
これはもう理屈ではなく験担ぎのようなものでしかないのだが、 とんでもない外食貧乏神に取り憑かれてしまった気がする。 どうしたら元に戻るのか分からない。 もしかしたらもう一度あのラーメン屋に行ったら衝撃でまた元に戻るのかもしれない。 でも⋯⋯。
一生センサーが直らなくてもいいから、 もう二度とあのラーメンは食べたくない。
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