夜の雑記帖

連載第9回: 蠢毒の坩堝

アバター画像書いた人: 一夜文庫
2022.
11.03Thu

蠢毒の坩堝

あまり気はすすまないが、読んできた話をしたら書いてきた話もしたほうがいいだろう。始めに断っておくけれど暗い話になる。何故かここで書かせて頂けることになった私だが、さすがに経験ゼロでこの美しいサイトに突撃できるほど無謀ではなかった。他でそれなりに長く書いていたので、多少の勝算はあったのだ。

本が好きな人の多くは、だいたいどこかのタイミングで何かしら書き始めることになると思う。私も子どもの頃からノートに何か詩のようなものを書いていた。小説を書こうとしたこともあったけれど、プロットも思い浮かばなければ登場人物が勝手に動き出したりもしなくて挫折した。でも学生の時に作文のたぐいを書かされるのは全く苦ではなく、むしろ楽しかった。大人になってウェブで簡単に文章を書けるようになってからは色々書いた。書評サイト「本が好き!」がいちばん長く七年間くらいは書いていて、当時の仲間には今もツイッターでお世話になっている。あのサイトは本当に本が好きな方ばかりで居心地がよかった。そして、これは誰にも話したことのない黒歴史なのだけれど、一瞬だけカクヨムで書いていたこともあるのだ。このときのことは本当に思い出したくもない。

カクヨムはジャンルとしては様々なものを扱ってはいるが、勢いがあるのはライトノベル系の小説だろう。だが私は小説は書けないのでエッセイを書いていた。書いたものは一応まだサイトに残してあるが、絶対に探さないでほしい ( 名前が違うので見つからないとは思うが ) 。生物学的に女であることを利用して ( しかし実際の私は半分おっさんが入っている。そんなガサツで粗野で背脂豚骨ラーメンが大好きな私がパンケーキとか食ってそうな女らしい女を装って ) 、エステで全身脱毛してケツ毛を剃られた話なんかをきわどく盛って書いたりしていたから。

カクヨムでエッセイなんて過疎地だろうから読まれても二、三人だろうし、たまたま見てくれた人が楽しんでくれればいいな、くらいの気持ちで書いていた。それが意外なことに、少しずついいねの数が増え、肯定的なコメントがつくようになった。思いがけず嬉しくて、私はせっせと書くようになっていった。いいねの数は徐々に増えていき、真面目に書いていた当時で五十いいねを越えるくらいだった。

そしてあれが訪れる。そう、ちょっと伸びた何かには必ず付くあれ。アンチコメント様。カクヨムの過疎ジャンルでたった五十いいねの私にすら、あれはもれなくやってきた。

アンチコメントといっても色々あって、遠くから「羨ましい~!」とか「べ、別に羨ましくなんかないもんねっ」とか言っているレベルのものは幼稚園児がアカンベしてるようなもので全然気にならないし何なら気づかない。そんなの誰だって言いたくなることだし私もこないだ冗談のつもりで言っちまった ( ごめんなさい ) 。そしてもちろん内容の誤りや改善についてのアドバイスなどは必要なことだ。しかし巧妙なアンチコメントは、そのようなアドバイスを装って、実際は書いた人間を傷つけたいだけの文章の中身なぞまるで理解していないトンチンカンな内容をさももっともらしく押しつけてくる。

本気のアンチコメントは、出刃包丁を持って心臓めがけて一直線に向かってくる通り魔のようだ。あれは本当に痛いし、鬱陶しい。ほぼ全話に重箱の隅をつつくようなご指摘コメントを入れたり、頼んでもいないのに勝手に校閲を入れるかのように細かい言い回しを執拗に訂正してきたり、わざと余韻を持たせてぼかしたところをはっきり書けと言ってきたり。「きわどい描写が書ける女性はいくらでもいる」なんていうのもあったっけ。お説ごもっともですが、じゃあそう仰る御本人はどれくらい稀有な個性の持ち主でいくらでもいない唯一無二の文を書いているのかしらと見に行ってみれば、全然いくらでもいるド普通の文だったぞ。

アンチコメントをくらうたびに心臓が縮み脳天を殴られたような気がした。肉体的な傷はないのに、確かにどこかがズキズキと痛んだ。私のくらったコメントの数などたかが知れているけれど、それでも痛かった。だから私には叩かれる痛みがほんの少しだが分かる。私ごときでもあんなに辛かったのに、私よりももっと書ける書き手さん達はきっとあれ以上のものをもっとたくさん大量にくらって、それでも書き続けているのだ。その強さを心から尊敬する。

私はコメントを書き込んだ人すべての書いているものを読みにいった。アンチコメントを書き込んだ奴で私より面白いものを書いていた奴は、誰ひとりいなかった。断言できる。全員もれなくつまらなかった。他人にコメントする前に自分の書いているものを何とかするがよかろうと思った。やつらのしていることは時間の無駄だし努力の方向性が間違っている。

それでも指摘にごもっともな点もあったので、私はいちいちコメントに返信した。私はめちゃくちゃ性格が悪いので嫌味のつもりでもあった。仕事のクレーム処理のノリで丁寧に返信した。「そんなつもりじゃなかったんです。面白くなければ読まないです。」「私には書けないから羨ましかったんです。」という意識高い返事がかえってきて笑った。あれだけ露骨に人を刺しにきておいて、自分が悪者にされそうになったら涙目で謝ってくるんだもんなぁ。

最終的には私はもう面倒くさくなって「自分はカクヨムの皆様のレベルの高さについていけないので、もう書きませ~ん」と宣言して書くのを止めた。その瞬間、一番酷く私に粘着していた人はコメントを全消しして逃げた。こいつはいろんなところでこういうことをしては逃げているんだろうなと思った。あいつらは出る杭を打つためならどんな努力も惜しまないのだろう。ゲイ作家のもちぎさんはたびたび殺害予告をされているそうだが、ああいう連中なら平気でやるな。そのやりくちをほんの少しだけでも体感した私には、それが実感として身に迫って分かった。

蠢毒という呪術を思い出す。蛇やらムカデやら百の怖い生き物を同じ容器に入れて共食いさせ、最後に生き残ったものを神霊として祀る。その毒が人を殺す。カクヨムで蠢くアンチコメント吐きの無能どもは蠢毒のために容器に入れられて喰らいあう虫のようだ。互いに汚い言葉で殴りあい、ますます毒を深めていく。その最強の毒は果たして、いつか素晴らしい作品として結実するのだろうか。

そうして私はカクヨムを捨てた。以降、どこにも書く気がしなかった。けれど心の隅には、どこかで書きたいという思いがあった。そしてここにたどり着いた。

ここで変な雑文を書いている私は、とてものびのびしている。書く喜びに満たされている。

ここで書いていると、自分の言葉が大切に守られていることが分かる。そのことに甘えてしまわずに自分の書ける最高のものをぶつけていこうという緊張感を常に持つことができている。私はまだまだ力不足だし凡庸なものしか書けないけれど、それでも全力を尽くして書こうと思える。

ここにはあんなひどいやつらはこない。読むことや書くことが純粋に好きな人が集まってきている。私はここに集う方々を仲間だと感じる。活字を通じて互いに高めあっていける存在だと信頼している。そしてもしも私が何かの拍子に、読むに耐えないようなクオリティのものや誰かを傷つけるようなものを書いたら、ここに集う皆さんは私を正しいアドバイスでちゃんと叱ってくださるだろう。それが私にはとても安心なのだ。

ところでカクヨムを放置して一年くらい経ったある日、コメントの通知がきた。見に行ってみると「脱毛の予約を入れたけど前日に怖くなって検索したらここにきました! 私でも大丈夫そうって安心しました。ありがとう!」というコメントがついていた。

そのひとことで全てが報われた気がした。ケツ毛をむしられたかいがあったものだ。たぶん私は彼女たったひとりのためにあれを書いたのだ。私にはそれだけで、もう十分うれしいと思えたのだった。


寝る前の読書を愛する本好き。趣味で一箱古本市に出たり、ツイッターで本をオススメしたりしている。杜作品を読み人格OverDriveに憧れている。
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