『GONZO』 の連載が人格 OverDrive で始まった時、 第一回目を読んで、 これは小説の書き出しとして最高に理想的だ! 美しい⋯⋯と思った。
そして、 姫川尊は、 顔以外ほぼ私だ !! と思った。
姫川尊は超絶美少年なのに性格が悪すぎてクラスで噂と嘲笑の的にされている。 私は残念ながら超絶美少女や美女だったことなど生まれてこのかた一秒もなく、 地味で印象の薄いブスのくせに目になんとなく狂気を含んでいて太宰治の 『人間失格』 の主人公葉蔵のような気持ち悪い不自然さを常に漂わせている。 なので姫川尊とは外面は似ても似つかないのだが、 性格は悪く空気も読めずコミュ障でどんくさくて、 それがあまりに酷すぎて中学生の時にクラスで超絶浮きまくっていた時期があった。
クラスメイト達は毎日私のいるすぐそばでばんばん私の悪口を言っていたし、 私を嘲笑う笑い声が常に聞こえていた。 こう書くとまるで統合失調症の症状による幻聴みたいだが、 そういうのを私以外の人もちゃんと聞いていたので、 本当にガチでリアルに毎日めちゃくちゃ言われていた。 あまりにも私がネタにされすぎていたためか、 全然知らない他のクラスの人に 「あ~~! ◯◯◯子さんだ! ◯◯◯子さ~ん! あはは~ !!」 とフルネームを連呼されて笑われたこともあった。
それをいじめだとは私は思っていない。 あの頃の私はそうされても仕方ない立ち回りの下手さや要領の悪さやどん臭さやダサさがあった (今もそうだけど)。 周りの子達に迷惑をかけている自覚もあった。 だから当時は黙って耐えていたのだが、 なんだかある日突然担任が私のことでクラス全員にトンチンカンな説教をして、 その翌日、 クラス名簿の私の名前に憎しみを込めて塗り潰すように赤マジックで線が引かれていた。
担任が卓上でその名簿を高々と掲げて説教しているのを聞きながら、 私は (ほんとこいつ教師むいてねーな。 もう放っておいてくれよ⋯⋯) と思っていた。
姫川尊のいた教室の空気は、 まさにあのときの私がいた教室の空気と同じだった。
杜昌彦という作家はダークなアクションシーンを描かせたら滅茶苦茶カッコいい。 もちろん 『GONZO』 のアクションもカッコいいし登場人物のブッ殺し方にも華があって (って物騒な表現をしてしまったが、 アクション物には大事な要素ですから⋯⋯) そこに定評があると思うのだが、 私は実は、 人物の細かい心理や人間関係を描写するのも巧みな作家だと思っている。 どの作品を読んでいても、 こういう人いるなぁ、 こういう関係性ってあるなぁとリアルに感じるシーンがたくさんある。
あのシーンの学校の空気は、 学校で居心地の悪い思いをしたことのある人なら、 みんな知っている。 本当にああなのだ。
普段は意識していないけれど、 私の胸の奥底にはずっと、 あの日たくさんのクラスメイトの中にいてひとりぼっちで名簿の自分の名前に引かれた真っ赤な線を見上げている私がいる。
あの時は、 こんな思いをしているのは私だけだと、 ただただ孤独で悲しかった。
だけどあのシーンを読んで、 あぁ学校であんな思いをしていたのは、 きっと私だけじゃなかったんだな、 と分かった。 私の中のひとりぼっちのちいさな私の肩を誰かがそっと叩いてくれたような気がした。
冒頭の学校の話だけで長々と書いてしまったが、 実際作中では度々学校のあの空気の話が繰り返される。 それは物語の語り手である 「わたし」 が生きる社会にもまた、 あの空気があちこちに漂っているからだろう。 学校は社会の縮図とはよく言ったものだ。 語り手の 「わたし」 がゴンゾとミコトの顛末を追い、 推測し語るのは、 そんな世界で生きる鬱屈への答えを探す行為であるかのように私には思えた。
学校の場面だけが物語を占めるのではなく、 それは全体からみればほんの一部だ。 逃亡劇としてのアクションにはすっきりさせられるし、 逃亡先で姫川尊が幾人もの大人たちに出会っていく様子や、 その大人たちの持つ傷や歪みも生々しさを伴って胸に迫ってくる。 私は特にミコトが肖像画を描くことになる女性の過去に胸を打たれたが、 ミコトに銃の打ち方を教えた箱沼やゴンゾとミコトを独断で追った警官深津の歪みにも強い印象を受けた。 ひとのさびしさ、 あるいは目を背けたくなるような人間の闇をも、 杜氏はまっすぐに描いている。
ミコトは自分の生きてきた世界ではない場所やひととの出会いを通じて成長したはずだ。 物語のあと、 彼はひとりでもきっと強く美しく生きていったに違いないと私は思う。 ゴンゾや何人ものひとから得た技術や知識や感情や思い出を、 きっとずっと持ったままで。
杜氏はこの作品を失敗作だとあちこちで書いているが、 私にはそんなふうにはとても思えない。 私の過去を救い、 誰かの哀しみを伝えてくれた、 今でも私の胸を打ち続ける痛快かつほろ苦い物語なのである。
先日、 私が杜氏の初期作品 『崖っぷちマロの冒険』 の感想をツイッターでつぶやいたら、 杜氏は 「崖マロはこれで成仏できました」 と言ってくれた。 けれど、 先に成仏させてもらったのは私のほうなのだ。
それなのにあぁそれなのに! 杜氏はツイッターで自作を 「失敗作」 だの 「若書きのゴミ」 だの酷い言い様で、 全くこれだけ人を救ったり楽しませたりしておきながら何を言うのだアッタマくるなぁ! なるべく痛くなるように分厚さに定評のある広辞苑の角で思いっきりぶん殴ってやりたいわ! と思うけど、 そういうネガティブなところも杜氏の良さなので、 これからも思う存分好きなだけ言ったらいい。 読者はもう慣れました。 なんかもう最近はそういうところがかわいく思えてきた。
杜氏が何回何十回何百回ネガティブに陥ろうと、 一読者である私の評価は変わらない。
『GONZO』 は美少年と殺し屋の逃亡劇で、 現代の空気を絶妙に描きつつスカッとするアクションシーン満載の娯楽作品です。 最後の終わり方も潔くて好きだった。 杜氏は失敗作失敗作言ってたけど全然失敗作じゃないっつーーーの !!! 面白いよ! もっと自作を大事にしてください! ボカッ! (←広辞苑で殴った音)