今年の春まで 『夜の雑記帖』 を書いていた頃の私は、 ちょっと、 いやかなり、 どうかしていた。
この美しいサイトに自分の文章が載ることが、 尊敬する作家や周りの仲間に自分の文章を読んでもらえることが、 執筆者仲間ができることが、 嬉しかった。 それは甘美な蜜のようであり、 毒薬のようでもあった。
毎日文章のことを考えていた。 隙あらばスマホをポチポチしていた。 私はフリック変換ができないおばさんなので、 一昔前のギャルの如く高速で画面を連打していた。
元々汚かった部屋の掃除はますます後回しになった。 仕事中でも我慢できなくてスマホをチラ見する時間が増えた。 積読は読む暇がなく積み上がり、 口元に薄らヒゲは生え放題、 T シャツを後ろ前に着てジーパンのチャック全開で勤務先の店に立ち、 お客のおばちゃんに 「そちらの柄のチュニックのほうがお似合いですよ」 なんて言っていた。 全く説得力がない。
それでも私は書くことに、 必要以上にのめりこんでしまった。 自分の実力を見誤った。 そして、 この春、 酷い過ちを犯してすべてをなくした。
私はもう、 ここで書いてはいけないのだと思った。
そのあとはしばらくぱったりと書けなくなった。 無理やり毎日 note に書いたりしたけれど、 だめだった。
連載中の自分の文章を、 夜中にそっと見にきたこともあった。 自分で書いたはずなのに、 どうやってこんなものを書いていたのか分からなかった。 自分から出たものと思えなかった。
私は本好きなので、 どうしても人生のいろいろなことを物語と比べたり物語で例えたりしてしまうのだけれど、 私の人生が私の物語だとするなら、 物語のクライマックスはもう終わってしまったのだと思った。
私は物語の結末のその後の日々を生きている。 作品として描かれるなら真っ先に切り取られるような無為な日々を生きている。 あれからずっとそう思っていた。
現実を生きる人間は、 その後の日々をスキップできない。 しんどい時間を 「あれから十年後」 なんてすっとばせたら、 どんなにいいだろう。 そんなふうに思っていた。 それでも日々を過ごしていれば、 スキップしなくても自然に時は経つ。
気がつくと私は、 仕事仲間やお客さんと笑って話していた。 本を何冊も読み古本屋やブックオフをハシゴしていた。 銭湯や健康ランドに行きまくった。 旅に出たくなって、 ずっと行きたかった街に行ってフラフラした。
派手なクライマックスなどなくていい。 華やかな日々が終わってしまってもいい。 その後のなにもないような時間もしっかり生きることが、 実は大切なんだと分かった。 そんな暮らしのなかにも喜びがあることを。
連載をしていた頃の私は、 りきみすぎていた。 がんばろうとするあまり、 周りもみえなくなり、 自分の力量も見誤り、 空回りし、 みんなに過度に甘えてしまったりご負担をおかけしたりご迷惑をおかけしたりしてしまった。 いま思い返せば大変に申し訳ない。 あの頃の私は、 本当にどうかしていた。
すこし書くことから離れて落ち着いて、 やっとそれが分かった。
この連載が途中のままだったことはずっと気になっていた。 恐る恐るログインしてみたら、 まだ入れてもらえるではないか。 ではこっそり書いてみよう。 ダメならもう、 私の駄文などまるごと消して頂いてかまわない。 掲載に際して多大なお手間をおかけしたことにはずっと感謝してもしきれないから、 そのお仕事の結果の美しい表示が消えるのはさみしい。 けれど私は自分の書いたものには執着がない。 自分の書いたものに関してはぜんぶなくなってもかまわない。
今日はそれを書いておきたかった。 もしここにある私の駄文がぜんぶ消えても、 私はもう大丈夫。
だけど私は、 私のいいと思う文章を書くひとには、 書き続けていてほしい。
つくづく分かった。 書き続けることは大変なことだ。 どんなに書くことが楽しくて書き始めたとしても、 つらくなることがある。 そしてそうなったとき、 書くことを大事にしていればいるほど、 きっとよけいにつらい。
無責任に 「書き続けてほしいです」 なんて言うのは酷いことだと今の私は思う。 そんなのはただのエゴだ。 あんな苦しみを知っておきながら他人に味わえと言うのは鬼や悪魔の所業だ。 それでも私は言わずにはいられない。
いま文章を書いている皆さん、 どんな言葉でもいい。 書き続けていてください。 あなたの書いた言葉を大切にしてください。 その言葉はあなたの人生であり生き様であり魂であり、 かけがえのないあなたそのものなのだから。