人間の長い歴史のなかで一人の人間の挫折に大した意味などあろうはずがない。 それは過去数千年にわたる星の数ほどの挫折の一つに過ぎない。 とはいえ、 その事実が挫折を経験した者を楽にしてくれるわけでもない。 挫折はその経験者にとっては無二の決定的な出来事なのだ。 それは時に生活全体を支配する足枷となり、 自らを信じる力、 未来を信じる力を奪う。 挫折者は羽衣を奪われた天女のように地面に縛りつけられる。
自信とは不思議なものだ。 たかだか一つの精神状態に過ぎないのに、 それがないと簡単な事柄でさえ成し遂げるのが難しくなる。 しかも自信には確かな根拠がない。 能力がなくても自信にあふれている人がいるかと思えば、 十分能力があるにも関わらず全く自信のない人もいる。 聖書の中に 「信仰とは望んでいる事柄を確信し、 見えない事実を確認することです。」 (ヘブライ人への手紙 11:1) という言葉があるが、 自信の本質をついているように思える。 自信の力は目に見えないものを信じることにある。 この力を侮るべきではない。 この力こそが自分を他人に優先させる動機となる。 この力がなければ否定の厚い壁に立ち向かうことは出来ない。
人はどのようにして挫折を乗り越えるのだろう。 どのようにして失った (またはそもそも最初からなかった) 自信を取り戻すのだろう。 はっきり言えるのは、 挫折を乗り越えるのにきれいな道などないということだ。 正解はどこにもない。 他人の経験が自分にそのまま当てはまるわけではないし、 他人の期待通りに変われるわけでもない。 自分の期待通りに変わることだっておぼつかない。 今度こそと何回も思い、 何回も失敗する。 他人を失望させ自分も失望する。 他の人はちゃんと生きているのになぜ自分にはそれが出来ないのだろう、 と自己疑念に苛まれる。 生きていることがほとほと嫌になる。
挫折を乗り越えることの難しさは自分の思惑通りにいかないということだ。 スケジュール立案/実行/目標達成というサイクルは成り立たない。 私自身、 新卒で入社した企業を退職してから、 その 「挫折」 と折り合いをつけ新しい生き方を見つけるまでに 10 年以上かかった。 道を失った盲人のように右往左往する私の姿はさぞ滑稽だっただろう。 本人が必死だっただけになおさらに。
私の 「挫折」 の原因を一言で言えば 「力不足」 ということに尽きる。 もちろん、 実際にはもっと複雑な要因が絡み合っている。 過重労働、 人間関係、 管理体制の問題等並べ上げることは可能だ。 しかし、 限られた字数と時間のなかで真因を挙げるとすれば、 やはり 「力不足」 ということに行き着く。 確かに私は情熱を持って一生懸命働いていたが、 仕事上の問題を自力で解決する力がなかった。 その結果、 周囲の人に振り回され、 プロジェクト・リーダーとしての責任を果たせなかった。 仕事の現場で結果と結びつかない意欲はなんの意味もない。 課題解決能力のなさは成長課題として年次評価でも指摘されたことだった。 しかし、 当時の私は自分が責任を果たせていないことは痛いほど感じていながら、 それを乗り越えるためにどうしたらいいのかさっぱり分からなかった。 高い壁の前で呆然と立ち尽くすことしかできなかった。 自分の能力不足を日々見せつけられるのはしんどい。 週次会議でプロジェクトの進捗を上司に問われるたびに、 有効な対策を答えられないことにいたたまれなさを感じた。
壁を乗り越えられないまま仕事を辞めた結果、 根深い劣等感が私のなかに残った。 他の人の成長や活躍を劣等意識を感じずに眺めることはできなかった。
実のところ、 自分の中途半端さを見せられたのは、 この時が初めてではない。 大学でも同じ経験をした。 かろうじて単位を取って大学を卒業したけれど、 授業を何も理解することはできなかった。 期限を過ぎて提出した最終レポートも、 何も理解しないまま枚数だけ埋めたものだった。 私は、 聖書のなかの藁の家の人のように、 命からがら大学を逃げ出した。 その結果、 学士を得て大学を卒業したにも関わらず自分の専門について語れることはゼロだ。 しかも、 在学中過食症に陥って授業に出られないばかりか、 部屋の外に出るのも難しい日々が続いたのだから、 大学時代は私にとっての黒歴史と言っていい。
大学から社会人になる過程で私は高度な知識を得ることにことごとく失敗した。 それが私の挫折の中身であり、 劣等感の源泉だった。 私が 40 歳手前で資格試験を受験することを選んだ理由はここにある。 何か達成しないと前に進めない状態だったのだ。
ところで、 中途半端な自分に対する劣等感に悩んだのは私だけではない。 明治時代、 同じように海外留学をし、 同じように壁にぶち当たった邦人がいた。 その名は夏目金之助、 後の夏目漱石だ。 漱石は大学で英文学を三年間勉強したものの 「遂に文学は解らずじまい」 であることに煩悶し、 あやふやな態度で教師になって 「どうにかこうにか御茶を濁して」 日々をやり過ごしながら 「腹の中は常に空虚」 だったと 『私の個人主義』 で述べる。 私がこの講演録を最初に読んだのは、 弁理士試験合格後、 化学の学士を得ようと夜間大学に通っていた頃だった。 大学近くのワンルームで起居していた当時の私には彼の煩悶が自分のことのように感じられた。 (ワンルームが神楽坂にあったのでなおさら!) 彼の語る中途半端さや空虚さは 40 歳手前になっても何も成し遂げていない自分の虚しさに重なった。
漱石はどのように彼の空虚さを乗り越えたのだろうか。 彼の答えは明快で、 「何かに打ち当たるまで行く」 というものだ。 それは彼が自らの経験を通じて掴んだ答えだった。 官費留学生の彼は、 留学先のロンドンで 「文学はどういうものであるか、 その概念を根本的に自分で作り上げる」 ことを決意し、 それを実行したのだ。 正攻法とも言える、 特異な方法で。
漱石は 「自己本位」 の言葉を手に握ってから強くなったと語る。
しかし一旦外国へ留学する以上は多少の責任を新たに自覚させられるには極っています。 それでは出来るだけ骨を折って何かをしやうと努力しました。 しかしどんな本を読んでも依然として自分は嚢の中から出る訳には参りません。 この嚢を突き破る錐は倫敦中探して歩いても見付りそうになかったのです。 私は下宿の一間の中で考えました。 詰らないと思いました。 いくら書物を読んでも腹の足にはならないのだと諦めました。 同時に何のために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来ました。
この時私は始めて文学とはどんなものであるか、 その概念を根本的に自力で作り上げるより外に、 私を救う途はないのだと悟ったのです。 (『私の個人主義』)
私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。 彼ら何者ぞやと気慨が出ました。 今まで茫然と自失していた私に、 此所に立って、 この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。 (『私の個人主義』)
その時私の不安は全く消えました。 私は軽快な心を持って陰鬱な倫敦を眺めたのです。 比喩で申すと、 私は多年の間 懊悩した結果漸く自分の鶴嘴をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。 (『私の個人主義』)
漱石の死の 2 年前に語られたこの文章は私を勇気づけた。 私の選択は間違っていなかったのだ、 と信じ続けさせてくれた。 大学近くの日の差さないワンルームで、 パラノイア寸前の状態になりながら、 ロンドンの下宿で一人引き籠る留学生金之助の心情に自分を重ねた。 彼のおかげで惨めでもいいんだと思うことができた。 例え今惨めであっても最後までやり遂げられればそれでいい、 と。 そう思えることが希望だった。 漱石の言葉は、 暗いトンネルのなかの一筋の光として、 いつか私も自分の鶴嘴を鉱脈に掘り当てることができるのだという希望を与えてくれた。 その希望が、 パラノイア寸前であっても狂気に陥らずに自分を支えることを可能にしてくれたのだと思う。 そのおかげで逃げ出さずに最後まで成し遂げることができた。 それは、 最初の大学時代にはできなかったことだ。 最初の大学時代と、 2 回目の大学時代の違いは、 何かを成し遂げようと思ったら孤独に耐えるしか道はないのだと観念する覚悟の違いだ。 「何かに打ち当たるまで行く」 という漱石の言葉は、 その事実を私に確信させてくれた。
ところで、 私は漱石から仕事や人生のノウハウを学んだと言いたいわけではない。 そのような安直な解釈に収まりきらないことが彼の魅力なのだ。 考えても考えても汲み尽くせない、 そういう奥深さが彼にはある。 私は彼の言葉の意味を考えているうちに、 次第に迷宮に迷い込んでいった。 次回は、 私を勇気づけた漱石の留学について考えたい。