孤独の座標

連載第1回: 混沌——いつだって準備はできていない

アバター画像書いた人: K.G.ザムザ
2022.
04.22Fri

混沌——いつだって準備はできていない

初めに無があった。あるいは何もなかったのかもしれない。

私には分からない。なぜなら私は眠りの底にいたからだ。

 眠りの底から浮上する途上で、私は時空感覚が消滅した混沌のなかに放り出される。今はいつか、私は誰で、ここはどこか。自分を世界のなかに位置づける指標が失われて私はパニックする。目を開けば周囲の情景がかってに網膜にうつりこみ解像度が次第に上がっていくのだが、映し出されるイメージの意味に届きそうで届かない。意味という名の地面を求めて意識は空を切る。しかしほとんどの場合、混沌状態はすぐに消えて私は世界に引き戻される。時空感覚は、失われたことなど一度もなかったかのようにそこに戻っている——私はザムザ、ここは私の部屋、今日は月曜、仕事だ、やだなー、と現実が押し寄せてくる。

 無意識から覚醒にいたる道すじは、生れ落ちてから人間としての世界認識を獲得するまでの成長過程をハイスピードで再生しているかのようだ。あるいは、地球誕生前夜の原始スープ( primordial soup )を再体験しているのかもしれない。世界が未分化で、意味が形をなす前の混沌を。

 人は眠りから目覚めるとき、自分が誰なのかを思い出すことによって〈自分〉という存在を認識しているのではないか。目覚めるたびに自らの記憶をたどりなおすことによって〈私〉として新しく生まれなおしているのではないか。そんな思いにとらわれる。

 もちろん、毎回自分の記憶をすべてたどりなおすことは不可能だ。しかし、どのようなメカニズムによってかは分からないけれど、記憶は私がほかの誰でもない私であることを保証してくれる。もし今、急に記憶がなくなったら、私は軌道を外れた小型宇宙船のように天地のない広大な宇宙をさまよい続けるしかないだろう。

 しかし、ほかの誰でもない私とはいったい誰なのだろう。

 時どきそのような疑問に囚われて思考のスパイラルを滑り落ちる。答えを求めて情報の細糸をつなぎ合わせようとするが、努力は虚しく空回りして、こんがらがった糸の山が残るだけだ。

 自分が何者なのかをすべて思い出さなくてはならないとしたら気が狂ってしまうだろう。むしろ、すべてを思い出さなくていいから自分でい続けることができるのかもしれない。あるいは、無条件に過去とのつながりを信じていられるから、自分であることに自信を持てるのだろうか。

 私が、自分が誰だか分からないと不安に囚われるのは、自分の過去とのつながりを感じられないからだ。昔のことを思い出すことはできても、それはどこか遠い世界の出来事で、自分のこととは感じられない。その結果、今ここにいる自分自身の存在も稀薄に感じる。かつては血の通った色のある世界に生きていた。しかし、今は現実感のない透明な世界にいる。実際、友達の少ないひとり者が占拠できる世界というのはそういうものなのかもしれない。この傾向はコロナ禍で家にこもり切りの時間が増えてからますます顕著になった。時どきたまらなく不安になり、人としゃべりたくなることもあるけれど、何も感じないことも多く、そのことに我ながら驚く。それがいいことなのかはよく分からないけれど。

 今私は東京都内で専門職として働き、ひとり暮らしをしている。東京都の半分以上を占める 365 万の単独世帯の一つだ。

 現在の暮らしは、小さい頃の自分が想像していたものとはまるで違う。大学を卒業したばかりの頃に想像したものとも違う。大学を卒業したときはまだ周囲の同級生や同期の新入社員と同じ道を歩いていた。自分のために準備された明るい未来に向かっていると実感できた。そこには右肩上がりの設計図があり、私は世界に受け入れられていた。

 だが、私はその道にとどまり続けることができなかった。準備された輝かしい道を踏み外し、ダークサイドへと転落したのだ。その結果、現在私は 40 を過ぎて一人で生き、専門職として法律事務所で働いている。これは、私の将来のビジョンのどこにも含まれていなかった生活だ。ダークサイドへの転落というのは、企業を辞めたあとの私の文字通りの心象風景だ。昔の関係からも遠ざかった。光の世界の人々とは「会えない」という気持ちが強かったからだ。

 今の私には帰れる関係がどこにもない。橋を一つひとつ焼き落としながら進んできたから。かつての自分を葬ることによって生きてきたから。

 時どき、自分が過去も未来もない空間を漂っているような気持になる。それは非常に不安で孤独な感覚だ。まるで広大な宇宙に浮かぶ小型宇宙船のように。しかし、それがひとりで生きるために支払わなければいけない代償なのだろう。

 ひとつだけ確かなことは、今東京都には 365 万の単独世帯があるということだ。その中には学生もいれば高齢者もいる。しかし、大半は私のように働いて生計を立てているひとり身の男女だろう。自由であり孤独でもある私たちの歩む道はまだ定まっていない。

 大学を卒業して優良企業に就職し、年齢とともに出世するという職業上のビジョンと、結婚して家庭を持ち、子どもを育て、マイホームを購入するというプライベートなビジョンを両輪とする定型的な人生の青写真が有効性を失ったとき、青写真自体を持てなくなったとき、人は何を目的に生きていけばよいのだろう。昨日と今日の見分けがつかない終わりのない現在のなかで、私は目指すべき目標を持てずに宙を漂う。

 確固とした生活の形がみえないことは不安を伴う。目の前に私を必要とする他人がいないなかで自分の存在を意味づけることは難しい。とはいえ、ほかの生き方は考えられないのだから、自分が与えられた条件のなかで自分の存在の意味を見出すしかない。この混沌とした世界の中で自分を位置づけるためにはどうすればよいのか。その答えを探して私はさまよう。

 何か書いてみないかと誘われたとき、すぐに返事をすることができなかった。書きたいと思う一方で「まだ準備ができていない」と逡巡する気持ちがあったからだ。人前に出せる文章が書けるという自信がなかった。できることなら、もっとたくさんの本を読み、たくさんの文章を書き、たくさんの経験をして、十分に準備のできた自分でありたかった。でも、そんな自分にいつなれるのかは分からないし、一生なれない可能性もある。そもそも生まれてきたときだって準備できていたわけではなかった。だとしたら、今書き始めるしかないのではないか、そう思って書くことを決めた。自分の持っているものを出し切るつもりで書いていくので、是非おつきあいください。よろしくお願いします。

 隔週の連載なので次回は 2 週間後の金曜日の予定です。


専門職(法律)ときどき文筆家。合法的な宇宙人。