「第七の日に、 神は御自分の仕事を完成され、 第七の日に、 神は御自分の仕事を離れ、 安息なさった。」 (創世記2:2)
ゴールデンウィークの初日、 私は胸に一つのミッションを抱えて都心に向かう電車のなかにいた。
電車は、 薄曇り空の下、 町を抜け、 川を越え、 地下へ潜った。 休みとはいえ乗客は多く、 北千住につく頃には空席はなかった。
私は平日と同じように大手町で降りたが、 職場へは向かわなかった。 代わりに回れ右をしてホーム中央まで歩き、 ぱっくり開いた穴からさらに地下深くへと潜った。
数分後、 私は青山一丁目の駅にいた。 普段まったく来ることのない駅だ。 そもそも、 東京の最東端に居をかまえ山手線の東側で働く私が皇居以西に足を延ばすことはない。 その日も慣れ親しんだホームグラウンドを離れて落ち着かなかった。
しかし、 青山一丁目に降り立ったのには理由があった。
かつて通った翻訳学校をもう一度この目で見ること、 それが私のミッションだった。 十数年前、 企業退職後に通った思い出の学校を。
神が7日目に仕事を離れて安息したように、 私も新卒で入社した企業を退職した後、 休息した。 入社から6年目のことだった。 退職後の期間は、 人生で初めてと思える、 不安から解放された自由な時間だった。 〇〇しなくてはいけない、 という拘束がない状態を初めて味わった。 しかも、 翻訳の勉強は、 生産性と無関係に純粋に好きなことを学ぶことが許された滅多にないチャンスだった。 役に立つかどうかではなく、 好きなことをただ好きだからという理由で勉強してもいいということが楽しくて仕方がなかった。
青山一丁目に来るのは何年ぶりだろう。 学校をやめてから一度も訪れていない。
実際、 駅のホームには全く見覚えがなかった。 それでも半蔵門線のホームから銀座線のホームへと上ったところでおぼろげに記憶が蘇ってきた。 よく考えると当時は銀座線を用いていたのだった。 通学時、 同じ車両にクラスメートの一人が乗っていたのに、 物怖じして話しかけられなかったことも思い出した。
地上に出ると、 車の行き交う大通りが、 木々の連なりに囲まれただだっ広い空間を背景として視界に飛び込んできた。 青山通りだ。 歩道を右に進み、 外苑東通りを渡って右折。 最初の角を左折して一本奥の道に入る。 大通りの喧騒は退き、 閑静な住宅街が私を囲む。 確かにかつて通った道だ。 道を一本奥に入ることと最初の角を右折すること、 この二点は怪しい記憶として体に染みついている。 両脇の建物に見覚えはなかったものの、 道の雰囲気や曲った時に現れる風景はなんとなく覚えていた。
通学路を辿りなおしながらその界隈がいかに高級な住宅街であるかということに驚かされた。 道の両側には無機的な美しさの低層高級マンションが並んでいる。 赤坂の閑静な高級住宅街のなかに質素な翻訳学校があるというのも不思議な話だ。 だが、 現実感のない静かな住宅街の奥だからこそ、 外の世界を忘れて言葉の世界に没入できたのかもしれない。
私の受講した特別コースは、 週3日、 平日の昼間開講だったため、 受講者はみな仕事を辞めて参加していた。 みな次の道を模索していたが、 そのわりにはのんびりとしていて、 切羽詰まった感じはなかった。 文芸翻訳、 技術翻訳、 字幕翻訳の諸分野をカバーするその講座で言葉だけに向きあって過ごす日々は至福だった。 当時の生活は、 月水金は学校に通い、 火木土日は家で課題に取り組むという地味なものだった。 しかし、 そこにはリズムがあり、 充足感があった。 楽しみで読むような小説が教材になるのも嬉しかった。 ある時、 英訳された日本人作家の短編を和訳するという課題が出た。 それが村上春樹の作品だとは知らされていなかったのに、 なぜか仕上がった訳文はみな春樹だった。 それまで生きてきて、 勉強がただ純粋に楽しいという時間を過ごしたことがなかったので、 こんなに楽しくていいのだろうかと不安になるほどだった。
考えてみれば、 小学校1年生で義務教育を開始してから企業を中途退職するその時まで、 常に、 不安に駆り立てられながら見えない何かに向かって努力し続けてきた。 特に中学校に入って定期試験が始まってからは、 試験のたびに成績を落としてはいけないというプレッシャーにうなされた。 大学では試験のプレッシャーが極みに達し、 一生この緊張感から逃れられないのかと暗澹としたのを覚えている。 寮からキャンパスに向かう途中、 庭園の手入れをする庭師を見ながら、 いっそ庭師になってプレッシャーのない生活を送りたいと思ったものだ。
青山一丁目の小さな学校はそんな私に、 いい成績を取らなければいけない、 競争に勝たなければいけない、 という肩にのしかかる重圧から自由でいられる場所を与えてくれた。 その意味でその古い建物は休息の場所であり、 戦闘からの避難所であった。 たとえそれがお金で買った期間限定の休息であったにしても。
ヘブライ語で安息日を表すשבת (サバット) の語は、 仕事を止めることを意味するそうだ。 ユダヤ民族が安息日を定めたいきさつは知らないが、 放っておけば欲望に憑かれて際限なく働いて (働かせて) しまう人間の性向を熟知した優れた知恵だと思える。
休息とは、 働いたり、 家の用事をしたり、 誰かの要求に答えたりする必要がなく、 自分自身のために使えることが保証されている時間であり、 怠けているのではないかと不安にかられずに堂々と休める時間だ。 ユダヤ民族は戒律として安息日を定めることによって休息の時間を保証した。
私は休職中に翻訳学校に通うことによって休息を得た。 休息を実現するためには社会の要求を締め出す防御壁が必要だが、 赤坂の住宅街に居を据える学校は私の壁だった。 その壁のなかで、 私はそれまでの重圧から解放され、 再び息をすることができた。
3か月のコースが終了すると、 受講生はそれぞれの人生に戻り、 地上の楽園はあっさりと消滅した。 20人ほどいた受講生のうち翻訳の仕事についたものは5人もおらず、 憧れの文芸翻訳の仕事についたものはゼロだった。
私も保険会社のIT部門で派遣社員として働き始め、 一年後には特許事務所に移り、 やがて文芸翻訳の夢を捨てた。 代わりに国家試験の勉強を始め、 数年越しで弁理士となって今に至る。 資格は企業社会から脱落したもののせめてもの心の支えだ。 競争に追い立てられる毎日から自由でいたいという願望は貧困への不安の前で消し飛んだ。 かつて能力がないと烙印を押されることに対して感じていた恐れは、 貧困への恐れにとって代わっただけだった。 結局、 資本主義の強固なシステムから自由に生きることなどできはしない。
しかし、 翻訳学校で過ごした時間が無駄だったとは思わない。 利害損得を考えずに純粋に好きなことを勉強する時間の与えてくれた幸福感は私のなかに沈殿している。 実家のダイニングテーブルに向かって翻訳の課題と取り組んでいた時間は静けさに包まれていた。 その静けさは前線から退却することによってもたらされた心の静けさでもあった。
今、 学校は同じ場所にはない。 通学路を辿りなおした十数年後の私を待っていたのは、 空き家と化した学校跡と “Office For Rent” の看板だった。 しかし、 その翻訳学校で知った、 言葉と向かい合う時間の静かな安らぎの記憶は今も私のなかにある。
隔週の連載なので次回は 2 週間後の金曜日の予定です。