孤独の座標

連載第2回: 休息——前線から退却するとき

アバター画像書いた人: K.G.ザムザ
2022.
05.06Fri

休息——前線から退却するとき

第七の日に神は御自分の仕事を完成され第七の日に神は御自分の仕事を離れ安息なさった。」 創世記2:2

ールデンウィークの初日私は胸に一つのミッションを抱えて都心に向かう電車のなかにいた

 電車は薄曇り空の下町を抜け川を越え地下へ潜った休みとはいえ乗客は多く北千住につく頃には空席はなかった

 私は平日と同じように大手町で降りたが職場へは向かわなかった代わりに回れ右をしてホーム中央まで歩きぱっくり開いた穴からさらに地下深くへと潜った

 数分後私は青山一丁目の駅にいた普段まったく来ることのない駅だそもそも東京の最東端に居をかまえ山手線の東側で働く私が皇居以西に足を延ばすことはないその日も慣れ親しんだホームグラウンドを離れて落ち着かなかった

 しかし青山一丁目に降り立ったのには理由があった

 かつて通った翻訳学校をもう一度この目で見ることそれが私のミッションだった十数年前企業退職後に通った思い出の学校を

 神が7日目に仕事を離れて安息したように私も新卒で入社した企業を退職した後休息した入社から6年目のことだった退職後の期間は人生で初めてと思える不安から解放された自由な時間だった〇〇しなくてはいけないという拘束がない状態を初めて味わったしかも翻訳の勉強は生産性と無関係に純粋に好きなことを学ぶことが許された滅多にないチャンスだった役に立つかどうかではなく好きなことをただ好きだからという理由で勉強してもいいということが楽しくて仕方がなかった

 青山一丁目に来るのは何年ぶりだろう学校をやめてから一度も訪れていない

 実際駅のホームには全く見覚えがなかったそれでも半蔵門線のホームから銀座線のホームへと上ったところでおぼろげに記憶が蘇ってきたよく考えると当時は銀座線を用いていたのだった通学時同じ車両にクラスメートの一人が乗っていたのに物怖じして話しかけられなかったことも思い出した

 地上に出ると車の行き交う大通りが木々の連なりに囲まれただだっ広い空間を背景として視界に飛び込んできた青山通りだ歩道を右に進み外苑東通りを渡って右折最初の角を左折して一本奥の道に入る大通りの喧騒は退き閑静な住宅街が私を囲む確かにかつて通った道だ道を一本奥に入ることと最初の角を右折することこの二点は怪しい記憶として体に染みついている両脇の建物に見覚えはなかったものの道の雰囲気や曲った時に現れる風景はなんとなく覚えていた

 通学路を辿りなおしながらその界隈がいかに高級な住宅街であるかということに驚かされた道の両側には無機的な美しさの低層高級マンションが並んでいる赤坂の閑静な高級住宅街のなかに質素な翻訳学校があるというのも不思議な話だだが現実感のない静かな住宅街の奥だからこそ外の世界を忘れて言葉の世界に没入できたのかもしれない

 私の受講した特別コースは週3日平日の昼間開講だったため受講者はみな仕事を辞めて参加していたみな次の道を模索していたがそのわりにはのんびりとしていて切羽詰まった感じはなかった文芸翻訳技術翻訳字幕翻訳の諸分野をカバーするその講座で言葉だけに向きあって過ごす日々は至福だった当時の生活は月水金は学校に通い火木土日は家で課題に取り組むという地味なものだったしかしそこにはリズムがあり充足感があった楽しみで読むような小説が教材になるのも嬉しかったある時英訳された日本人作家の短編を和訳するという課題が出たそれが村上春樹の作品だとは知らされていなかったのになぜか仕上がった訳文はみな春樹だったそれまで生きてきて勉強がただ純粋に楽しいという時間を過ごしたことがなかったのでこんなに楽しくていいのだろうかと不安になるほどだった

 考えてみれば小学校1年生で義務教育を開始してから企業を中途退職するその時まで常に不安に駆り立てられながら見えない何かに向かって努力し続けてきた特に中学校に入って定期試験が始まってからは試験のたびに成績を落としてはいけないというプレッシャーにうなされた大学では試験のプレッシャーが極みに達し一生この緊張感から逃れられないのかと暗澹としたのを覚えている寮からキャンパスに向かう途中庭園の手入れをする庭師を見ながらいっそ庭師になってプレッシャーのない生活を送りたいと思ったものだ

 青山一丁目の小さな学校はそんな私にいい成績を取らなければいけない競争に勝たなければいけないという肩にのしかかる重圧から自由でいられる場所を与えてくれたその意味でその古い建物は休息の場所であり戦闘からの避難所であったたとえそれがお金で買った期間限定の休息であったにしても

 ヘブライ語で安息日を表すשבתサバットの語は仕事を止めることを意味するそうだユダヤ民族が安息日を定めたいきさつは知らないが放っておけば欲望に憑かれて際限なく働いて働かせてしまう人間の性向を熟知した優れた知恵だと思える

 休息とは働いたり家の用事をしたり誰かの要求に答えたりする必要がなく自分自身のために使えることが保証されている時間であり怠けているのではないかと不安にかられずに堂々と休める時間だユダヤ民族は戒律として安息日を定めることによって休息の時間を保証した

 私は休職中に翻訳学校に通うことによって休息を得た休息を実現するためには社会の要求を締め出す防御壁が必要だが赤坂の住宅街に居を据える学校は私の壁だったその壁のなかで私はそれまでの重圧から解放され再び息をすることができた

 3か月のコースが終了すると受講生はそれぞれの人生に戻り地上の楽園はあっさりと消滅した20人ほどいた受講生のうち翻訳の仕事についたものは5人もおらず憧れの文芸翻訳の仕事についたものはゼロだった

 私も保険会社のIT部門で派遣社員として働き始め一年後には特許事務所に移りやがて文芸翻訳の夢を捨てた代わりに国家試験の勉強を始め数年越しで弁理士となって今に至る資格は企業社会から脱落したもののせめてもの心の支えだ競争に追い立てられる毎日から自由でいたいという願望は貧困への不安の前で消し飛んだかつて能力がないと烙印を押されることに対して感じていた恐れは貧困への恐れにとって代わっただけだった結局資本主義の強固なシステムから自由に生きることなどできはしない

 しかし翻訳学校で過ごした時間が無駄だったとは思わない利害損得を考えずに純粋に好きなことを勉強する時間の与えてくれた幸福感は私のなかに沈殿している実家のダイニングテーブルに向かって翻訳の課題と取り組んでいた時間は静けさに包まれていたその静けさは前線から退却することによってもたらされた心の静けさでもあった

 今学校は同じ場所にはない通学路を辿りなおした十数年後の私を待っていたのは空き家と化した学校跡とOffice For Rentの看板だったしかしその翻訳学校で知った言葉と向かい合う時間の静かな安らぎの記憶は今も私のなかにある

 隔週の連載なので次回は  2  週間後の金曜日の予定です


専門職(法律)ときどき文筆家。合法的な宇宙人。