孤独の座標

連載第10回: 時間——地球における一時的な逗留

アバター画像書いた人: K.G.ザムザ
2022.
09.09Fri

時間——地球における一時的な逗留

われわれに与えられているのは以下のものだけだと思われる宇宙において住居を建てる場所を確保するための地球つまり空間)、 滞在するための時間としての生涯つまり時間)、 ここで一時的に逗留し住まいがよくできていて地球や宇宙や生命や人間のようなものが存在することに驚かせるに至る理性」。 ハンナ・アーレント思索日記  I』)

うやく連載も最終回だ

 長い夢を見ていたような気がする

 風景が走馬灯のように通り過ぎ私はもといた場所に立っている

 非日常的な日常は変わらずに続いており月曜日になれば今までずっとしてきたように電車で仕事に向かうこの 11 年間通い続けた大手町へ

 通勤時間の最寄駅はいつも混んでいるマスクをつけた人の波に飲まれて階段を上るいつからか駅改修工事が始まっておりホームが狭くなっている電車待ちの列に並ぶと正面に今までと同じ法要用ホールが見える左を向くと2年前にはなかった高層マンションが既存の高層マンションを塞ぐようにして建つ建設の過程を見てきたはずなのに思い出すことができない昔からそこに建っていたとしか思えない

 町は変化し記憶は塗り替えられていく

 そのうち社会に秩序が戻りこの2年間の出来事も忘れられるだろうだがもとに戻ることはできないこの 2 年間で私たちは何かを得て何かを失った得たものを手放すことはできない失ったものは戻ってこない近所で閉店した店を見るたびに痛みが走るそのレストランが開業出来なくなり店先で廉価で食材を叩き売りする最後の日々を見てきただけになおさら中学生くらいの娘さんが店番をしていた閉店後彼らはどこへ行ったのだろう裏街道の古い商店街の個人スーパーも閉店した駅から離れた古い商店街は以前から寂れており残った店舗が店をしまうのも時間の問題だったコロナ禍は店をしまうのにいい時期だったのかもしれない前々から分かっていたことだがいざそうなると気持ちが沈む

 いつの時代も新しいものが古いものにとって変わってきた暴力的な変化の繰り返し歴史とはそういうものだそう自分に言い聞かせる

 終わることは難しい終わることと別れることが苦手な私は自分から蓋を閉めて次に進むことができない

 今も終わる準備ができておらず戸惑っている連載第一回でいつだって準備はできていないと書いたけれどその言葉は今にこそふさわしい終わりというのは何かが成し遂げられた状態のはずだが実際にはまだ何も成し遂げられていない連載開始の時と同じ中途半端な私のままだ

 連載開始から数ヶ月を経て私はもといた場所に立っている

 しかしそれは最初と完全に同じ場所ではない

 この数ヶ月間私は自分の記憶を辿りながら自分は何者なのだろうと考えてきた現在の地点に立って記憶の断片をつなぎ合わせることで私という人間がどのように作り上げられてきたかを理解しようとしたまるで積み木を積み上げるように注意深く何を捨て何を残すのかを選択することで自分の過去に意味づけをしてきたノスタルジーに浸るためではなく未来を生きるために

 連載第 5 回で挫折について少し触れたが挫折とは信じていた未来が突然断ち切られることだと思うあとには夢の残骸しか残らない強く信じていればいるほど痛手は大きい未来が見えなくなり呆然と立ち尽くすしかできない前進するには破壊された地点から新しいレールを敷くしかない古い線路に接続し移動に新しい意味を与えてくれる線路を新しい未来を構築するための力を与えてくれるのが過去の記憶だ未来は一つではない何回でも壊し何回でも新たに作り上げることができるその都度過去を語り直しながら再構築の力と意志をもつ限り人はどんな変化にも耐えて生きていくことができる破壊と再生のプロセスは死ぬまで終わらない私はそう信じる

 連載のなかで自分の過去を掘り起こすことは私にとって新たな自分を発見することでもあった書くことは自分に深く降りることを必要としたがそうすることで初めて見えたことがあったそれが新たな希望につながった

 たまに寝床に横たわって天井を見上げながら自分がこの部屋で一人で生きていることが信じられなくなる部屋は私だけの空間で誰も侵入することはできない壁とドアで外界から隔てられた空間のなかで私の肉体と精神は自由だ何にも拘束されず誰をも気にしなくていい60 平米の小さな空間のなかで私は完全に自分だけのものだ好きなように体を動かしたり考えに浸ったりすることができる

 自分だけの空間をもつということは心の中に自分だけの部屋をもつことだと思う人の目をまったく気にせず好き勝手に動き回り考えに耽ることができることは心を自由にしてくれる心の中に他人の侵入を受けない私だけの領域が生まれる自分の選択や動作を誰に説明する必要もないそのような自由を私はこの歳になってやっと手に入れた

 思えばここに至るまでの道は長かったまたそれは自分の力を超えた多くの偶然に支えられている

 部屋の空間内で自由が可能なのは私が家賃を払っているからであり私が家賃を払えるのは賃金を払ってくれる雇用主がいるからだ一人前の賃労働者として社会のなかで働いている自分が嘘のように思えるこの私が? 働いている? 何もないところから自力でお金を稼ぎ出せるような人間では到底ないのに親の庇護下にあった高校生の私と社会人の私とのあいだで何かが変わったわけではない特別な能力を身につけたわけでも別人に変身したわけでもない同学年の一群とともに準備された流れに乗って押し出されるように就職し給料を得る身分になったその流れのなかで私は求められることをしてきただけだ周囲の人々を真似しながら履歴書を書き試験を受け面接に向ったそのなかでたまたま社会に受け入れられ大企業から内定を得ることができた

 就職に至るまでの道を考えてもたまたま日本に生まれたまたま東京に住みたまたま教育熱心な親のもとでいい教育を受けることができたというだけだそれら条件のどれ一つとして自力で得たものではない低開発国で生まれていたら東京以外の土地で育ったら異なる親のもとで生まれたらまったく違う人生だっただろう

 企業に勤めていた頃女友達数人とルームシェアをしていた総合職は私一人で他の人たちは皆派遣で働いていた契約を切られて次の仕事を見つけるのに苦労している人もいた彼女たちはいつもお金のやりくりに困っていた情報が限られ安易な広告に釣られる友人を見てなぜ自分だけ彼女たちにはない特権を得ているのか悩んだ彼女たちより私が人間として優れているところなど何一つないのに

 生まれ落ちた環境によって人生はまったく変わってしまう環境を選んで生まれてくることはできないのに環境によって人生が規定されてしまう不公平さ偶然の出会い偶然のチャンスによって成功していく人々偶然の出会いの恩恵を受けてきたのは私も同じだ人生がどん底の時私を信じて道を示してくれた人がいたから這い出すことができたその人がいなければどうしていいか分からずにずっと悶々としいただろうと思う

  SNS を通じて他人の生活が見えやすくなるにつれて不公平さをやりきれなく思う思いは強くなる

 偶然手に入れたものは偶然失う転落はあっという間だ事故病気失業倒産いつ働けなくなるかなんて分からない虚弱体質で生活力のない私は将来への不安も人一倍大きい

 しかし現在の私には仕事があり自分だけの部屋がある今の私にできることは変わらない日常を繰り返すことだけだ

 視界を遮るように電車がホームに滑り込む私は電車に乗り込み扉の脇に立つチャイムの音ともに扉が閉まり列車が動き出す新しい 1 日が始まる

 この連載を読んで下さった方々コメントを下さった方々書くための場所を提供してくださった杜昌彦さんへ心からの感謝を込めて

2022 年秋 東京都葛飾にて  K.G. ザムザ


専門職(法律)ときどき文筆家。合法的な宇宙人。