われわれに与えられているのは以下のものだけだと思われる。 宇宙において住居を建てる場所を確保するための地球 (つまり空間)、 滞在するための時間としての生涯 (つまり時間)、 ここで一時的に逗留し、 住まいがよくできていて、 地球や宇宙や生命や人間のようなものが存在することに驚かせるに至る 「理性」。 (ハンナ・アーレント 『思索日記 I』)
ようやく連載も最終回だ。
長い夢を見ていたような気がする。
風景が走馬灯のように通り過ぎ、 私はもといた場所に立っている。
非日常的な日常は変わらずに続いており、 月曜日になれば、 今までずっとしてきたように電車で仕事に向かう。 この 11 年間通い続けた大手町へ。
通勤時間の最寄駅はいつも混んでいる。 マスクをつけた人の波に飲まれて階段を上る。 いつからか駅改修工事が始まっており、 ホームが狭くなっている。 電車待ちの列に並ぶと正面に今までと同じ法要用ホールが見える。 左を向くと、 2年前にはなかった高層マンションが、 既存の高層マンションを塞ぐようにして建つ。 建設の過程を見てきたはずなのに、 思い出すことができない。 昔からそこに建っていたとしか思えない。
町は変化し記憶は塗り替えられていく。
そのうち社会に秩序が戻り、 この2年間の出来事も忘れられるだろう。 だが、 もとに戻ることはできない。 この 2 年間で私たちは何かを得て何かを失った。 得たものを手放すことはできない。 失ったものは戻ってこない。 近所で閉店した店を見るたびに痛みが走る。 そのレストランが開業出来なくなり、 店先で廉価で食材を叩き売りする最後の日々を見てきただけになおさら。 中学生くらいの娘さんが店番をしていた。 閉店後、 彼らはどこへ行ったのだろう。 裏街道の古い商店街の個人スーパーも閉店した。 駅から離れた古い商店街は以前から寂れており、 残った店舗が店をしまうのも時間の問題だった。 コロナ禍は店をしまうのにいい時期だったのかもしれない。 前々から分かっていたことだが、 いざそうなると気持ちが沈む。
いつの時代も新しいものが古いものにとって変わってきた。 暴力的な変化の繰り返し。 歴史とはそういうものだ。 そう自分に言い聞かせる。
終わることは、 難しい。 終わることと別れることが苦手な私は、 自分から蓋を閉めて次に進むことができない。
今も、 終わる準備ができておらず、 戸惑っている。 連載第一回で 「いつだって準備はできていない」 と書いたけれど、 その言葉は今にこそふさわしい。 終わりというのは何かが成し遂げられた状態のはずだが、 実際にはまだ何も成し遂げられていない。 連載開始の時と同じ中途半端な私のままだ。
連載開始から数ヶ月を経て、 私はもといた場所に立っている。
しかし、 それは最初と完全に同じ場所ではない。
この数ヶ月間、 私は自分の記憶を辿りながら自分は何者なのだろうと考えてきた。 現在の地点に立って、 記憶の断片をつなぎ合わせることで、 私という人間がどのように作り上げられてきたかを理解しようとした。 まるで積み木を積み上げるように注意深く、 何を捨て何を残すのかを選択することで、 自分の過去に意味づけをしてきた。 ノスタルジーに浸るためではなく、 未来を生きるために。
連載第 5 回で挫折について少し触れたが、 挫折とは信じていた未来が突然断ち切られることだと思う。 あとには夢の残骸しか残らない。 強く信じていればいるほど痛手は大きい。 未来が見えなくなり、 呆然と立ち尽くすしかできない。 前進するには、 破壊された地点から新しいレールを敷くしかない。 古い線路に接続し、 移動に新しい意味を与えてくれる線路を。 新しい未来を構築するための力を与えてくれるのが、 過去の記憶だ。 未来は一つではない。 何回でも壊し、 何回でも新たに作り上げることができる。 その都度、 過去を語り直しながら。 再構築の力と意志をもつ限り、 人はどんな変化にも耐えて生きていくことができる。 破壊と再生のプロセスは死ぬまで終わらない。 私はそう信じる。
連載のなかで自分の過去を掘り起こすことは私にとって、 新たな自分を発見することでもあった。 書くことは自分に深く降りることを必要としたが、 そうすることで初めて見えたことがあった。 それが新たな希望につながった。
たまに寝床に横たわって天井を見上げながら、 自分がこの部屋で一人で生きていることが信じられなくなる。 部屋は、 私だけの空間で、 誰も侵入することはできない。 壁とドアで外界から隔てられた空間のなかで私の肉体と精神は自由だ。 何にも拘束されず、 誰をも気にしなくていい。 60 平米の小さな空間のなかで私は完全に自分だけのものだ。 好きなように体を動かしたり、 考えに浸ったりすることができる。
自分だけの空間をもつということは、 心の中に自分だけの部屋をもつことだと思う。 人の目をまったく気にせず、 好き勝手に動き回り、 考えに耽ることができることは、 心を自由にしてくれる。 心の中に、 他人の侵入を受けない私だけの領域が生まれる。 自分の選択や動作を誰に説明する必要もない。 そのような自由を私はこの歳になってやっと手に入れた。
思えばここに至るまでの道は長かった。 また、 それは自分の力を超えた多くの偶然に支えられている。
部屋の空間内で自由が可能なのは、 私が家賃を払っているからであり、 私が家賃を払えるのは、 賃金を払ってくれる雇用主がいるからだ。 一人前の賃労働者として、 社会のなかで働いている自分が嘘のように思える。 この私が? 働いている? 何もないところから自力でお金を稼ぎ出せるような人間では到底ないのに。 親の庇護下にあった高校生の私と社会人の私とのあいだで何かが変わったわけではない。 特別な能力を身につけたわけでも、 別人に変身したわけでもない。 同学年の一群とともに、 準備された流れに乗って押し出されるように就職し、 給料を得る身分になった。 その流れのなかで私は、 求められることをしてきただけだ。 周囲の人々を真似しながら、 履歴書を書き、 試験を受け、 面接に向った。 そのなかでたまたま社会に受け入れられ、 大企業から内定を得ることができた。
就職に至るまでの道を考えても、 たまたま日本に生まれ、 たまたま東京に住み、 たまたま教育熱心な親のもとでいい教育を受けることができた、 というだけだ。 それら条件のどれ一つとして自力で得たものではない。 低開発国で生まれていたら、 東京以外の土地で育ったら、 異なる親のもとで生まれたら、 まったく違う人生だっただろう。
企業に勤めていた頃、 女友達数人とルームシェアをしていた。 総合職は私一人で、 他の人たちは皆、 派遣で働いていた。 契約を切られて次の仕事を見つけるのに苦労している人もいた。 彼女たちはいつもお金のやりくりに困っていた。 情報が限られ、 安易な広告に釣られる友人を見て、 なぜ自分だけ彼女たちにはない特権を得ているのか悩んだ。 彼女たちより私が人間として優れているところなど何一つないのに。
生まれ落ちた環境によって人生はまったく変わってしまう。 環境を選んで生まれてくることはできないのに、 環境によって人生が規定されてしまう不公平さ。 偶然の出会い、 偶然のチャンスによって成功していく人々。 偶然の出会いの恩恵を受けてきたのは私も同じだ。 人生がどん底の時、 私を信じて道を示してくれた人がいたから這い出すことができた。 その人がいなければ、 どうしていいか分からずにずっと悶々としいただろうと思う。
SNS を通じて他人の生活が見えやすくなるにつれて、 不公平さをやりきれなく思う思いは強くなる。
偶然手に入れたものは偶然失う。 転落はあっという間だ。 事故、 病気、 失業、 倒産。 いつ働けなくなるかなんて分からない。 虚弱体質で生活力のない私は、 将来への不安も人一倍大きい。
しかし、 現在の私には、 仕事があり、 自分だけの部屋がある。 今の私にできることは変わらない日常を繰り返すことだけだ。
視界を遮るように電車がホームに滑り込む。 私は電車に乗り込み、 扉の脇に立つ。 チャイムの音ともに扉が閉まり、 列車が動き出す。 新しい 1 日が始まる。
この連載を読んで下さった方々、 コメントを下さった方々、 書くための場所を提供してくださった杜昌彦さんへ心からの感謝を込めて。
2022 年秋 東京都葛飾にて K.G. ザムザ