空白の時間が怖い。
朝、 眠りの底から浮上して薄ぼんやりした意識のなかで自分がどこにいるのかを掴もうとする。 週末だと気づいて最初に感じるのは喜びだ。 しかしたちどころに不安に変わる。 伸縮自在な空白の時間が不穏な塊として私の前に立ちはだかる。 どう過ごしていいか分からない自由な 48 時間。 やりたいことがない訳ではない。 その逆だ。 やりたいことはいっぱいある。 ただ、 確固としたスケジュールがないことが私をぐらつかせるのだ。 つかまるものを求めてツイッターを開く。 もちろん、 そこに答えなんてない。 そんなことは最初からわかっている。 だが人差し指は救いを求めてスクロールを続ける。 下へ下へと流れるアイコン。 何でもいい。 誰でもいい。 ちょっとした刺激さえあれば、 きっと私は動き出せる。 まるで依存症患者のように、 私は、 あるはずのない救いを求めて虚しく腕の自動運動を続ける。
ツイッターは決して私を満たしてはくれない。 それは分かっている。 なのに⋯⋯。 なのに、 欠乏感を満たそうと虚しい努力を止められない。 完全な泥沼。 あと 5 分があと 10 分になり、 気がついたら 1 時間が経っている。 最悪の場合、 顔を上げたらもう昼前ということもある。
怖い話を読んだ。 ラットの実験の話だ。 1953 年、 モントリオールでマギル大学の博士研究員だったピーター・ミルナーとジェイムズ・オールズは、 偶然ラットの脳内の快感回路に電極を差し込む実験を行った。 その結果は下記の通りだ。
オールズとミルナーはこの箱 (ラットを入れた箱) に細工を施し、 レバーを押すと、 埋め込まれた電極を通じて直接自分の脳に電気刺激が届くようにした。 その結果生じたのは、 おそらく行動神経科学実験史の中で最もドラマチックな出来事だった。 ラットは自分の脳を刺激するために、 1 時間に 7000 回ものハイペースでレバーを押し続けたのだ。 (リンデン、 2012) 1
快感回路と依存症は密接に結びついている。 続いて記載されるラットの行動は、 依存症患者の行動に極似している。
その後行われた一連の実験から、 ラットは食物や水以上に、 快感回路の刺激を選ぶことが判明した (空腹でも、 喉が渇いていても、 レバーを押し続けた)。 自分の脳を刺激しているオスは、 近くに発情期のメスがいても無視したし、 レバーにたどり着くまでに足に電気ショックを受ける場所があっても、 そこを何度でも踏み越えてレバーのところまで行った。 子どもを産んだばかりのメスのラットは、 赤ん坊を放置してレバーを押し続けた。 なかには他の活動を一切顧みず、 1 時間 2000 回のペースで 24 時間にわたって自己刺激を続けたラットもいた。 そのようなラットは、 放っておくと餓死してしまうので、 装置から外してやらなければならないほどだった。 (リンデン、 2012)
これは鏡に写る私の姿なのだろうか。 私は化学反応に支配された土塊に過ぎないのか。 人間とはそんなに脆弱なものなのか。
自己嫌悪が限界に達して画面を閉じる。 自分の意志の弱さに嫌気がさす。 しかし、 依存症は意志の問題ではなく病気なのだと信田さよ子は指摘する (信田、 2000) 2。 回復のためには相手から完全に離れるしかないとも。 私は病気なのだろうか。 ツイッターあるいはネットから完全に離れなければいけないのか。 そんなこと可能なのか。 先日のツイッター接続障害の時間を思い返す。 朝起きてツイッターが繋がらなかった時の動揺。 数分置きに接続をチェックする私は明らかに落ち着きを失っていた。 自分の意思と無関係に体が動いていた。 まるで人格が乗っ取られたかのように。 そのあり様は挙動不審としか言いようがない。 まるで禁断症状の中毒患者だ。 これは確かに依存性の初期症状だ。 なんでそうなってしまうのだろう。
ツイッターから身を引き剥がすとようやく一日が始まる。 洗濯機を回し、 朝食を取り、 食器を洗い、 図書館に行く。 週末の図書館通いは私の習慣だ。 古い本を返し、 新しい本を借りる。 全く読まないまま返す本も多い。 それでも図書館に行かずにはいられない。 家にずっと留まっていることができないのだ。 家で過ごすスケジュールのない時間は不安でたまらない。 だから逃げ出す。 不安の空気の圏外に。 不安の追いかけてこない場所に。 図書館は避難所の一つだ。 ここはただの避難所ではない。 周囲に結界が張られた聖域だ。 そのなかに一歩足を踏み入れると時間が止まる。 書架に並ぶ星の数ほどの書物が時間を吸い取ってしまうのだ。 結界のなかには他人の目も入り込めない。 図書館の壁のなかで私の神経は落ち着く。
夜間大学に通っていた頃、 土曜日は終日、 大学図書館にこもっていた。 開館と同時に入館し、 書架の奥の特等席を陣取って、 必要な資料をかき集め、 ノートパソコンを開いてレポートを書く。 調べ物が必要になったら書架のあいだを練り歩いて資料を探す。 昼食時は持参した弁当をラウンジで食べ、 しばらく休憩したのちに席に戻って閉館間際までレポートを書く。 書架の森の奥の穴蔵は私の隠れ家だった。 教室にも職場にも居場所のなかった私も図書館のなかでは息をつくことができた。 周囲の冷たい目も穴蔵の奥までは届かなかった。
大学図書館での缶詰の一日はあっという間に過ぎ、 生産的だった。 それは安心して一人になれたからであると同時に、 それ以外のオプションがなかったからでもある。 というのも、 毎週レポートの締切があり、 平日は仕事をしていたので、 土曜日以外に集中してレポートを書ける日はなかったのだ。 そしてレポートを書くのは時間がかかる。 だから、 集中するしかなかった。 締切が一番の駆動力だった。 でも、 土曜日一日集中できても時間は足りなかった。 他の教科の予復習の時間が満足に取れず理解が追いつかなかった。 レポートがなければ他の勉強ができるのに、 と何度思ったことか。 しかし、 大学を卒業して土日の時間が自由になった今、 他の勉強をするかといえば、 何もしていない。
それにしても、 こうして振り返ってみると自分がいかに自立心のない人間なのかが分かる。 結局、 強制されなければ何もできないのだ。 自主的に何かを達成したことなんて一度もない。 外部に枠組みがあって、 強制されることで、 初めて動ける。 受験勉強だってそうだったし、 大学だってそう。 私はどうしようもなく芯のない人間だ。
芯のない私は、 不安から逃れるためにツイッターを開く。 不安は不快だから。 と、 ここまで考えてハッと気づく。 そうか。 依存症が快感を求める行動の反復なのだとしたら、 依存症から脱するためには不快感を受け入れるしかないのだ。 空白の時間は不快。 勉強も仕事も不快。 空白な時間の不快が不安による不快だとしたら、 勉強と仕事の不快は分からないことによる不快だ。 勉強でも仕事でも理解できない問題にぶち当たると頭が真っ白になり、 その場から逃げ出したくなる。 受験勉強中も、 なかなか理解できない内容につまずくたびに 「もうやだー!」 と発狂していた。 いやいや期の幼稚園児のように。
分からない=不快
この等式に気づいた時、 「本を読める人というのは、 すべてがわかる “賢い人” なのではなくて、 わからないことを恐れない人のことを言う。」 という以前読んだ一文の意味が鮮明になった (芦田、 2006) 3。 本記事に促して 「本を読める人というのは、 すべてがわかる “賢い人” なのではなくて、 わからないという不快を恐れない人のことを言う。」 と言い換えてみるとよりはっきりする。 今までの私は 「わからないところで断念」 していた。 わからない状態が気持ち悪くて耐えられなかったからだ。 でも、 その気持ち悪さを保持し続けることができたらどうか。 上記文章の著者によれば、 それが 「読書の境目」、 つまり、 難しい本を読むための方法だということだ。 もし彼の言う通りであるのなら、 それは読書にかぎった話ではないのではないか。 勉強も仕事も同じなのではないか。 そんな予感が芽生える。
空白の時間も不快、 勉強も仕事も不快。 しかし、 後者が前者と決定的に異なる点がある。 それは、 「わからないという不快」 はやがて 「わかるという快」 に変わるという点だ。 そこには遅れてやってくる快感がある。 ということは、 快感を味わうために不快感を持ちこたえなくてはいけないということだ。 目標の達成は目標に未達の状態に先行されるのだから。
快感原則に従うと、 即時に効く快感が優先される。 自然にしていれば、 毎回即効性の高い快感に脳のスイッチが入る。 そのため、 わかるという快の出番はいつまで経っても回ってこない。
しかし、 人間は単に快感回路に支配されたロボットではない。
では、 何がこの自然な反射的な流れを変えるのか。 そこから脱したいと思わせる、 より大きな不快感だ。 自分の置かれている状態を嫌だと心底思える経験が必要だ。 ある小説家のインタビュー記事で彼の浪人生時代について読んで、 そう確信した。 彼は浪人生時代、 予備校の自習室が閉まるまで、 帰りの電車の中で、 そして帰り着いた家で、 必死に勉強し模試で高成績を維持していたが、 それは周りのカップルに負けるのが悔しかったからだと語る。 「ほんとにずっと勉強しかしてなくて恋人ができたこともない人間が模試でカップルに負けるって、 マジでヤバいことなんですよ。 それは死そのものなんです。」 と彼は語る (ナニヨモ、 2022) 4。 ふと、 ロンドンで下宿にこもって神経衰弱になるまで勉強をした夏目漱石を思い浮かべる。 漱石の場合、 英文学を専門としながら英文学をまったく理解できない中途半端な自分への嫌気、 そして英国人に囲まれて感じる東洋人としての劣等感から、 追い立てられて勉強に向かった。 どちらの場合も、 自尊心を打ち砕かれるという最大級の不快を味わい 「死」 に抗うために駆り立てられた。
この寸暇を惜しんで何かをしなくてはと駆り立てるエネルギーこそが快感回路を乗り越えさせるのではないか。 そのような衝動が、 自尊心の崩壊という傷によってもたらされるのは興味深い。 傷の痕跡のなかにその人の個性の根拠があると思える。
空白の時間は怖い。 一人暮らしだと、 自分を必要とする人がいないから余計に、 空白の空虚さが身に迫る。 不安だからつい手近な刺激に手を出す。 刺激はちまたに溢れている。 でもそれらは私を満たしてくれるわけではない。 自己嫌悪が残るだけだ。 そうならないためには空白の時間を別のもので埋めるしかない。 しかし、 何によって? それを見つけようとする時、 改めて個人的な負の経験の価値が浮かび上がる。 マイナスの経験のなかに 〈自分の個性の根源〉 があるのだ。